第11話 ー『秘書の休日』
第11話 ー『秘書の休日』
2026年4月14日(火)——午前8時30分。
東京都港区——冴のマンション。
冴はいつもより遅く目を覚ました。
アラームもない。緊急の電話もない。すぐに返信すべきメールもない。今日は彼女の休日だ。月に数日しかない、オフィスに行かなくていい日の一つ。
彼女はベッドに起き上がり、窓の外を見た。部屋の窓からは下の小さな庭が見える。東京の空は晴れ渡り、白い雲が遠くのビル群の上をゆっくりと流れている。
冴は今日、ゆっくりするはずだった。
本を読む。映画を観る。近所のカフェに行くかもしれない。それは一週間前に彼女が立てた計画だった。
しかし彼女の心はここにはなかった。
彼女は月見荘のことを考えていた。もうすぐ始まる改修のことを。樹のことを。彼の話し方、歩き方、重要であるはずのことに無関心でいる様子。
冴は息を吐き、枕元からスマホを手に取った。
樹からのメッセージはない。当然だ。樹は理由もなくメッセージを送るような人間ではない。
しかし冴は、メッセージがあればいいのにと思っていた。
彼女はしばらくスマホの画面を見つめ、そして閉じた。
「……改修の進捗を確認しに行くだけ。それだけよ。会いたいからじゃない。」
自分に言い聞かせたが、その言葉は虚ろに響いた。
冴は起き上がり、洗面所へ向かい、支度を始めた。
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午前9時15分——品川駅。
冴は新幹線のホームに立ち、小田原行きの電車を待っていた。彼女はいつもとは違う服を着ていた。ブレザーとペンシルスカートではなく、ゆったりとした白いシャツ、クリーム色の薄手のジャケット、コットンの快適なパンツ。ヒールのないローヒール。髪は仕事中のようにはきつく結わず、そのまま下ろしている。
彼女は休暇中の人のように見えた。
車内で、冴は窓際の席に座り、流れゆく景色を見つめた。スマホを開き、改修業者からのメールを読む。彼らは明日から作業を始める予定だ。
すべては計画通りに進んでいる。
今日、箱根に来る理由は何もない。
しかし彼女は来た。
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午前10時45分——箱根湯本駅。
冴は月見荘近くのバス停で降り、もう見覚えのある細い道を歩いていった。両側の木々はまだ緑で、朝の空気はかすかな硫黄の香りとともに爽やかだ。
彼女は木製の門を開けた。蝶番は初めての時と同じようにきしむ。そして足を踏み入れた。
庭では、樹が木製の縁側に座っていた。膝の上に本を置き、脇には湯呑み。彼はグレーのカジュアルシャツに、数日前と同じジーンズを履いている。髪は少し乱れ、その顔にはリラックスした表情が浮かんでいて、冴は……安らぎを感じた。
樹は冴を見て顔を上げた。
「ああ、久遠さん。」
「おはようございます、如月さん。」
樹は本を閉じ、立ち上がって近づいた。「……今日はお休みですか?」
「ええ。私は——」冴は言葉を止め、もっともらしい理由を探した。「——改修業者がもう始めているかどうか確認したくて。明日来る予定ですが、準備が整っているか確認しておきたくて。」
樹は頷いた。「業者から連絡がありました。明日の朝八時に来るとのことです。」
「……そうですか。」
一瞬の沈黙。
樹は冴を見つめ、そして小さく微笑んだ。「それを確認するためだけに東京から来られたんですか?」
「……ええ。」
「他に確認したいことはありますか?」
冴は答えなかった。ただ庭に立ち、朝の風が顔を撫でるのを感じていた。
樹は無理に問い詰めなかった。ただ家の裏手を指さした。
「お急ぎでなければ、お茶を入れたばかりです。それに、昨日自分で修理した温泉風呂もあります。湯はまだいいですよ。」
冴は断るべきだと分かっていた。
しかし、止める間もなく言葉が出た。
「……はい。ありがとうございます。」
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午前11時30分——木製の縁側。
彼らは縁側に座り、裏庭を眺めていた。遠くでは、箱根の山々が晴れた空の下で青くそびえている。温泉の湯気が木々の間から細く立ち上っている。
樹が冴にお茶を注いだ。柔らかく、ほんのり甘い香りの緑茶だ。
「これは駅近くの店で買ったお茶です。」樹が言った。「美味しいかどうかは分かりませんが、悪くはないと思います。」
冴はお茶を一口すする。温かく、少し苦く、後味はすっきりしている。
「……いいお茶ですね。」
「そうですか?それは良かった。」
彼らは心地よい沈黙の中で座っていた。風が吹き、花と木々の香りを運んでくる。遠くで鳥がさえずっている。
「如月さん。」
「はい?」
「……ここで一日中、何をして過ごしているのですか?」
樹はしばらく考えた。「起きる。お茶を飲む。本を読む。庭を歩く。時々、壊れたものを直してみる。」彼はそこで一旦止め、小さく微笑んだ。「……実際、大したことはしていません。」
「退屈しませんか?」
「いいえ。こっちの方が好きです。東京では、常に何かしなければならないことがある。ここでは、何もしなくていい。それが……自由な感じがするんです。」
冴は樹を見つめた。彼女には理解できなかった。ほとんど何もしないで、どうやって自由を感じられるのか。しかし樹の顔には、心からの静けさがあった。見せかけではない。退屈でもない。
ただの静けさだ。
「……私はそんな風にじっとしていることはできません。」冴がようやく言った。「常に何かやることがあります。」
「仕事のせいで?」
「慣れているからです。」
樹は静かに頷いた。「私も昔はそうでした。昔はじっとしていられなかった。いつも返信すべきメールがあり、確認すべき報告書があり、出席すべき会議があった。でも……」彼はそこで止め、庭を見つめた。「……全てを失った後、それらを全部やる必要はないんだと気づきました。」
冴は答えなかった。ただお茶をすする。樹の言葉を噛みしめながら。
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午後1時0分——温泉の湯舟のほとり。
お茶の後、彼らは湯舟のほとりへ歩いていった。樹はいくつかの場所を修理していた。湯舟の縁の石を並べ直し、周囲の木道を修繕している。
「これを自分でやったのですか?」と冴が尋ねた。
「一部はね。全部は直せないけど、簡単なものはやってみてる。」
「……なぜ業者を待たないのですか?」
「この場所を所有していると実感したいからです。ただ買うだけじゃなく、本当に自分の手で所有していると。」
冴は樹を見つめた。彼の言葉の何かが彼女の心を震わせた。説明できない何かが。
「……あなたは変わった方ですね。」
樹は微笑んだ。「よく言われます。」
冴も微笑みそうになったが、こらえた。
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午後2時30分——箱根の小道。
彼らは散歩に出かけることにした。目的があったからではなく、冴が箱根をもっと見たいと思い、樹が付き合っても構わなかったからだ。
彼らは木々の間の小道を歩き、手作り品や地元の食べ物を売る小さな店を通り過ぎた。冴は木工品を売る店の前で立ち止まり、一つを手に取って丁寧に眺めた。
「美しいですね。」と彼女は言った。
樹はそれを見た。細かい細工が施された小さな鳥の置物だ。
「……こういうものがお好きなんですか?」
「ええ。子供の頃、あまりおもちゃを持っていなかったので。両親は仕事で忙しかったんです。」
樹は批判せずに聞いていた。「……今、買えますよ。」
冴はその置物を見つめ、そして戻した。「いいえ。ただ見ているだけです。」
樹は無理に勧めなかった。ただ頷き、歩き続けた。
彼らは心地よい沈黙の中で歩いた。時々冴が何かに立ち止まり、樹が辛抱強く待つ。時々樹が面白いものを指さし、冴がそれに従う。
外から見れば、彼らは一緒に休日を楽しむ二人のように見えた。
冴の心の中で、彼女は認めたくない何かに気づいていた。
彼女はこの時間を楽しんでいた。
樹が金持ちだからではない。樹が物件を持っているからではない。樹が外見的に魅力的だからでもない——確かに悪くはないが。
彼女がこの時間を楽しんでいるのは、樹が彼女に何も期待していないからだ。
オフィスの人々のように、いつも何かを求めているわけではない。ビジネスの世界の男性たちのように、いつも印象付けようとしたり、利用しようとしたりするわけではない。
樹はただ……そこにいるだけだ。
それだけで十分以上だった。
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午後5時0分——箱根の小さな公園。
彼らは川の近くの小さな公園を見つけた。大きな木の下に木製のベンチがあり、遠くから水の流れる音が聞こえる。
彼らはそのベンチに座り、静かな午後を楽しんだ。
「久遠さん。」
「はい?」
「一つお聞きしてもいいですか?」
「どうぞ。」
「……なぜ今日、ここに来たのですか?」
冴は沈黙した。
シンプルな質問だが、答えはシンプルではなかった。樹に会いたかったから来たとは言えない。この奇妙な男のことを考えずにはいられなかったから来たとは言えない。
「……全てが順調に進んでいるか確認したくて。」彼女はようやく言った。声は少し迷っていた。
樹は彼女を見つめた。疑うような目ではなく、冴が奇妙に感じるほどの優しさで。
「……ありがとうございます、久遠さん。あなたの助けなしでは、どうなっていたか分かりません。」
その言葉は心からのものだった。冴にはそれが分かった。
そして久しぶりに、冴は胸に温かいものを感じた。
彼女は笑った。
プロフェッショナルな笑いではない。抑制された笑いでもない。ただ自然にこぼれた小さな笑い。軽やかで、心からの、そして少し照れくさそうな。
樹が瞬いた。「……どうしたんですか?」
「いいえ。ただ——」冴は手で口を覆い、笑いをこらえようとした。「——こんなにのんびりした人が、どうしてこんなにたくさんのお金を持っているのかと思って。」
樹は微笑んだ。「たぶん、お金はのんびりしているから来るんでしょうね。」
冴はもう一度笑った。今度はもっと大きく。
そして彼女の心の中で、彼女は何かに気づいていた。
今まで誰に対しても、こんな気持ちになったことはなかった。
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午後6時0分——月見荘の門の前。
日が西に傾き、空はオレンジとピンクに染まり始めていた。
冴は門の前に立ち、帰る準備をしていた。樹がその隣に立ち、両手をジャケットのポケットに入れている。
「今日はありがとうございました、久遠さん。」
「いいえ、こちらこそ。」冴は樹を見つめた。「……箱根で休日をこんなに楽しめるとは思っていませんでした。」
「楽しめましたか?」
冴はしばらく考えた。そして微笑んだ。心からの、プロフェッショナルではない笑顔で。
「……ええ。楽しめました。」
樹も微笑み返した。「私もです。」
彼らは門の前に立ち、夕方の静けさに囲まれていた。風が吹き、木々と温泉の香りを運んでくる。
「……如月さん。」
「はい?」
「何かお困りのことがあれば、連絡してください。物件のことだけでなく。……何でも。」
樹は冴を見つめた。その目には心からの驚きがあった。
「……ありがとうございます、久遠さん。覚えておきます。」
冴は頷き、そして振り返って歩き出した。
彼女の心の中で、彼女は知っていた。これはもう単なる仕事上の関係ではない。
しかしそれを認める準備はまだできていなかった。
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【次話 第12話——『最初の勘違い』】
冴は複雑な気持ちを抱えて東京に戻る。樹への興味が仕事上のものだけではないことに気づき始める。一方、樹は三つ目のクエストを達成するため、さらに物件を購入し、月見荘の設備を向上させる。しかし彼のささやかな行動が投資家の注目を集め始め——冴は樹の意図を誤解し始める。
【第12話へ続く……】




