第67話 ー『ただいま』
第67話 ー『ただいま』
2026年5月31日(日)——午前11時30分。
世田谷·キサラギ家——リビング。
千春はまだ樹を抱きしめていた。誰も何も言わなかった。数秒間の沈黙。ただ、久しぶりに感じる母の抱擁の温かさだけがあった。樹は幼い頃から慣れ親しんだ、柔らかな香水の香りを感じた。いつも彼を安心させてくれた香りだ。
「……帰ってきたね。」千春が震える声でささやいた。「ずっと帰ってこなかったね。」
樹は母の抱擁に応え、胸に温かくも痛む何かを感じた。「……ごめん、母さん。忙しくて。」
「忙しくて。」千春はその言葉を半ば叱るように繰り返した。「いつも忙しいって言うんだから。でも、元気そうで何よりだよ。」
まだ樹の横に抱きついていた留奈が、好奇心旺盛な表情で体を離した。「お兄ちゃん!外の大きな車、誰の?」
樹は小さく微笑んだ。「……借り物。」
「誰から借りたの?」留奈は疑わしそうに目を細めた。「あの車、すごく高そうだよ!」
「……友達。」
留奈はその答えに納得しなかったが、それ以上尋ねる前に、美咲が階段からゆったりとした足取りで現れた。髪は後ろで結わえられ、日曜日のだらしなさを感じさせるゆったりとしたTシャツを着ている。
「お兄ちゃん、久しぶり。」美咲はからかうような口調で言った。「もう帰り道を忘れたのかと思ったよ。」
樹は微笑んだ。「……忘れるわけないだろ。」
美咲は近づき、鋭い目で樹を頭の先からつま先まで観察した。「……なんか元気になったね。どうしたの?新しい仕事でも始めたの?」
樹は慎重に首を振った。「……まだだよ。でも、元気にしてる。」
美咲は完全には信じていなかったが、それ以上は尋ねなかった。「……入ってよ。お母さん、たくさん作ってるから。」
部屋の隅で、小春は静かに立っていた。優しい眼差しで樹を見つめている。何も言わなかったが、口元の小さな微笑みが千の言葉よりも雄弁だった。樹は末っ子の妹を見つめ、一瞬の間、言葉を交わさずに互いを理解した。
正則が書斎から静かな足取りで現れた。顔はいつも通り落ち着いているが、樹はその目にほんの少しの優しさを見た。
「……入って来い。玄関に立ちっぱなしじゃない。」
樹は一礼した。「……はい、父さん。」
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午後0時0分——リビング·コーヒーテーブル。
キサラギ家は温かく、活気に満ちていた。台所では千春が飲み物とお菓子の準備に忙しい。留奈はソファにだらしなく座り、足をコーヒーテーブルの上に乗せている。美咲は向かいの椅子に優雅に座っている。小春はソファの隅に座り、静かに観察している。正則は窓際のいつもの席に座り、手に新聞を持っているが、時折読み解くのが難しい表情で樹を見つめている。
千春が緑茶と和菓子の乗った盆を持ってきた。「……はい、どうぞ。お茶が好きだったよね。」
樹は湯呑みを受け取り、手のひらに温かさを感じた。「……ありがとう、母さん。」
留奈はすぐに盆から和菓子を掴み取った。「……お兄ちゃん、何してたの?全然電話してこなかったじゃん!」
樹はお茶を一口すすると、適切な言葉を探した。「……自分探しをしてたんだ。」
正則が新聞を置き、真剣な表情で樹を見た。「……自分探し?」
「……ああ。クビになってから、自分が何をしたいのか考え直す時間が必要だったんだ。」
部屋が静まり返った。千春は心配そうな目で樹を見つめる。美咲は眉をひそめた。留奈は咀嚼を止めた。小春は黙ったままだったが、その目は樹から離れなかった。
「……経済的には大丈夫なの?」千春が慎重に尋ねた。「もし何か困ったことがあれば——」
「大丈夫だよ、母さん。」樹は安心させるように微笑んだ。「……何も困ってない。」
正則は静かに頷いた。「……そうか。それならいい。何より健康が一番だ。」
樹は言葉にできない安堵を感じた。父は追及しなかった。母は無理強いしなかった。ただ……受け入れてくれた。
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午後0時30分——リビング·贈り物を渡す。
雰囲気が少し和らいだところで、樹は立ち上がり玄関へ向かった。「……みんなに持ってきたものがある。」
留奈がすぐに興奮した。「何?何?何?」
樹は微笑み、家の外に出てZeekrのトランクから贈り物を取り出した。彼は五つの箱を持って戻った。様々なサイズで、全て丁寧に包装されている。空っぽだったコーヒーテーブルは、今や贈り物の箱で埋め尽くされている。
樹は最初の箱を手に取った。「……父さんへ。」
正則は落ち着いた表情でその箱を受け取った。慎重に開けると、グランドセイコー·スプリングドライブ·ウシオ300ダイバーが現れた。深いネイビーブルーのダイヤル、輝く針、そして透明なケースバックから見えるスプリングドライブムーブメント。
正則は数秒間、何も言わなかった。ただその時計を手に取り、手の中の重みを確かめ、精度を重視する技術者の目で細部を観察した。
「……これは……」正則がようやく口を開いた。声が少し掠れている。「……これは、とても良い時計だ。」
樹は微笑んだ。「……気に入ってくれたか?」
正則は深い眼差しで樹を見た。「……これを俺に買ってくれたのか?」
「……ああ。父さんは最高のものを受けるに値すると思ったんだ。」
正則は答えなかった。ただその時計を慎重に手に取り、読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。「……ありがとう、樹。」
樹は胸に温かいものを感じた。「……礼には及ばないよ、父さん。」
千春はそのやり取りを小さな微笑みを浮かべて見ていた。樹は二つ目と三つ目の箱を手に取った。「……母さんへ。」
千春は少し震える手で二つの箱を受け取った。最初の箱を開けると、桜のデザインのパッケージに入ったSK-IIスキンケアセットが現れた。彼女の目がすぐに輝いた。「……これ……私の好きなやつ!どうして知ってたの?」
樹は微笑んだ。「……前にこれがお気に入りって言ってたのを覚えてるよ。」
千春が二つ目の箱を開けると、隅に小さな刺繍が施された真っ白な今治タオルが現れた。彼女はその柔らかく滑らかな布地に触れ、涙が頬を伝い始めた。「……樹……」
樹は三つ目の箱を母に手渡した。花の形をした銀のペンダントトップが付いたシンプルな真珠のネックレスだ。「……そしてこれも。母さんに。」
千春がその小さな箱を開けると、涙がさらに溢れ出した。「……あんた……こんなの、買わなくていいのに……」
樹は優しく母を抱きしめた。「……買いたかったんだ、母さん。母さんはこれら全てを受けるに値する。」
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午後1時0分——リビング·妹たちへの贈り物。
美咲は贈り物を受け取り、目を見開いた。「……コーチ·ウィロー·サドルバッグ……」彼女はそのバッグを慎重に手に取り、滑らかな革の質感を確かめた。「……お兄ちゃん、これ、私が欲しかったやつ!」
樹は微笑んだ。「……前にメッセージで言ってたのを覚えてるよ。」
美咲は驚きと感動が入り混じった表情で樹を見た。「……本当に覚えててくれたの?」
「……もちろん。君は妹だろ。」
美咲は答えなかったが、その微笑みが全てを物語っていた。
留奈は贈り物を受け取り、歓喜の悲鳴を上げた。「……ソニーWH-1000XM6!それに、好きなキャラクターのスマホケースまで!お兄ちゃん、私が欲しかったの知ってたの!」
樹は小さく笑った。「……前にメッセージで言ってたろ、留奈。」
留奈は樹をぎゅっと抱きしめた。「……お兄ちゃん最高!」
小春は静かに贈り物を受け取った。小説と詩集だ。彼女は小説を開き、最初の数行を読み、そして優しく目を輝かせた。「……お兄ちゃん、これ……私の好きな作家の……」
樹は微笑んだ。「……前に新作を読みたいって言ってたのを覚えてるよ。」
小春は輝くような目で樹を見た。「……ありがとう、お兄ちゃん。」
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午後2時0分——台所。
千春が台所に戻り、樹も後に続いた。母は料理の準備を始めたが、時折読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。
「……樹。」
「……うん、母さん?」
「……本当に大丈夫なの?」
樹はその質問が表面的なものより深いことを感じた。母はお金のことを尋ねているのではなかった。彼の幸せを尋ねていた。
「……大丈夫だよ、母さん。俺は……幸せだ。」
千春はしばらく樹を見つめ、そして微笑んだ。「……良かった。あなたが幸せなら、それが一番だよ。」
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午後3時0分——リビング。
正則はいつもの席に座り、グランドセイコーの時計はもう手首に巻かれていた。彼は時折それを見つめ、まるでまだ自分がそれを身につけていることを信じられないかのようだった。
「……樹。」
樹が父の方を見た。「……うん、父さん?」
「……今、どこで働いてるんだ?」
樹はしばらく考え、慎重に言葉を選んだ。「……自営業だよ。不動産と投資関係の仕事をいくつかやってる。」
正則は頷いた。「……それで説明がつく。」
「……何の説明だ?」
正則は深い眼差しで樹を見た。「……外の車。時計。それに、これらの贈り物。」彼は一旦止め、より柔らかな声で続けた。「……やったんだな、樹。お前を誇りに思う。」
樹は答えなかった。ただ父を見つめ、胸に温かくも痛む何かを感じた。涙がこぼれそうになったが、こらえた。
「……ありがとう、父さん。」
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午後5時0分——裏庭。
日が西に傾き始め、空がオレンジとピンクに染まり始めた。樹は裏庭に立ち、咲き始めた春の花を見つめていた。風が優しく吹き、土と木々の香りを運んでくる。
小春が静かに彼の隣に現れた。数分間、何も言わなかった。ただ樹の隣に立ち、同じ庭を見つめていた。
「……お兄ちゃん。」
樹は末っ子の妹の方を見た。「……うん、小春?」
「……変わったね。」
樹は答えなかった。
「……昔はいつも疲れてそうだった。今は……」小春は優しい眼差しで樹を見た。「……落ち着いて見える。」
樹は胸に温かいものを感じた。「……それが悪いことか?」
小春は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……ううん。むしろ、いいことだよ。」
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午後6時0分——家の前。
樹は家の前に立ち、道路の端に停めてあるZeekrを見つめた。家の中からは留奈の笑い声と美咲のからかう声が聞こえる。家を生き生きとさせる音だ。
美咲が彼の隣に現れ、Zeekrを好奇心旺盛な表情で見つめた。「……お兄ちゃん。」
樹は顔を向けた。「……うん?」
「……あの車、誰が貸してくれたの?」
樹は小さく微笑んだ。「……友達。」
美咲は目を細めた。「……嘘つき。」
樹は眉を上げた。「……何?」
「……嘘をつく時、いつも同じだよ。目が右に動く。」
樹は沈黙した。美咲がそんな細かいところまで気づいているとは思わなかった。彼は息を吐き、そして正直な目で妹を見た。
「……今は全部は説明できない。でも……いつか、話すよ。」
美咲はしばらく樹を見つめ、そして微笑んだ。理解に満ちた笑顔だ。「……わかった。待ってるよ。」
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【次話 第68話——『久しぶりの家族の食卓』】
その夜、千春はいつも通り作りすぎた。キサラギ家は久しぶりに全員が食卓を囲む。留奈は食べながら話し、美咲は樹をからかい、小春は多くを聞き、正則は仕事の話をする。樹は長い間失っていた何かを感じる——お金では買えない家族の温かさを。
【第68話へ続く……】




