第13話 ー 『元会社員の新生活』
第13話 ー 『元会社員の新生活』
2026年4月16日(木)——午前6時30分。
恵比寿のマンション。
樹はアラームなしで目を覚ました。
自然に目が覚めたわけではない。何年もサラリーマンとして早起きに慣れているからだ。しかし今回は、急ぐ必要のない目覚めだった。追いかけるべき電車もない。出席すべき会議もない。ただ、静かな朝と、窓の外に広がる晴れた空だけがある。
彼はベッドに起き上がり、軽く伸びをしてからキッチンへ向かった。自動コーヒーメーカーがボタン一つで起動し、コーヒーの香りが部屋に広がり始める。
樹は熱いコーヒーをすする。大きなガラス窓の近くに立ちながら。眼下では、恵比寿の街が動き始めている。人々が駅へ向かい、車が道路を埋め始め、都会の日常がいつものように動き出す。
彼はその風景を、奇妙な気持ちで見つめた。
かつては自分もその一人だった。
今は上から眺めるだけだ。
「……変な感じだ。」
コーヒーを飲み干し、寝室へ向かって着替えた。ランニングシャツ、短パン、ランニングシューズ。会社員時代には一度も着たことのない格好だ。いつも疲れすぎて運動する気になれなかったから。
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午前7時0分——恵比寿近くの公園。
樹はマンション近くの小さな公園の遊歩道を走っていた。朝の空気はまだ爽やかで、公園には数人しかいない。ゆっくり歩く老人、ベビーカーを押す母親、そして短い会釈を交わしながら通り過ぎていく数人のランナー。
樹は速くは走らなかった。ただ心地よいペースで、自分の息遣いと心拍数を感じながら。道すがら、まだ咲き残っている春の花や、木々の間でさえずる鳥たちが見えた。
約三十分後、彼は公園のベンチの近くで立ち止まり、深く息を吸った。汗が額を伝うが、爽快だった。何年も感じたことのない爽快感だ。
「……これは毎日やろう。」
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午前8時30分——恵比寿のマンション。
樹はマンションに戻り、シャワーを浴びてから朝食をとった。シンプルなオムレツにトーストとサラダ。急がずに自分で作った食事だ。
彼はダイニングテーブルに座り、スマホでニュースをチェックしながら朝食を楽しんだ。特に重要なニュースはない。株価が小幅に上昇した。今日の東京の天気は晴れで最高気温は二十度。箱根では、月見荘の改修作業が始まっている。今朝、現場監督から写真が届いていた。
樹はその写真を見た。屋根の修理が始まっている。庭が片付けられている。数人の作業員が客室の畳を張り替えている。
「……順調だな。」
彼は現場監督に短く返信し、スマホを閉じた。
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午前10時0分——リビングのソファ。
樹はソファに座り、膝の上に本を広げていた。吉祥寺の古本屋で買った古い日本の小説だ。彼はゆっくりと読み進め、急がずに一ページ一ページを味わった。
外では、大きなガラス窓から日差しが差し込み、部屋を暖かな光で満たしている。樹は喉が渇くまで読み続け、そして水を飲むために一旦手を止めた。
いつぶりだろう、こんなに静かに本を読んだのは。会社員時代は報告書とメールを読むだけで精一杯だった。本棚の本はただの飾りで、一度も手に取られることはなかった。
今は時間がある。
たくさんの時間が。
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午後0時30分——マンションのキッチン。
樹は昼食を作った。ご飯、シンプルな味噌汁、焼き魚。出来は完璧ではないが、食べられる。彼はテーブルに座り、ゆっくりと昼食を楽しんだ。
スマホが震えた。冴からのメッセージだ。
「如月さん、月見荘の改修は順調ですか?」
樹は返信した。
「順調です。屋根の修理が始まりました。庭も片付いています。業者を紹介していただきありがとうございます。」
数秒後、冴からの返信が届いた。
「それは良かったです。何か問題があればご連絡ください。」
樹はそのメッセージを読み、小さく微笑んだ。冴はいつも礼儀正しくプロフェッショナルだが、その言葉の裏には無視できない温かみがあった。
彼は返信した。
「ありがとうございます、久遠さん。いつも助けていただいて。」
その後の返信はなかった。樹はそれ以上考えなかった。
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午後2時0分——ソファ、ゲーム機。
樹は初日に買ったゲーム機——プレイステーション5——の電源を入れた。いくつかの未プレイのゲームの中から、広大なオープンワールドのアドベンチャーゲームを選び、プレイを始めた。
二時間の間、彼は仮想の世界を探索し、時間と現実を忘れた。プレッシャーもない。目標もない。ただ、会社員時代には決して許さなかった単純な楽しみがあった。
画面の中で、主人公が山頂に立ち、水平線に沈む夕日を見つめている。
樹はその画面を見つめ、そして微笑んだ。
「……楽しいな。」
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午後5時30分——マンションのバルコニー。
樹はマンションのバルコニーに立ち、昨日買ったばかりの小さな植物に水をやっていた。数鉢のシンプルなグリーン植物。じょうろから水が流れ、優しく土を濡らす。
夕方の風が吹き、外の新鮮な空気を運んでくる。遠くでは、空が色を変え始めている。東京の高層ビル群の間から、オレンジとピンクが覗いている。
樹はその景色を見つめ、何年も感じたことのない静けさを味わっていた。
これが生きるということだ。
ただ生き延びることではない。誰かのために働くことではない。退屈なルーティンをこなすことでもない。
これは本当に生きるということだ。
ポケットでスマホが震えた。彼は取り出し、画面を見た。
保存していない番号からのメッセージ。しかし見覚えがある。東都リンクスの元同僚の一人だ。
「如月さん、お忙しいところすみません。お伝えしておくべきことがあります。人事部が中島ロジスティクスのプロジェクト報告書の調査を始めました。データの不整合が見つかったようです。何人かが神崎について問い合わせ始めています。」
樹はそのメッセージを読んだ。
何も感じなかった。喜びもない。満足感もない。ただ静かな空虚さだけだ。
彼は返信した。
「知らせてくれてありがとう。でも、もうどうでもいい。」
返信がすぐに来た。
「……会社に戻りたいとは思いませんか?」
「いいえ。」
「でも神崎が——」
「彼には自分の結果を受けさせればいい。あの世界はもう終わりだ。」
それ以上の返信はなかった。
樹はスマホをポケットにしまい、再び植物に水をやった。外では、夕方の空が色を変え続け、風がより強く吹いていた。
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午後6時30分——マンションの室内。
樹はソファに座り、音のないテレビの画面を見つめていた。何かを見ているわけではない。ただ映像が動いているのを目の前にしながら、心をさまよわせていた。
東都リンクスで問題が起き始めている。人事部がデータの不整合を発見した。神崎が結果に直面するかもしれない。
樹は満足するべきだった。勝ったと感じるべきだった。
しかし彼は何も感じなかった。
「……復讐して何になる?」
彼は自分に呟き、テレビを消した。
心の中で、彼は知っていた。あの世界はもう終わった。会社の世界、オフィス政治の世界、裏切りと競争の世界。彼はそこに戻りたくなかった。たとえ神崎が墜ちるのを見るためであっても。
彼が望んでいたのはただ静かな生活だ。
そして人生で初めて、彼はそれを手に入れていた。
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午後8時0分——ダイニングテーブル。
樹は夕食をとった。自分で作ったシンプルなトマトソースのパスタ。味は特別ではないが、楽しむには十分だった。
スマホが再び震えた。今度は冴からのメッセージだ。
「如月さん、東都リンクスがあなたを陥れた報告書の調査を始めたと聞きました。ご存知ですか?」
樹は返信した。
「はい。さっき知らせてもらいました。」
「どのようにお感じですか?」
樹は少し考えてから返信した。
「冷静です。もうどうでもいいので。」
数秒後、冴の返信が届いた。
「それは良い答えですね。」
樹はそのメッセージを読み、小さく微笑んだ。冴は多くを語らないが、その言葉はいつも的確だ。
彼は返信した。
「ありがとうございます、久遠さん。おやすみなさい。」
「おやすみなさい、如月さん。」
樹はスマホを閉じ、夕食を食べ終え、静かに皿を洗った。
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午後9時30分——バルコニー、夜。
樹はバルコニーに立ち、東京の夜空を見上げていた。遠くでビルの灯りがきらめき、その上では星々が一つまた一つと現れ始めている。
彼は深く息を吸い込み、夜の冷たい空気を感じた。
今日、彼は:
· アラームなしで起きた。
· 公園で走った。
· 静かに朝食をとった。
· 本を読んだ。
· 昼食を作った。
· ゲームをした。
· 植物に水をやった。
· 東都リンクスからの知らせを受け取った。
· 気にしなかった。
これはシンプルな一日だった。大きな達成もない。十億円単位の取引もない。CEOとの会合もない。
ただ、自分のペースで過ごした普通の一日。
そして初めて、樹はこれが完璧な一日だと感じた。
彼は夜空に向かって微笑み、そしてマンションの中へ戻っていった。
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【次話 第14話 ——『神崎駿の誤算』】
翌日、東都リンクスの人事部は神崎駿を調査のため召喚する。データログは、樹を陥れた書類が神崎のアカウントを使って編集されたことを示していた。神崎はパニックに陥る。そして初めて、自分の行動には結果が伴うことに気づく。一方、樹は過去を気にすることなく、新しい生活を楽しみ続ける。
【第14話へ続く……】




