第70話 ー『母親の勘』
第70話 ー『母親の勘』
2026年6月2日(火)——午前9時0分。
世田谷·千春ビューティースタジオ。
千春はサロンの鏡の前に立ち、プロの目で自分の姿を観察していた。艶やかな黒髪はきちんと整えられ、四十八歳の顔は毎日の丁寧なケアのおかげでまだ美しい。しかし今朝、彼女の心はこの十五年かけて築き上げた美容室にはなかった。
彼女の心は家にあった。樹と共に。
「……何かが違う。」
千春は小声で呟き、昨日の再会を思い返した。いつも疲れていて重圧に押しつぶされていた息子が、今は違って見える。歩き方、話し方、人を見る目——全てが変わっていた。悪い変化ではない。むしろその逆だ。かつて見たことのない静けさが彼の目にあった。
「……千春さん?何かありましたか?」
サロンのスタッフ——雪、二十五歳の若い女性で三年間一緒に働いている——が彼女の物思いを遮った。千春は微笑み、首を振った。
「……いいえ、雪さん。ちょっと考え事をしてただけよ。」
雪も微笑み返したが、それ以上は尋ねなかった。彼女は千春の下で十分長く働いて、オーナーがぼんやりしている時は邪魔をしない方がいいと知っていた。
千春は仕事に戻ったが、心は樹のことでいっぱいだった。息子が自分を抱きしめた方法、あの贈り物を渡した方法、感謝の気持ちでいっぱいの目で自分を見つめた方法。何かが変わっていた。言葉では説明できない何かが。
「……あの子、何か隠している。」
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午前11時0分——千春ビューティースタジオ·施術室。
千春は常連客の田中さんという中年女性の施術をしていた。五年前から通っている客だ。客の髪を乾かしながら、千春は微笑みを絶やさず親しみやすく話したが、心はまだ家にあった。
「……千春さん、今日はぼんやりしてるわね。」田中さんが冗談めかして言った。「何かあったの?」
千春は微笑んだ。温かいが、少し無理のある笑顔だ。「……息子が昨日帰って来たんです。ずっと帰って来なかったので。」
田中さんは眉を上げた。「……ああ、サラリーマンやってたって子?少し前にクビになったって聞いたけど?」
千春は頷いた。「……ええ。でも今は独立して働いているそうです。」
「……それは良かった。若い人は新しいことに挑戦すべきよ。」田中さんは微笑んだ。「……でも千春さん、完全に喜んでいるようには見えないわね。何か心配事でも?」
千春はしばらく沈黙した。そして息を吐いた。「……息子が変わりました。その変化自体は悪いことじゃない。でも……」彼女は鏡を見つめ、自分の姿を見た。「……母親として、何か隠しているのが分かるんです。」
田中さんは答えなかった。ただ理解に満ちた目で千春を見つめた。「……おそらく、話すのにふさわしい時を待っているだけかもしれませんよ。」
千春は微笑んだ。心からの、しかし心配でいっぱいの笑顔だ。「……そうだといいんですけど。」
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午後1時0分——帰宅の途中。
千春は今日は早めにサロンを閉めることにした。無視できない奇妙な感覚が胸にあった。樹に会いたかった。ただ、全てが大丈夫だと確認したかった。
彼女はトヨタ・アルファードを世田谷の静かな街並みの中をゆっくりと走らせ、何年も見慣れた店や家々を通り過ぎた。道中、スマホが鳴った。樹からのメッセージだ。
「母さん、昼飯を作ってるよ。帰ってきても台所が散らかってても驚かないでね。」
千春はそのメッセージを読んで微笑んだ。息子が料理を?想像もしたことがなかった。今まで樹はいつも料理に苦労していた。インスタントラーメンと簡単な玉子焼きしか作れなかった。
「……料理、ね。」
彼女は短く返信し、スマホをバッグにしまった。胸の奇妙な感覚はさらに強くなっていた。何かが変わっている。それを確かめなければ。
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午後1時30分——キサラギ家·台所。
千春が家のドアを開けると、料理の香りがすぐに彼女を包んだ。インスタントラーメンや簡単な玉子焼きの香りではない。もっと複雑で、熟練した香りだ。彼女は静かに台所へ歩いていき、樹がコンロの前に立っているのを見た。彼女がいつも使っているエプロンを着け、手際よくフライパンで魚をひっくり返している。
「……母さん?」
樹が振り返り、微笑んだ。「……もっと遅くに帰ると思ってたよ。でも、ちょうど良かった。もうすぐ昼食ができる。」
千春は戸口に立ち、注意深い目で息子を観察した。ヘラの持ち方、火の調整の仕方、野菜を正確に切る手つき——全てが頻繁にやっていることを示していた。
「……樹、いつから料理ができるようになったの?」
樹は肩をすくめた。「……覚えたんだ。クビになってから時間がたくさんあったから。新しいことに挑戦してみたんだ。」
千春は答えなかった。ただ近づき、息子が作った料理を観察した。美味しそうなソースがかかった焼き魚、きれいに盛り付けられた茹で野菜、そして完璧に整えられた豆腐と海苔の味噌汁。
「……すごく美味しそうね。」
樹は微笑んだ。「……味も美味しいといいんだけど。まだ勉強中だから。」
千春はキッチンテーブルに座り、静かに動き続ける樹を観察した。その動きは慌てておらず、緊張もしていない。ただ静かで熟練している。何度もやってきた人のように。
「……樹。」
「……うん、母さん?」
「……本当に大丈夫なの?」
樹は一瞬手を止め、読み解くのが難しい表情で母を見た。「……もちろん。大丈夫だよ。」
千春は息子の目を見つめた。樹が小さかった時と同じ目。自転車から転んで泣くのを我慢したあの目。本当は良くないのに「大丈夫」と言う時のあの目と同じだ。
「……嘘をついてる。」
樹は瞬いた。「……何?」
「……嘘をついてる。」千春は優しくも断固とした眼差しで樹を見た。「……私はあなたの母よ。我が子が嘘をついている時は分かるの。」
樹は答えなかった。ただ母を見つめ、胸に温かくも痛む何かを感じた。
「……嘘はついてないよ、母さん。ただ……まだ全部を話す準備ができていないだけだ。」
千春は息を吐き、そして微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……いいのよ、樹。お母さんは無理強いはしない。でも……」彼女は優しく樹の手を握った。「……あんまり長く隠し続けないでね。お母さん、心配だから。」
樹は涙がこぼれそうになった。「……約束するよ、母さん。いつか必ず全部話すから。」
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午後2時0分——食卓·二人の昼食。
二人は食卓に座り、樹の作った料理を初めて味わった。千春は一切れの魚を口に運び、ゆっくりと味わい、目をわずかに見開いた。
「……これ、とても美味しいわ、樹。」
樹は安堵の笑みを浮かべた。「……本当? 塩辛すぎないか心配だったんだ。」
「……大丈夫。ちょうどいいわ。」千春はもう一口食べ、その美味しさを堪能した。「……本当に真剣に料理を勉強したのね。」
樹は頷いた。「……大人になったら、自分自身をしっかりケアできるようにならないとと思って。」
千春は誇らしげな眼差しで息子を見た。「……本当に大人になったのね、樹。お母さん、あなたを誇りに思う。」
樹は答えなかった。ただ食べ続け、言葉にできない温かさを感じた。
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午後3時0分——リビング·食後。
千春と樹はリビングに座り、樹が入れた緑茶を楽しんでいた。窓の外では、午後の空がオレンジとピンクに変わり始めていた。
「……樹。」
「……うん、母さん?」
「……幸せ?」
樹は正直な目で母を見た。「……うん、母さん。幸せだよ。」
千春はしばらく息子を見つめ、そして微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……良かった。それが一番大事だからね。」
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午後4時0分——裏庭·小春。
小春が裏庭に現れ、庭の花の手入れをしている千春の隣に立った。千春が振り返ると、末っ子の娘は静かだが、注意深い表情を浮かべている。
「……お母さん。」
「……うん、小春?」
「……お兄ちゃん、何か隠してるよね?」
千春は息を吐いた。「……あなたも感じてたの?」
小春は頷いた。「……でも、悪いことだとは思わない。お兄ちゃん、もっと落ち着いてる。もっと幸せそう。」
千春は微笑んだ。「……あなたはいつも小さなことに気づくのね。」
小春は小さく微笑んだ。「……お兄ちゃんが元気かどうか、知りたかっただけだから。」
千春は優しく末っ子の娘を抱きしめた。「……お兄ちゃんは元気よ。そして、いつか必ず全部話してくれるわ。」
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午後6時0分——家の中·夜。
世田谷に夜が訪れ始めた。家の中の灯りが一つまた一つと点り、室内に温かな雰囲気を作り出している。樹は窓辺に立ち、星々が現れ始めた夜空を見つめていた。
スマホが震えた。志織からのメッセージだ。
「如月さん、良い一日をお過ごしのことと思います。いくつかご署名いただく書類がございますが、お戻りになるまでお待ちいただけます。」
樹は微笑み、返信した。
「ありがとう、志織さん。数日後に戻るよ。」
志織からの返信がすぐに来た。
「ご家族との時間をお楽しみください、如月さん。こちらは全て私が対応いたします。」
樹はそのメッセージを見つめ、そしてスマホを置いた。
背後から、千春が台所から呼ぶ声が聞こえた。「……樹、夕食の準備ができたよ!」
樹は微笑んだ。「……今行く、母さん!」
彼は台所へ向かい、スマホをテーブルの上に置き去りにした。
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【次話 第71話——『父と息子』】
翌日、正則が樹を連れ出す。彼らは自動車のこと、変化する業界のこと、そして人生について語り合う。正則は樹が以前よりもはるかに鋭い理解力を持っていることに気づく。父子の絆がより強くなり、樹は父がまだ説明していない変化を見抜いていることに気づく。
【第71話へ続く……】




