第66話 ー『帰る日』
第66話 ー『帰る日』
2026年5月31日(日)——午前8時0分。
東京都渋谷区恵比寿——樹のマンション。
樹は今朝、いつもと違う感覚で目を覚ました。不安もなく、迷いもなく、ただ今日は待ち望んでいた日だという意識だけがあった。今日は実家に帰る日だ。
彼はベッドの端に座り、窓の外に広がる晴れた東京の空を見つめた。鳥たちがビルの間を飛び交い、朝の光がカーテンの隙間から差し込み、寝室の木の床の上で踊っている。
「……今日、帰る。」
樹は洗面所へ行き、温かいシャワーを浴びて、肩の緊張がゆっくりと解けていくのを感じた。鏡の前に立ち、髪を乾かし、今日の服を選んだ。スーツではなく、目立つ高級品でもない。シンプルな白いシャツに、きちんとした襟、薄いグレーのジャケット、そして履き慣れたジーンズ。手首にはヴァシュロン・コンスタンタン·パトリモニーを着けた。エレガントだが、ブランドを知らない人には目立たない時計だ。家族にはこれが四百二十万円の時計だとは分からない。
「……シンプルだが、きちんとしている。」
彼はリビングへ行き、家族への贈り物が全てテーブルの上にきれいに並べられているのを確認した。五つの箱——全て丁寧に包装されている。樹は一つ一つ確認し、何も忘れていないことを確かめた。
· 父へ:グランドセイコー·スプリングドライブ·ウシオ300ダイバー。
· 母へ:SK-IIスキンケアセット、今治タオル、そして真珠のネックレス。
· 美咲へ:コーチ·ウィロー·サドルバッグ。
· 留奈へ:ソニーWH-1000XM6とスマホケース。
· 小春へ:小説と詩集。
「……全て揃った。」
樹はそれらを慎重に持ち上げ、地下駐車場へ運び、Zeekr 9X Mansoryのトランクに詰め込んだ。大型SUVのトランクは全ての贈り物を収めるのに十分な広さがあり、まだ余裕がある。樹は静かにトランクを閉め、運転席へ向かった。
彼は運転席に座り、柔らかな革が身体にフィットするのを感じた。ダッシュボードの画面が優しく点灯し、エレガントなZeekrのロゴが表示される。画面の隅には、オンボードAIシステムが滑らかな声で朝の挨拶を表示した。
「おはようございます、如月様。本日の天気は晴れ、最高気温は二十二度です。世田谷方面へのルートは、通常の交通状況で約三十五分です。」
樹は小さく微笑んだ。「……ありがとう。」
彼はスタートボタンを押し、電動モーターが心地よい静けさで始動した。Zeekr 9X Mansoryは従来の車のようなエンジン音を発しない。ほとんど神秘的な静けさだ。大型SUVはスムーズに駐車場を出ていき、システムによって制御される滑らかで反応の良い走りを見せた。
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午前8時30分——世田谷へ向かう道。
Zeekr 9X Mansoryは、混み始めた朝の東京の道を走る。車内は快適な静けさで、プレミアムスピーカーから流れる静かなジャズだけが聞こえる。樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら、恵比寿の高級街から世田谷のより落ち着いた住宅地へと変わりゆく街並みを楽しんだ。
ダッシュボードのナビゲーション画面には、高精度でルートが表示され、車線、交通標識、さらには歩道の歩行者までもが詳細に映し出されている。樹はその画面を見て感嘆した。この車の技術は、彼が想像していたものをはるかに超えていた。
高速道路に入ると、彼は「Navigation on Pilot」(NZP)機能を起動した。車はステアリング、アクセル、ブレーキを自動で制御し始め、法定速度と交通状況に応じて速度を調整した。樹は数秒間ハンドルから手を離し、車がスムーズに車線変更して遅い車を追い越す様子を観察した。
「……すごいな。」
オンボードAIシステムが滑らかな声で応答した。「ありがとうございます、如月様。Zeekr 9Xの自動運転システムは、NVIDIA DRIVE Orinチップを搭載しており、総計算性能は508 TOPSです。屋根上のLiDARセンサーが前方二百五十メートル以内の道路を常時スキャンしており、暗所でも高い精度を維持します。」
樹は小さく微笑んだ。「……ただ家に着ければそれでいいんだ。」
「安全にお届けいたします、如月様。」
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午前9時0分——渋谷通過。
Zeekrは有名な渋谷スクランブル交差点を通り過ぎた。絶え間ないリズムで交差点を渡る人々の海。樹は静かな車内から彼らを見つめ、かつて自分がいた世界との距離を感じた。
数ヶ月前まで、彼は彼らの一人だった。急ぎ足で歩き、電車を追いかけ、仕事のことを考えていた。今は、周辺のアパート一棟分の価格に匹敵するかもしれない車に座り、静かに世界が通り過ぎるのを眺めている。
「……随分と遠くまで来たものだ。」
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午前9時15分——代々木公園通過。
車は代々木公園を通り過ぎた。緑の木々が朝の日差しの下で生き生きと輝いている。樹は子供の頃を思い出した。よく家族と一緒にこの公園で遊んだものだ。お弁当を持った千春、ベンチに座って新聞を読む正則、そして木々の間を走り回る三人の妹たち。
「……久しぶりだな。」
オンボードAIシステムが優しく応答した。「子供時代を思い出させる曲をおかけしましょうか、如月様?」
樹は瞬いた。「……そんなこともできるのか?」
「私は音楽データベースに接続されており、あなたの聴取パターンに基づいて好みを分析できます。あなたがよく二〇〇〇年代の曲を聴いていることを検知しました。」
樹は小さく笑った。「……いいや。ただ……考え事をしていただけだ。」
「かしこまりました、如月様。静かにいたします。」
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午前9時30分——東京都世田谷区·桜丘四丁目。
Zeekrが世田谷の住宅地に入り始めた。より狭い通り、生い茂る街路樹、そして静かな和風の家々。樹は子供の頃から知っている風景を見た。通り角のパン屋、よく遊んだ小さな公園、そして昔と変わらない小学校。
彼は車の速度を落とし、言葉にできない郷愁を感じた。この通りの隅々が記憶を呼び覚ます。忘れていたと思っていた記憶が、まだ心のどこかに残っているのだ。
「……帰ってきた。」
Zeekrが桜丘四丁目の細い道を曲がると、道の突き当たりに木々の間にキサラギ家の家が見えた。クリーム色の二階建ての家に茶色の瓦屋根、正面の小さな庭、そして隣には父のトヨタ・クラウンと母のトヨタ・アルファードが停まるガレージ。
樹はZeekrを家の前に停めた。ガレージは既に埋まっていたからだ。彼は駐車ボタンを押すと、車がステアリングとペダルを自動制御し、道路の端に完璧に駐車した。樹は自動駐車システムの動作を観察した。車はスムーズにバックし、角度を調整し、希望の位置に正確に停止した。
「……駐車完了しました、如月様。」
樹は微笑んだ。「……ありがとう。」
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午前9時30分——キサラギ家の前。
樹はZeekrを降り、歩道に立って実家を見つめた。家は彼の記憶のままだ。年月で少し色あせたクリーム色の壁、千春が手入れする花々の小さな庭、そしてその上のシンプルな彫刻が施された木製の扉。
彼が歩き出す前に、家のドアが開いた。
千春が玄関に現れた。腰にエプロンを巻き、顔に満面の笑みを浮かべて。その目はすぐに樹に注がれ、表情が変わった。温かい笑顔から、涙がこぼれ落ちそうな表情へ。
「……樹!」
樹は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……ただいま、お母さん。」
「ああ、もう……」千春は走り出し、樹をぎゅっと抱きしめた。「……帰ってきたね! ずっと帰ってこなかったんだから!」
樹が答える前に、家のドアがさらに大きく開いた。留奈が興奮した表情で飛び出してきた。長い髪が風に揺れている。
「お兄ちゃん!」
留奈は樹に飛びつき、横から抱きついた。過剰なエネルギーだ。樹はよろめきそうになったが、笑った。心からの、温かな笑い声だ。
「……留奈、相変わらずだな。」
「もちろん! ずっと同じだよ!」留奈は抱擁を解き、輝くような目で樹を見た。「……お兄ちゃん、なんでそんなに久しぶりなの?」
樹は微笑んだ。「……ごめん。忙しかったんだ。」
千春が抱擁を解き、目の端の涙を拭った。「……さあ、外に立ってないで。入って! ご飯、たくさん作ったから!」
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午前9時45分——家の中·リビング。
樹は家の中に入り、言葉にできない温かさを感じた。リビングは彼の記憶のままだ。使い古された茶色の革張りのソファ、何年もの使用で傷のついた木製のコーヒーテーブル、そして壁に掛けられた家族写真。
正則が書斎から現れ、落ち着いた表情で樹を見た。抱擁も涙もなく、ただ短い会釈と口元の小さな微笑みだけだ。
「……おかえり。」
樹は一礼した。「……ただいま、お父さん。」
正則はもう一度頷き、リビングへ向かった。「……座れ。」
樹はソファに座り、留奈はすぐにその隣に、抑えきれないエネルギーで座った。千春は飲み物を取りにキッチンへ走り、美咲が階段から現れて、興味深そうな表情を浮かべた。
「……お兄ちゃん、久しぶり。」
樹は美咲を見て微笑んだ。「……美咲、大人になったな。」
美咲は微笑んだ。意味深な笑顔だ。「……お兄ちゃんも、なんか変わったね。」
樹は眉を上げた。「……変わった?」
「……うん。前より……なんか、余裕ある。」
樹は答えなかった。ただ小さく微笑んだ。
小春が部屋の隅から現れた。いつも通り、静かで、優しく、観察力がある。彼女は少し後ろに立ち、落ち着いた目で樹を見つめた。
「……お兄ちゃん。」
樹は小春の方を向き、初めて末っ子の妹の目に何かを見た。言葉にできない何かだ。小春は多くを語らないが、その眼差しは千の言葉よりも雄弁だった。
「……おかえり。」
樹は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……ただいま、小春。」
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午前10時0分——リビング·贈り物を渡す。
全員が座った後、樹は立ち上がって玄関へ向かった。「……みんなに持ってきたものがある。」
彼は庭に出て、Zeekrのトランクを開け、贈り物を一つ一つ取り出した。五つの箱。様々なサイズ。全て丁寧に包装されている。
千春が窓からそれを見て、家の前に停めてある車を見て目を見開いた。「……樹、あの車……」
樹は全ての贈り物を手にリビングへ戻った。「……借り物だよ。」
千春は疑わしそうに彼を見たが、それ以上は尋ねなかった。
樹は全ての贈り物をコーヒーテーブルの上に置き、一つ一つ手に取った。
「……父さんへ。」
正則はその箱を落ち着いた表情で受け取った。慎重に開けると、グランドセイコー·スプリングドライブ·ウシオ300ダイバーを見て目がわずかに見開かれた。深いネイビーブルーのダイヤル、光る針、そして裏側から見えるスプリングドライブムーブメント。
「……これは……」
樹は微笑んだ。「……グランドセイコーです。最新モデル。父さんが気に入ると思って。」
正則はしばらくその時計を見つめ、そして読み解くのが難しい表情で樹を見た。
「……樹、これ、高いんじゃないか?」
樹は首を振った。「……父さんはそれを受けるに値します。」
正則は答えなかった。ただその時計を慎重に手に取り、手の中の重みを確かめた。
「……ありがとう。」
樹は母への贈り物を受け取った。SK-IIのスキンケアセット、今治のフェイスタオル、そしてシンプルな真珠のネックレス。千春は少し震える手でそれらの箱を開け、涙が頬を伝い始めた。
「……樹、これ……」
「……母さんはいつも他人を大切にしてきた。母さんも大切にされるべきだと思ったんだ。」
千春は泣いた。心からの、温かな涙だ。「……ああ、もう……そんなの、買わなくていいのに……」
樹は母を抱きしめた。「……買いたかったんだ。」
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午前10時30分——リビング·妹たちへの贈り物。
美咲はコーチ·ウィロー·サドルバッグを受け取り、驚いた表情を浮かべた。「……お兄ちゃん、これ、私が欲しかったやつ……」
樹は微笑んだ。「……前にメッセージで言ってたのを覚えてるよ。」
美咲はそのバッグを慎重に手に取り、滑らかな革の質感を確かめた。「……ありがとう、お兄ちゃん。」
留奈はソニーWH-1000XM6とスマホケースを受け取り、小さな悲鳴を上げた。「……お兄ちゃん!これ、私が言ってたやつ!」
樹は小さく笑った。「……知ってるよ。」
留奈はぎゅっと抱きしめた。「……お兄ちゃん大好き!」
小春は小説と詩集を受け取り、小さな微笑みを浮かべた。彼女は小説を開き、最初の数行を読み、そして優しい眼差しで樹を見た。
「……お兄ちゃん、ありがとう。」
樹は微笑んだ。「……礼には及ばない。」
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午後0時0分——台所。
千春はいつも通り、作りすぎた。食卓は樹が子供の頃から知っている料理で埋め尽くされている。ご飯、味噌汁、焼き魚、天ぷら、サラダ、そして様々なおかず。樹は家族と共に食卓に座り、久しぶりに言葉にできない幸福感を味わった。
留奈は大学の話を続け、美咲は樹の仕事についてからかい、小春は静かに観察し、千春は樹にもっと食べるよう促し続けた。正則はただ静かに座っていたが、時折読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。
「……樹。」正則がようやく口を開いた。
樹は顔を上げた。「……はい、父さん?」
「……お前、元気そうだな。」
樹は胸に温かいものを感じた。「……うん。元気だよ。」
正則は頷き、再び食事に戻った。
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午後2時0分——裏庭。
昼食後、樹は裏庭に立っていた。母が手入れする小さな庭。春の花が咲き始め、風が木々の間を優しく吹き抜ける。
小春が静かに彼の隣に現れた。樹が振り返ると、末っ子の妹が静かに立ち、優しい表情で庭を見つめている。
「……小春。」
小春は優しい眼差しで樹を見た。「……お兄ちゃん。」
「……どうした?」
小春は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……お兄ちゃん、最近……ちゃんと笑ってるね。」
樹は答えなかった。ただ小春を見つめ、胸に温かいものを感じた。
「……うん。そうかもしれない。」
小春はもう一度微笑み、そして家の中へ戻っていった。
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午後5時0分——家の前。
日が西に傾き始め、空がオレンジとピンクに染まり始めた。樹は家の前に立ち、道路の端に停めてあるZeekrを見つめた。美咲が彼の隣に現れ、その車を好奇心旺盛な表情で見つめた。
「……お兄ちゃん。」
樹は顔を向けた。「……うん?」
「……あの車、誰の?」
樹は小さく微笑んだ。「……借り物。」
美咲は目を細めた。「……本当?」
「……本当だよ。」
美咲は完全には信じていなかったが、それ以上は尋ねなかった。
「……お兄ちゃん。」
「……うん?」
「……変わったね。」
樹は美咲を見た。「……そうかな。」
美咲は微笑んだ。意味深な笑顔だ。「……うん。でも、悪くないよ。」
樹も微笑み返した。「……ありがとう。」
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【次話 第67話——『ただいま』】
樹が家に入る。千春が彼の顔を覗き込み、留奈が抱きつき、美咲が服を観察し、小春が少し後ろに立つ。正則が書斎から出てくる。劇的な場面も、過剰な涙もない。ただシンプルな言葉だけだ。「おかえり」と「ただいま」。その言葉がこの章の感情の中心となる。
【第67話へ続く……】




