第86話 ー『幼なじみと秘書』
第86話 ー『幼なじみと秘書』
2026年6月17日(水)——午後3時30分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階·社長室。
樹と夏美の会話が終わり、夏美が帰ろうとした時だった。社長室の扉が軽くノックされ、志織が入ってきた。その手にはタブレットと、二つのコーヒーカップが載ったトレイ。
「……失礼します。少しお茶とコーヒーをお持ちしました。」
志織はトレイをテーブルの上に置き、樹と夏美を交互に見た。その表情はプロフェッショナルだったが、目にはかすかな好奇心が浮かんでいる。今朝、夏美がイベント会場で樹を見つけた時のことを志織は見ていた。何かが起きていることを、彼女は察していた。
夏美は志織を見つめ、微笑んだ。「……ありがとうございます、志織さん。さっきは慌ててしまって、ちゃんとお礼を言えませんでしたね。」
志織は軽く首を振った。「……いいえ、こちらこそ。驚かせてしまったなら申し訳ありません。」
「……いえ、驚いたのは私の方ですから。」夏美は樹を見た。「……まさか、幼なじみがこんな大きな会社の社長だなんて、知らされていなかったものですから。」
志織はわずかに眉を上げた。「……幼なじみ、ですか?」
「……ええ。小学校からの付き合いです。彼の『昔の顔』を知っている数少ない人間の一人です。」夏美の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。「……つまり、彼が今みたいな『冷静な実業家』に変わる前からの知り合いです。」
樹は少し気まずそうにコーヒーを手に取った。「……今みたいな『冷静な実業家』って、なんだよ。」
「……だって、そうでしょう? 小さい頃はいつも転んでたのに、今じゃあ『如月社長』だもの。」夏美が志織に向き直った。「……彼、小学校の時、よく転んでましたよ。運動会のリレーで転んで、クラスをビリにしたこともあります。」
「……夏美、それは——」
「……それから、中学生の時は、好きな女の子に手紙を渡せなくて、結局自分で捨てちゃったこともありましたね。」
樹は顔を覆った。「……もういいから。」
志織は声を出さずに笑った。肩が震えている。プロフェッショナルな秘書が、こんなに楽しそうに笑う姿を夏美は初めて見た。
「……志織さん、そんなに笑わないでくださいよ。」
「……すみません、如月さん。」志織は必死に表情を戻そうとしたが、口元が緩む。「……でも、その……『運動会のリレー』の話は、ぜひ詳しく聞きたいです。」
「……ダメだ。」
「……じゃあ、少なくとも『手紙』の話は——」
「……ダメだって言ってる。」
夏美は声を出して笑った。「……志織さん、彼がこんなふうに慌てる姿、見たことありますか?」
志織は首を振りながらも、笑いをこらえている。「……いえ。初めてです。」
「……ですよね。今の彼は『クールな社長』ですから。」夏美は満足そうにコーヒーを一口すする。「……でも、あんまり彼をからかうのも可哀想ですね。今日のところはこの辺で許してあげましょう。」
樹は深い息を吐いた。「……ありがとう、夏美。本当に。」
「……どういたしまして。」夏美が志織に微笑んだ。「……志織さん、もし彼が困っている様子だったら、私のことを思い出してあげてください。『運動会のリレー』で転んだ男ですから。」
「……それは十分すぎるほど参考になりました。」志織は真面目な顔で頷いたが、その目はまだ笑っている。
樹は天井を見上げた。「……もう、俺の尊厳は完全に消し飛んだな。」
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午後4時0分——十階·社長室·更なる会話。
笑い声が収まり、志織はトレイにカップを片付けながら、二人の関係に興味を持った。
「……ところで、夏美さんは今、どのようなお仕事をされているんですか?」
夏美は軽く背筋を伸ばした。「……フリーランスのライター兼編集者です。ビジネス系の記事や、ライフスタイル関連のコラムを書いています。今回のように、企業イベントの取材もたまにやらせてもらっています。」
志織は少し驚いた顔をした。「……なるほど。それで、今日のイベントのご依頼を……承ったのですか?」
「……はい。キサラギ・アセット・マネジメントの名前を見て、運命を感じました。」夏美は樹を見た。「……『キサラギ』っていう名字を見た時、まさかとは思ったけど、やっぱりね。」
樹は申し訳なさそうに頷いた。「……ごめん、夏美。もっと早く伝えるべきだった。」
「……今となっては、いい思い出だよ。」夏美は笑った。「……それに、もし早く知っていたら、今日の『驚き』を楽しめなかったでしょ。」
志織は二人のやり取りを見ながら、何かを考えているようだった。「……夏美さん。よろしければ、今後の取材についても何かお手伝いできることがあるかもしれません。如月さんの古い知り合いという立場は、他にはない強みだと思いますよ。」
夏美は目を輝かせた。「……本当ですか? それはありがたいです。」
「……私の仕事は如月さんを支えることです。あなたのような信頼できる方と繋がりを持てるのは、彼にとってもプラスになるでしょうから。」
樹は志織の言葉に、申し訳なさと感謝の気持ちが入り混じった複雑な表情を浮かべた。「……志織さん、ありがとう。でも、夏美に変な負担をかけるわけには——」
「……負担なんてないよ。」夏美が遮った。「……むしろ、自分の幼なじみがこんなにすごい会社を経営してるって知ったら、書く記事にも熱が入るってもんだよ。」
「……それは商売のためか、それとも友達のためか?」
「……両方だね。」
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午後4時30分——十階·エレベーターホール。
夏美が帰る準備をし、志織と共にエレベーターホールへ向かった。樹も一緒に見送るために歩いていた。
「……今日は本当にありがとう、樹。」夏美が振り返って言った。「……心の準備ができてなかったから、驚いたけど、でも……それを超えて、君がここまで来たんだって思うと、なんかすごく誇らしいよ。」
樹は少し照れくさそうに笑った。「……そんなに褒められると、かえって恥ずかしいな。」
「……恥ずかしがるなよ。君は今、何千人もの社員を抱える会社の社長なんだから。」
「……まだ何千人もいないけどな。」
「……すぐにそうなるよ。君は昔から、決めたことは必ずやり遂げるタイプだったから。」夏美がそっと樹の腕を叩いた。「……頑張れよ、社長さん。」
エレベーターが到着し、ドアが開いた。夏美が乗り込もうとした時、志織が口を開いた。
「……夏美さん、よろしければ今度、オフィスのバックヤードもご案内できますよ。非公開のイベントも含めて、いくつかありますので。」
夏美は目を輝かせた。「……本当ですか? それはぜひお願いしたいです!」
「……では、後日改めてご連絡します。」志織がスマホを取り出し、夏美と連絡先を交換する。
樹はそのやり取りを見ながら、何とも言えない気持ちになった。幼なじみと、信頼する秘書が、こんな形で繋がっていく。不思議な感覚だったが、悪い気はしなかった。
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午後4時45分——十階·社長室。
志織が戻ってきて、樹の前に立った。その表情は笑顔を保ちながらも、どこか真剣なものが混ざっている。
「……如月さん、夏美さんは、とてもいい方ですね。」
樹は少し驚いて、顔を上げた。「……ああ。小さい頃からの付き合いだ。昔はよく一緒に遊んで、よくけんかもしたけどな。」
「……そうですか。」志織は何かを考え込むように、少し間を置いた。「……彼女は『樹』とお呼びでした。それが自然なんでしょうね。あなたの本当の姿を知っているんだなあと思って。」
樹はその言葉に少し戸惑った。「……『本当の姿』って?」
「……今のあなたは、とてもしっかりした社長ですが、その一方で、『普通の男の子』だった時代もあるんですよね。それを知っている人がいるっていうのは……きっと、あなたにとって大きな支えになるんだろうなって。」
樹は言葉を失った。志織の目は、いつもより深く澄んで見えた。
「……志織さん、何か言いたいことがあるのか?」
志織は軽く首を振った。「……いいえ、ただ——」彼女は少し間を置き、それから笑顔を見せた。「——あなたのその『普通の部分』を守ってくれる人がいて、よかったなと思っただけです。私はあなたの『今』を支えるけれど、『昔のあなた』を知っている人も大事ですから。」
樹は何と答えればいいのか分からなかったが、その言葉が胸の奥にじんわりと響いた。
「……ありがとう、志織さん。」
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午後5時0分——十階·社長室·電卓の音。
志織が部屋を出て行った後、樹は一人、東京の景色を眺めていた。今日は多くのことが起きた。夏美に見つかり、全てを説明し、そして志織と引き合わせた。思ってもみなかった展開だったが、悪くないものだった。
「……『昔の俺』を知っている人がいるっていうのは、確かに、心強いな。」
彼は呟き、そして仕事に戻るため、机に目を落とした。
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【次話 第87話——『二人の視点』】
次の日、志織と夏美が、それぞれの視点から樹のことを語り合う。志織は「彼は、自分が思っているよりずっと立派な人間だ」と言い、夏美は「彼は、自分が思っているよりずっと繊細な人間だ」と言う。二人の見解は一致しないが、共通の思いがある——「彼に幸せになってほしい」ということだ。
【第87話へ続く……】




