第10話 ー『社長との夕食』
第10話 ー『社長との夕食』
2026年4月13日(月)——午後5時30分。
恵比寿のマンション。
樹は寝室の鏡の前に立ち、新しいシャツの襟を整えていた。二日前に表参道で買った、完璧なシルエットの白いシャツ。その上に、フォーマルすぎず、しかしきちんと見えるネイビーのブレザー。濃いグレーのスラックス、新品の黒い革靴、そして手首には静かに時を刻むパテック・フィリップ。
彼は鏡の中の自分を見つめた。
「……こんなにちゃんとした格好をしたのは初めてだ。」
サラリーマンだった二年間、彼の最高の服装はデパートの安物スーツだった。今、彼は高級マンションに立ち、かつてのアパートの一年分の家賃に相当する服を身にまとっている。
スマホが震えた。冴からのメッセージだ。
「高峰さんは19時にレストランに到着されます。18時15分にマンションのロビーでお迎えします。」
樹は短く返信した。
「結構です。自分で行きます。」
彼はスマホをポケットにしまい、リビングへ向かった。部屋の隅には、今朝届いた大きな箱がある。二日前に買ったロールス・ロイス・スペクターのキーが入っている。
樹はそのキーを手に取った。普通のキーではなく、中央にRRのロゴが入った長方形のフォブだ。
「……高級車なんて、運転したことない。」
彼はエレベーターに乗り、一階へ降り、地下駐車場へ向かった。そこに彼の新しい車が停めてある。
駐車場の隅、柔らかなスポットライトの下で、漆黒のロールス・ロイス・スペクターが宝石のように輝いていた。シャープなラインと象徴的なフロントグリルは、まるで乗り物というより彫刻のように見える。内装はクリーム色のレザーとダークウッドが、まるで応接間のようなエレガントな雰囲気を醸し出していた。
樹はその車の前に立ち、無表情で見つめた。
「……これが俺のものか。」
彼はドアを開けた。蝶番は音もなく滑らかに動く。そしてドライバーズシートに座った。レザーは柔らかく、シートは自動的に彼の体にフィットする。彼はスタートボタンを押した。電気モーターはほとんど神秘的な静けさで始動した。
樹はハンドルを見つめ、そしてアクセルを踏んだ。
車は音もなく前進した。
「……変な感じだ。」
彼は駐車場を出て、夕方の恵比寿の街へと入っていった。外では人々が歩道を歩いているが、誰も彼を見ていない。その車はあまりにもエレガントで、あまりにも静かで、普通の乗り物とは思えないほどだった。
樹はダッシュボードのナビに従い、銀座へ向けて車を走らせた。
車内では、彼は別の世界にいるように感じた。エンジン音もない。振動もない。ただ快適な静けさ。雲の上を飛んでいるかのようだ。
「……これが贅沢ってやつか。」
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午後6時30分——銀座、懐石料理「黒木」。
そのレストランは銀座の一角にあるエレガントなビルの一階にあった。大きな看板はない。派手なショーウィンドウもない。ただ、濃い色の木製の扉と、その脇に置かれた小さな庭灯だけ。この場所がいかに特別かを示すには十分だった。
樹はロールス・ロイスをレストランの前に停めた。スーツを着た警備員がすぐに近づき、ドアを開けた。
「こんばんは、お客様。どうぞお入りください。」
樹は頷き、車から降りた。キーを警備員に渡し、木製の扉へ向かった。
中では、着物を着た女性がプロフェッショナルな笑顔で迎えた。
「こんばんは。如月様でいらっしゃいますか?」
「はい。」
「どうぞこちらへ。」
彼女は樹を静かな木製の廊下に案内した。小さな庭園とせせらぎを通り過ぎ、廊下の突き当たりの個室へ。
障子が開いている。部屋の中では、一人の中年男性が畳の上に静かに座っていた。
高峰耕介。
年齢は五十代半ば。こめかみに少し黒を残した白髪。鋭い目を持つ厳格な顔——多くのことを見てきた経営者の目だ。彼はネクタイなしのダークスーツを着ていたが、その姿勢は疑いの余地のない権威を示していた。
その脇には、冴が完璧な姿勢で座っていた。膝を揃え、背筋を伸ばし、プロフェッショナルな表情を保っている。
高峰は樹が入ってくると、その目を向けた。その視線は素早く動く。樹の顔から、服、腕時計、立ち方まで。
「……座ってください、如月さん。」
樹は軽く一礼し、高峰の向かいに座った。彼らの間には、濃い色の木製の低いテーブルが置かれ、そこにはエレガントな食器が整えられていた。
「お会いいただきありがとうございます、高峰さん。」
「いや、こちらこそ。」高峰はかすかに微笑んだ。「箱根の月見荘を買われたと聞きました。」
「はい。」
「事業計画もなしに?」
「……何の計画もなしに、です。」
高峰は小さく笑った。侮辱的な笑いではない。心からの笑いだ。まるで樹が何か面白いことを言ったかのように。
「あなたは面白い方だ、如月さん。冴君からお聞きしています。」
樹は冴を一瞥した。彼女の表情は変わらないが、頬が少し赤くなっている。
「私はただの普通の人間です、高峰さん。」
「七千八百万円の物件を調査もせずに買い、現金で支払い、経営するつもりもない。それは普通の人間ではない。」
樹は答えなかった。ただ静かに高峰を見つめた。
「……ただ静かな場所が欲しかっただけです。」
「箱根で?倒産寸前の古い旅館を?」
「はい。」
高峰は長い間、樹を見つめた。その目は鋭く、何かを探している。嘘、見せかけ、隠された野心。しかし彼は何も見つけられなかった。ただ心からの静けさだけを。
「……本当にビジネスに興味がないのか?」
「ええ。ビジネスは嫌いです。」
高峰は眉を上げた。「……ビジネスが嫌い?」
「はい。会社を辞めたばかりです。あの世界には戻りたくありません。」
「しかしあなたにはお金がある。」
「はい。」
「たくさんの。」
「はい。」
「そして、それを使ってさらに多くのお金を生み出そうとは思わないのか?」
樹は首を振った。「いいえ。ただ快適に暮らすために使いたいだけです。」
高峰はしばらく沈黙した。そして笑った。先ほどよりも大きな笑い声だった。
「……冴君。あなたの言う通りだ。この男は本当に変わっている。」
冴は答えなかったが、口元がわずかに緩んだ。
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午後7時30分——個室内。
夕食は驚くほどリラックスした雰囲気で進んだ。高峰はビジネスの質問で樹を追い詰めようとはしなかった。代わりに、料理について、箱根について、東京での生活について話した。
樹は正直に答えた。印象付けようともせず、隠そうともせず。高峰が以前の仕事について尋ねると、樹は淡々と解雇の経緯を話した。
「……後輩に嵌められました。元彼女はその後輩と浮気していました。私がやっていないことでクビになりました。」
高峰は眉をひそめた。「……そして怒らないのか?」
「最初は怒りました。でも今は違います。」
「なぜだ?」
「クビにならなければ、ここにいなかったからです。月見荘もなかった。久遠さんにも会わなかった。」樹はそこで止まり、静かに付け加えた。「……たぶん、これで良かったんでしょう。」
冴は完全には隠せない表情で樹を見つめた。
高峰はそのやり取りを観察していた。その目は冴から樹へ、そして再び冴へと移る。
「……冴君。」
「はい、高峰さん?」
「如月さんをどう思う?」
冴はその質問に少し驚いたが、すぐに答えた。「……誠実な方です。ビジネスの世界のほとんどの人とは違います。」
高峰は頷いた。「同意する。」
彼は樹の方に向き直った。
「如月さん。提案がある。」
樹は眉をひそめた。「提案?」
「アステリア・ホールディングスと協力してほしい。社員としてではなく、パートナーとして。」
樹は静かに首を振った。「ビジネスには興味がありません。」
「ビジネスではない。私が望むのは、あなたを我々のネットワークの一員にすることだ。月見荘のオーナーとして、あなたは大きな可能性を秘めた資産を持っている。私はその管理を手伝える。」
「……管理するつもりはありません。」
高峰は微笑んだ。「分かっている。しかし、いつか気が変わるかもしれない。そしてその時が来たら、私たちが競合相手ではなくパートナーでありたい。」
樹は高峰を見つめた。この男は東都リンクスの上司とは違っていた。高峰は強要しない。脅さない。ただ静かに、プレッシャーなく、提案するだけだ。
「……考えておきます。」
「もちろん。急がなくて結構。」
高峰は盃を取り、樹に向かって掲げた。
「興味深い初対面に。」
樹も盃を取り、応えた。
「興味深い初対面に。」
冴は二人を見つめていた。落ち着いていて威厳のある高峰と、くつろいで誠実な樹。空気の中に何かが変わった。説明できない何かが。
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午後9時15分——レストラン前。
夕食が終わった。樹と高峰は一緒に外へ出て、その後ろに冴が続いた。
レストランの前には、樹のロールス・ロイス・スペクターがエレガントに停まっている。高峰はその車を見て、静かに口笛を吹いた。
「……スペクターか。いいね。」
「ありがとうございます。」
高峰は好奇心に満ちた目で樹を見つめた。「あなたは本当に予想外の方だ、如月さん。」
「ただの普通の人間です。」
「違う。あなたは普通じゃない。そして私は、あなたがどこまで行くのかを見てみたい。」
樹は答えなかった。ただ軽く一礼した。
「夕食をご馳走になりました、高峰さん。」
「こちらこそ。」
冴は高峰の脇に立ち、樹を見つめていた。その目には何かがあった。声に出さない何かが。
「如月さん。」
「はい?」
「……お気をつけて。」
樹は小さく微笑んだ。「ありがとうございます、久遠さん。」
彼はロールス・ロイスのドアを開け、ドライバーズシートに座り、静かにドアを閉めた。車は音もなく前進し、きらめく銀座の灯りの中へ消えていった。
高峰はレストランの前に立ち、樹の後ろ姿を見送った。
「……冴君。」
「はい?」
「あの男を監視しろ。」
冴は眉をひそめた。「何のために?」
高峰はかすかに微笑んだ。「彼がどこまで行くのか、知りたいんだ。」
冴は答えなかった。ただ、樹のロールス・ロイスが消えた道を見つめ、説明できない何かを感じていた。
「……承知しました。」
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【次話 第11話——『秘書の休日』】
翌日、冴は本来なら休日だった。しかし彼女は樹のことを考えずにはいられなかった。月見荘の改修状況を確認するという名目で、彼女は箱根へ向かう。そこで彼女と樹は一緒に時間を過ごす。専門家としてではなく、互いを知り始めた二人として。初めて、冴は樹の前で笑う。
【第11話へ続く……】




