第14話 ー『神崎駿の誤算』
第14話 ー『神崎駿の誤算』
2026年4月17日(金)——午前8時30分。
新宿住友ビル十五階——株式会社東都リンクス。
十五階の空気は、いつもとは違っていた。
通常、金曜の朝は少しだけ緩やかだ。週末の予定について話す声が聞こえ、オフィスの空気も少し柔らかくなる。しかし今朝は、無視できない緊張が漂っていた。
何人かの社員が緊張した表情で席に座っている。他の者は小声で話し合い、時折廊下の突き当たりの会議室の方へ目をやる。その会議室では、人事部が内部調査を進めていた。
神崎駿は椅子に座り、人事部の二人——中村と、この階には滅多に姿を見せない中年の男性、石田——と向き合っていた。その脇には、ノートパソコンを膝に載せたITスタッフがいる。
「神崎君。」中村が平坦な声で言った。「本日は、中島ロジスティクスのプロジェクト報告書についてお話しするために、お呼びしました。」
神崎は微笑んだ。何年もかけて完璧に磨き上げた微笑みだ。「はい、中村さん。何かお手伝いできることはありますか?」
「四月六日の評価会議で提示されたデータに、不整合が見つかりました。」
「不整合?」
「ええ。あなたが如月さんに送信した改訂データと、会議で提示されたデータが異なっていました。」
神崎は表情を保った。「……どういうことでしょうか、中村さん。私は確かに正しいデータを如月さんに送信し、確認をお願いしました。」
「あなたが如月さんに送信したデータは、会議で提示されたデータとは異なるバージョンでした。」
「……そんなはずはありません。同じデータを送信したことは間違いありません。」
中村は鋭い目で神崎を見つめた。「メールのログとデータ保管システムを確認しました。二つの異なるバージョンのデータがありました。一つは木曜日に如月さんに送信され、もう一つは月曜日の会議で使用されました。」
神崎は背筋に冷たいものを感じた。「……もしかしたら技術的なミスかもしれません——」
「システムのアクセスログも確認しました。」中村がタブレットのボタンを押すと、会議室の壁のスクリーンにデータが表示された。「会議で使用されたデータは、日曜日の夜二十一時四十七分に編集されました。アクセスはあなたのアカウントから行われています。」
神崎は固まった。
「……そ——それはありえません。日曜日に会社に来ていません。」
「分かっています。リモートアクセスでした。あなたの認証情報を使用して。」
会議室が静まり返った。神崎は自分の心臓の鼓動が耳に響くのを感じた。
「……私——」彼は言葉を止め、呼吸を整えようとした。「そんなことは——覚えていません。」
中村は表情を変えなかった。「神崎君、日曜日の夜にシステムにアクセスし、データを編集したことを否定しますか?」
「……覚えていません。」
「如月さんに送信したデータが、会議で使用されたデータと異なることを否定しますか?」
神崎は口を開け、閉じ、そして再び開けた。
「……私——わかりません。」
中村は長い息を吐いた。「神崎君、これは深刻な問題です。データ改ざんと同僚への責任転嫁は、懲戒解雇、さらには法的措置の対象となり得ます。」
神崎は世界が自分の周りで回っているのを感じた。
「……で、でも——如月さんがデータを確認すべきだったんです。彼は先輩です。彼が——」
「彼は、受け取っていないデータを確認できません。」
神崎は答えなかった。
ただ椅子に座り、全ての計画が一瞬で崩れ去るのを感じていた。
---
午前9時15分——十五階の廊下。
神崎はふらふらとした足取りで会議室を出た。顔は青ざめ、手は微かに震えている。廊下では、数人の同僚が読み取れない表情で彼を見つめていた。偽りの同情、好奇心、あるいは満足感かもしれない。
「神崎さん……」若いスタッフが遠慮がちに近づいた。「何かお手伝いできることは?」
神崎はそのスタッフを見つめ、そして素早く首を振った。「いいえ。大丈夫です。」
彼は早足で自分の席へ向かい、椅子に座り、虚ろな目でパソコンの画面を見つめた。
バレた。
証拠を見つけられた。
神崎は唇を噛みしめた。全ての痕跡は消したつもりだった。アクセスログを調べられるとは思っていなかった。樹は黙って去り、全てが終わると思っていた。
しかし、間違っていた。
スマホが震えた。綾香からのメッセージだ。
「俊、人事部が調査を始めたって聞いた。何があったの?」
神崎はそのメッセージを読み、震える指で返信した。
「わからない。何か見つけたみたいだ。」
「『何か』ってどういうこと?」
「データログだ。データを編集したことがバレた。」
それ以降、綾香からの返信はなかった。
神崎はスマホの画面を見つめ、待った。しかし綾香は返信しなかった。
見捨てられた。
神崎はスマホを閉じ、机に頭を置いた。
初めて、自分の行動には結果が伴うのだと気づいた。
---
午前10時30分——メイン会議室。
神崎は再び呼び出された。今度はメイン会議室で、より多くの人がいる。部門マネージャー、人事部長、数名のシニアスタッフ。
吉田——樹を解雇したのと同じ部門マネージャー——が机の上座に座り、厳しい表情を浮かべている。
「神崎。初期調査が完了した。」
神崎は息を呑んだ。「……はい、吉田さん。」
「評価会議で使用されたデータは、不正に編集されていた。アクセスはお前のアカウントから行われている。如月が正しいデータを受け取ったという証拠はない。」吉田は一旦止め、鋭い目で神崎を見た。「如月の解雇は誤ったデータに基づいていた。そして、その責任はお前にある。」
神崎は口を開けたが、言葉が出てこなかった。
「……私——」
「神崎。お前がデータを改ざんし、如月に責任を転嫁したことを認めるか?」
会議室は静まり返った。
全ての視線が神崎に注がれている。
また嘘をつくこともできた。弁解することもできた。しかし彼は分かっていた。証拠はあまりにも強力だ。
「……はい。」
その言葉は、ほとんど聞こえないほどの声で出てきた。
吉田は長い息を吐いた。「……神崎、お前は懲戒処分の対象となる。解雇手続きは来週中に進める。そして、如月がお前を個人的に訴える可能性もある。」
神崎は胸が締め付けられるのを感じた。「……ク、クビになるんですか?」
「ああ。」
神崎は答えなかった。
ただ椅子に座り、世界が自分の周りで崩れ落ちるのを感じていた。
---
午後0時0分——新宿住友ビルの外。
神崎は、数週間前に樹が立っていたのと同じ場所に立っていた。空は晴れているが、彼は日差しの温かさを感じなかった。
スマホが震えた。
綾香からのメッセージ——ようやく届いた。
「駿、もうこんなのは無理。この問題に巻き込まれたくない。」
神崎はそのメッセージを読み、震える指で返信を打った。
「綾香、待って——」
しかしそのメッセージは送信されなかった。
ブロックされていた。
神崎は虚ろな目でスマホの画面を見つめた。
仕事を失った。
評判を失った。
綾香を失った。
そしてそれは全て、樹を陥れようとしたからだ。
「……こんなの不当だ。」
彼は自分に呟いた。しかし、その言葉が空しいことさえも分かっていた。
---
午後1時0分——東都リンクス、人事部。
中村は机に座り、目の前の書類を見つめていた。横には、上司に送られる完全な調査報告書がある。
スマホが震えた。樹からのメッセージだ。番号は保存していなかったが、以前のメッセージで覚えていた。
「中村さん、調査が終了したと聞きました。対応していただきありがとうございます。」
中村はそのメッセージを読み、返信した。
「如月さん、このたびはご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。あなたの解雇は誤ったデータに基づいていました。正式な謝罪文と復職のお知らせをお送りいたします。」
数秒後、樹からの返信が届いた。
「戻るつもりはありません。ただ、間違いを認めていただきありがとうございます。」
中村はその返信を見つめた。
樹は怒っていない。苛立ってもいない。補償を求めてもいない。ただ静かに「ありがとう」と言っているだけだ。
「……変わった人だ。」
中村はスマホをしまい、報告書の作成を続けた。
---
午後2時0分——恵比寿のマンション。
樹はソファに座り、スマホを見つめていた。中村からのメッセージ——正式な謝罪と復職のオファー。彼は丁寧に返信し、静かに断った。
満足感はなかった。勝ったという感覚もない。ただ……静けさだけだ。
窓の外では、東京の空はまだ晴れている。マンションの中では、心地よい静けさが広がっている。
樹はスマホを閉じ、再び本を手に取った。
過去のことは考えたくなかった。
ただ今日を楽しみたかった。
---
【次話 第15話——『断る権利』】
樹は東都リンクスから正式な書面を受け取る。謝罪文と復職のオファーだ。しかし樹は静かに断る。彼には謝罪は必要ない。彼はもう自由だ。一方、冴はより頻繁に樹に連絡を取るようになり、樹は自分を気にかけてくれる人がいることに気づく。
【第15話へ続く……】




