第12話 ー『最初の勘違い』
第12話 ー『最初の勘違い』
2026年4月15日(水)——午前8時0分。
アステリア丸の内タワー二十八階——冴の仕事場。
冴は机に座り、真剣な表情でパソコンの画面を見つめていた。今日、彼女はプロとしてのルーティンに戻っている。メール、報告書、電話、びっしりと詰まった会議のスケジュール。
しかし彼女の心はまだ箱根にあった。
樹。思わずこぼれた自分の笑い声。樹が静かに彼女を見つめる様子。木製の縁側に座って感じた温かさ。
冴は息を吐き、そして首を振った。
「集中しなさい。」
彼女は資産調査チームからの報告書を開いた。アステリア・ホールディングスが投資候補として評価すべき資産がいくつかある。そのリストに含まれていた物件の一つは、神田にある古い建物だった。何年も空き家になっている元倉庫だ。
冴はその報告書を読んだが、集中できなかった。
スマホが震えた。樹からのメッセージだ。
「久遠さん、おはようございます。業者が月見荘で作業を始めました。全て順調です。」
冴はそのメッセージを三度読み、返信した。
「おはようございます、如月さん。それは良かったです。何か問題があればご連絡ください。」
彼女はそのメッセージをしばらく見つめ、そしてスマホを閉じた。
何かがおかしかった。彼女は……また樹に会いたいと思っていた。仕事のためではなく。ただ縁側に座り、お茶をすすり、風の音を聞くために。
しかしそれはプロフェッショナルではない。
そして冴は常にプロフェッショナルだった。
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午後6時30分——恵比寿のマンション。
樹は夕食を終えたばかりだった。自分で作った簡単なチャーハン。その時、ウィンドウが彼の前に現れた。
【QUEST 04 —— 発生】
【三億円を株式・企業買収以外に使用してください。】
【リワード: 十億円】
樹は最後の一口のチャーハンを咀嚼しながらそのウィンドウを見つめた。
「……三億か。」
【目標の使用用途に制限はありませんが、株式および企業買収は禁止されています。】
「前と同じだな。」
【正解です。】
樹は皿をシンクに置き、リビングへ向かった。ソファに座り、天井を見つめた。
「三億……別の物件を買えるな。」
彼はスマホを開き、利用可能な物件のリストを検索した。いくつかの選択肢が表示された。神田の古いビル、杉並の空き家、浅草の閉店した店舗。
そして彼の目を引く物件があった。
神田、駅近くの古いビル。クラシックな建築様式の元倉庫。大規模な改修が必要。価格:二億二千万円。
樹はその説明を読んだ。
「……これは月見荘のプロジェクトにできるかもしれない。」
彼は二つの物件をどう結びつければいいのか分からなかったが、神田の古いビルには月見荘と同じような特徴があると感じた。老朽化し、放置されていたが、魂がある。
「よし。これを買おう。」
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午後7時30分——バーチャルな事務作業。
樹は神田の物件について不動産会社に連絡した。今回は手続きがより速かった。その業者は以前の取引で樹のことを知っていたからだ。
「如月様、こちらの物件を本当にご購入なさいますか?」
「はい。」
「しかし、この物件は大規模な改修が必要です。改修費用は約八千万円と見込まれます。」
「構いません。買います。」
「現地をご覧になりたいですか?」
「……そうですね。明日の朝に。」
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2026年4月16日(木)——午前9時0分。
東京都千代田区神田。
樹は神田の古いビルの前に立っていた。三階建ての建物で、年月で黒ずんだ赤レンガの壁。窓のほとんどは壊れていて、正面の木製の扉は腐食している。
しかし、この建物には何か魅力的なものがあった。入口の上の彫刻が施されたクラシックな建築様式と、古いながらもまだしっかりとした屋根。
不動産業者——佐藤という若い男性——が樹の隣に立っていた。
「この建物は1965年に建てられました。当初は繊維倉庫として使われ、その後オフィスになり、2010年以降は空き家でした。前の所有者はすでに亡くなっており、現在は銀行が所有しています。」
樹は建物の周囲を歩いた。裏手には、雑草と茂みが生い茂った小さな庭があった。
「……土地の広さは?」
「総面積は約四百平方メートルです。建物の延べ面積は約六百平方メートルです。」
樹は頷いた。「買います。」
佐藤が瞬いた。「お客様、内部をご覧になりたくはありませんか?」
「必要ありません。」
「……しかし——」
「買います。今日手続きできますか?」
佐藤はしばらく沈黙し、感嘆と困惑が入り混じった表情で息を吐いた。
「……かしこまりました、お客様。書類の手続きをいたします。」
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午前11時0分——不動産会社の事務所。
購入手続きには約二時間かかった。樹は全ての書類に署名した。物件代金二億二千万円、さらに改修用に八千万円を計上した。
樹は総支出を確認した。
神田の物件:二億二千万円
神田の改修(見積もり):八千万円
合計:三億円
「……ちょうどだ。」
【QUEST 04 —— 達成】
【三億円が使用されました。】
【リワード計算中...】
【十億円が追加されました。】
【新しい残高: 十億六千四百八十万円】
樹はその数字を見つめた。
十億六千四百八十万円。
一週間で、彼の資産は東都リンクスで働いていた頃には想像もできなかった額にまで達した。
「……何を感じればいいのか分からない。」
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午後1時0分——神田、新しく買ったビルの前。
樹は買ったばかりのビルの前に立ち、この場所をどうするか考えていた。月見荘は自分のための旅館だ。東京から逃れるための場所。しかしこの神田のビルは……
「仕事場にできるかもしれない。それかクリエイティブな空間。あるいは——」
スマホが震えた。
冴からのメッセージだ。
「如月さん、神田の物件を購入されたと聞きました。本当ですか?」
樹は眉をひそめた。なぜ冴がそんなに早く知っているのか?しかし彼は思い出した。冴はアステリア・ホールディングスという大手不動産会社に勤めている。おそらく物件取引の報告はすぐに彼らに届くのだろう。
「はい。神田駅近くの古いビルを買いました。」
数秒後、スマホが再び震えた。
「見てみたいです。」
樹はそのメッセージを読んだ。予想外の申し出だったが、断る理由もなかった。
「どうぞ。今ここにいます。」
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午後2時0分——神田のビルの前。
冴はタクシーで到着した。グレーのブレザー、きちんと結わえた髪。その視線は素早く動く。ビルから、荒れた庭へ、そして相変わらずくつろいだ表情で入り口に立つ樹へ。
「……これが購入された物件ですか?」
「はい。」
冴は近づき、プロの目でレンガの壁を調べた。
「築約六十年。レンガ壁はまだ良いが、木造部分は交換が必要かもしれません。屋根は良さそうですが、一部で雨漏りの可能性があります。」
樹は頷いた。「業者も同じことを言っていました。」
「……それでも買われたのですか?」
「ええ。」
冴は樹の方を向いた。「……如月さん、また調査もせずに物件を買われましたね。これで二度目です。」
「三度目ですね。恵比寿のマンションもそうですから。」
冴は長い息を吐いた。「……あなたは本当にリスクを気にしないのですね。」
「どんなリスクです?お金はもう使いました。今大事なのは、この場所をどうするかです。」
冴は樹を見つめた。彼の言葉の何かが彼女の心に引っかかった。彼がお金を問題ではないかのように話す様子、価値ではなく用途に焦点を当てる様子。
「……この場所をどうされるおつもりですか?」
樹はしばらく考えた。「分かりません。仕事場かもしれません。くつろぎの場かもしれません。あるいは……クリエイティブな人たちに一部を貸すかもしれません。」
冴は眉をひそめた。「……貸す?それは収入を得るということですよ。」
「そうです。でもそれが目的じゃない。ただ、この場所を放置したくないだけです。」
冴は沈黙した。
彼女は樹を見た。明確な理由もなく、事業計画もなく、利益動機もなく物件を買う奇妙な若者を。そして彼女が見る限り、樹の顔に嘘は見つけられなかった。
彼は本当に誠実だった。
「……如月さん。」
「はい?」
「私は思うのですが——」冴は言葉を止め、適切な言葉を探した。「——あなたは無意識のうちに、ホスピタリティ・ネットワークを構築しているのかもしれません。」
樹は眉をひそめた。「……ホスピタリティ・ネットワーク?」
「ええ。箱根の月見荘。そしてこちらの神田のビル。宿泊施設やクリエイティブスペースとして使える物件を二つお持ちです。それは不動産ネットワークの始まりです。」
樹は困惑した表情で冴を見つめた。
「……そんなつもりはなかった。」
「分かっています。しかし、あなたの意図がどうであれ、あなたの行動はすでにパターンを形成し始めています。そしてそのパターンが注目を集めています。」
樹は息を吐いた。「……ただお金を使いたいだけなのに。」
「そしてあなたはそれをする方法が——」冴はそこで止め、そして小さく微笑んだ。「——他人にあなたが大きな戦略を持っていると思わせる方法でやっているのです。」
樹は冴を見つめ、それから目の前のビルを見つめ、再び冴を見た。
「……どういう意味ですか?」
冴は答えなかった。ただ読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。感嘆と好奇心、そしてそれよりも深い何かが入り混じった表情だ。
「……あなたは気づいていないかもしれませんが、如月さん。あなたがやっていること——古い物件を買い、利益計画もなく改修すること——それはビジネスの世界ではほとんど誰もやらないことです。そしてそれが人々の興味を引くのです。」
樹はさらに深く眉をひそめた。「……人々の興味?」
「ええ。投資家たちが月見荘に注目し始めています。何人かがアステリア・ホールディングスに新しいオーナーについて問い合わせてきています。」
「……でも投資家は要らない。」
「分かっています。しかし彼らはそれを知りません。」
樹は長い息を吐いた。「……これは複雑すぎる。」
冴は微笑んだ。心からの、ほとんど優しい微笑みだった。
「ようこそ、如月さん。あなた自身が作り出した世界へ。」
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午後6時0分——神田のビルの前。
日が西に傾き、空がオレンジ色に変わり始めていた。
冴は樹の隣に立ち、目の前のビルを見つめていた。
「すぐに改修されるおつもりですか?」
「はい。でも派手にはしません。ただ清潔で安全な場所にしたいだけです。」
「……クリエイティブスペースとして使うおつもりですか?」
「たぶん。確かではありません。でも、この場所には何か良いものになる可能性があると感じています。」
冴は樹を見つめた。「……いつも感覚で行動されるのですか?」
樹はしばらく考えた。「……分かりません。たぶん。あまり計画しません。ただ正しいと感じたことをやっているだけです。」
冴は答えなかった。ただ樹の隣に立ち、夕方の風が二人の間を吹き抜けるのを感じていた。
そして初めて、冴は自分が樹のことを誤解しているかもしれないと感じた。
しかしなぜか、それは気にならなかった。
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【次話 第13話——『元会社員の新生活』】
樹は新しいルーティンを築き始める。朝のジョギング、朝食、読書、ゲーム、そして物件の見回り。人生で初めて、彼は生活を楽しんでいた。一方、東都リンクスでは、樹を陥れた報告書に不整合があることが判明し、内部で問題が起き始めていた。
【第13話へ続く……】




