第82話 ー『彼女だけが知る昔』
第82話 ー『彼女だけが知る昔』
2026年6月14日(日)——午前10時0分。
新宿駅·東口。
新宿の日曜日の朝は、平日とは違う空気が流れていた。通りは平日ほど混雑していないが、それでも週末を楽しむ人々で賑わっている。小さな子供連れの家族、手をつなぐ若いカップル、高層ビルの間で迷っている外国人観光客。駅構内からは電車のアナウンスがこだまし、足音や賑やかな会話と混ざり合っている。
樹は東口の銅像の近くに立ち、スマホを手に、夏美が来るのを待っていた。昨日と同じ服装を選んだ。シンプルで目立たない。白いシャツ、薄いグレーのジャケット、ジーンズ。手首にはヴァシュロン・コンスタンタン·パトリモニーが静かに時を刻んでいる。夏美は高級品に興味がないから、この時計が特別だとは気づかないだろう。
遠くから夏美が歩いてくるのが見えた。長い黒髪を下ろし、水色のカジュアルワンピースを着ていて、実年齢よりも若く見える。笑顔は昔と変わらず、明るく、温かく、そしてエネルギーに満ちている。
「樹! 待った?」
樹は微笑み、首を振った。「……今来たところだ。」
夏美は彼の前で立ち止まり、いたずらっぽい笑顔で頭のてっぺんからつま先まで見つめた。「……相変わらず時間に正確だね。」
樹は肩をすくめた。「……習慣だよ。」
夏美は小さく笑った。軽やかで温かな笑い声だ。「……散歩しない? 神楽坂にいい店があるんだ。ゆっくり話せる古いカフェで。」
彼らは新宿の喧騒を離れ、神楽坂エリアへ向かった。石畳の道、伝統的なレストラン、そしてより落ち着いた雰囲気で知られる地区だ。道中、夏美は仕事のこと、フリーランスライターとしての苦労、そして時には忙しすぎると感じることもあるが東京が大好きだということを語った。
樹は注意深く聞き、時々頷いたり微笑んだりした。この会話には心地よさがあった。子供の頃から知っている人とだけ感じられる心地よさだ。
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午前10時45分——神楽坂·石畳の道。
彼らは神楽坂エリアに入り、雰囲気が一変した。狭い石畳の道、瓦屋根の伝統的な店々、そして食べ物の香りを漂わせる小さなレストラン。遠くからは、道端の小さな水路を流れる水の音が聞こえる。
夏美は樹の隣を歩き、時々店のショーウィンドウを見るために立ち止まったり、ただ景色を楽しんだりした。
「……ここ、好きなんだ。」夏美は小さな陶器店を見つめながら言った。「……新宿や渋谷みたいに騒がしくない。忙しさから逃れるのにぴったりなんだ。」
樹は頷き、周囲を見渡した。「……来たことなかったよ。」
「……本当?」夏美は驚いた表情で樹を見た。「何年も東京に住んでるのに、神楽坂に来たことないの?」
樹は小さく微笑んだ。「……仕事が忙しすぎたんだ。街を探索する時間なんてなかった。」
夏美は息を吐き、半ばからかうような表情で首を振った。「……君はいつもそうだね、樹。いつも忙しくて、いつも真面目で。高校の時だって、全然リラックスできなかったじゃないか。」
樹は答えなかった。ただ夏美の隣を歩き、彼女の言葉を奇妙な気持ちで聞いていた。
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午前11時15分——神楽坂の古いカフェ。
彼らは伝統的な店々の間に隠れた古いカフェに入った。木製のテーブル、アンティークの椅子、そして温かな雰囲気を作り出す黄色い灯りの小さな店。コーヒーと焼き菓子の香りが、隅の古いスピーカーから流れる静かなジャズと共に店内に広がっている。
彼らは窓際の席に座り、静かな石畳の通りに面している。夏美はカフェオレとチョコレートケーキを、樹はいつも通りブラックコーヒーを注文した。
「……変わってないね。」夏美は微笑みながら言った。「……ブラックコーヒー。ずっと変わらない。」
樹は小さく微笑んだ。「……変わらないこともあるんだよ。」
夏美は注意深い眼差しで樹を見た。「……でも、変わったこともたくさんあるよね、樹。君自身がそうだ。」
樹は眉を上げた。「……どういう意味?」
夏美はコーヒーを一口すすると、深い眼差しで樹を見つめた。「……昔はいつも疲れてた。まるで決して降ろしたことのない重荷を背負っているみたいに。今は……」彼女は言葉を止め、適切な言葉を探した。「……今はもっと落ち着いてる。あの重荷が消えたみたいだ。」
樹は答えなかった。ただ夏美を見つめ、胸に温かいものを感じた。夏美は、これら全てが始まる前から彼を知る数少ない人物の一人だ。金持ちになる前、会社を持つ前、システムが彼の人生を変える前から。
「……高校の時のこと、覚えてる?」夏美が突然言った。「……数学の試験に落ちた時、誰にも言わなかっただろ?」
樹は瞬きをし、その出来事を思い出した。「……覚えてるよ。」
「……君は何時間も図書館に隠れてた。私はどこにいるか分からなくて、ずっと探してたんだ。見つけた時、君は隅っこに座って、膝の上に数学の教科書を置いて、壁を見つめてた。」夏美はその出来事を思い出して微笑んだ。「何があったか尋ねたら、『大丈夫だ』って言った。明らかにイライラしてるのに。」
樹はその時の苛立ちを思い出して小さく微笑んだ。「……弱みを見せるのが嫌だったんだ。」
「……知ってるよ。君はいつもそうだった。」夏美は優しい眼差しで樹を見た。「……でも、全てを隠す必要はないんだよ、樹。時には、誰かに助けてもらってもいいんだ。」
樹は答えなかった。ただコーヒーを一口すする。馴染みのある苦さが口の中に広がる。
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午後0時0分——カフェの中·会話は続く。
彼らは多くのことについて話した。子供の頃のこと、学校のこと、長い間会っていなかった友達のこと。夏美はどのようにして作家になることを決めたのか、情熱に合った仕事を見つけるためにどう戦ってきたのかを語った。樹は注意深く聞き、時折コメントしたり質問したりした。
「……樹、気になることがあるんだ。」
「……何?」
「……どうやってこんなに変わったの?」夏美は好奇心いっぱいの目で樹を見た。「……昔はいつも苦しんでいるように見えた。今は……平穏を見つけた人のように見える。」
樹はしばらく考え、適切な言葉を選んだ。「……俺は……助けてくれる人たちに出会ったんだ。そして、自分自身にあまり厳しくしないことを学んだ。」
夏美は頷いたが、その目はまだ好奇心でいっぱいだった。「……それだけ?」
樹は小さく微笑んだ。「……他に何かあると思う?」
夏美はしばらく樹を見つめ、そして微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……ううん。それで十分かもしれない。」
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午後1時0分——神楽坂を散歩·小さな公園。
カフェの後、彼らは神楽坂を歩き、静かな午後の雰囲気を楽しんだ。古い建物の間に小さな公園を見つけた。人気のない場所で、木陰に木製のベンチがある。
彼らはそのベンチに座り、心地よい静けさを楽しんだ。風が優しく吹き、花と木々の香りを運んでくる。遠くでは鳥たちが木々の間でさえずっている。
「……樹。」
樹が夏美の方を向いた。「……うん?」
「……また会えて良かった。」
樹は微笑んだ。「……俺もだよ。」
「……時々、あの頃が懐かしくなるんだ。若かった頃、複雑なことを考えなくていい頃。」夏美は晴れた空を見つめた。「……でも、君がより良い人間に成長するのを見られて嬉しいよ。」
樹は答えなかった。ただ夏美を見つめ、説明できない温かさを感じた。
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午後2時30分——神楽坂での別れ。
彼らは駅へ戻り、夏美は帰る準備をした。彼女は温かい微笑みで樹を見つめた。
「……樹、会えて良かった。しばらく東京にいるから。また会おうね?」
樹は頷いた。「……もちろん。いつでも。」
夏美は微笑み、そして注意深い眼差しで樹を見た。「……樹。」
「……うん?」
「……本当に元気?」
樹はその質問が表面的なものより深いことを感じた。夏美はお金や仕事のことではなく、彼の幸せについて尋ねていた。
「……元気だよ、夏美。俺は……幸せだ。」
夏美は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……良かった。それが一番だからね。」
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午後3時0分——電車の中·帰路。
樹は世田谷行きの電車に座り、夏美との再会について考えていた。彼らは過去のこと、子供の頃のこと、システムが彼の人生を変える前に経験した全てのことについて話した。
夏美は彼が金持ちになる前から彼を知っている。弱くて、怖がりで、いつも一人で闘っていた樹を知っている。そして彼は変わったけれど、夏美は彼を同じように扱ってくれた。友達として、人間として、愛される価値のある人間として。
「……こんな友達がいて、俺は幸せ者だ、夏美。」
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【次話 第83話——『答えられない質問』】
夏美が樹の仕事について尋ねる。樹は沈黙し、簡単に答えようとする。夏美はその答えが曖昧すぎると感じるが、追及しない。彼らは過去について語り合い、初めて、過去からの誰かが樹を金持ちとしてではなく、普通の人間として扱う。夏美はある企業のイベントに参加する仕事のオファーを受ける。その企業はキサラギ・アセット・マネジメントだった。
【第83話へ続く……】




