第06話 ー『最初の女性』
第06話 ー『最初の女性』
2026年4月10日(金)——午前8時40分。
箱根湯本駅。
小田原からの在来線が、ブレーキの音を立てて到着した。ドアが開き、久遠冴が規則正しく効率的な動きで降り立つ。人生の一分一秒を無駄にしないことに慣れた人間のそれだ。
彼女は濃いグレーのブレザーに、黒のペンシルスカート、ベージュのローヒールを身につけていた。肩にはブラウンの革製トートバッグ。中にはタブレットと書類が入っている。長い黒髪は後ろできちんとまとめられ、一筋の乱れもない。
駅のホームで、箱根の空気が彼女を迎えた。より爽やかで、より清潔で、遠くの温泉からかすかに漂う硫黄の香り。冴は一瞬だけ息を吸い込んだが、あまり長く景色を楽しむことはしなかった。
彼女はスマホを取り出し、昨夜から準備していたタスクリストを開いた。
箱根·資産調査——月見荘。
アステリア·ホールディングスのCEO、高峰耕介から与えられた任務だ。箱根の古い旅館が先日所有者を変えた。そして会社は、その取引を担当した不動産会社との業務関係から、この物件に間接的な利害関係を持っている。冴の任務は単純だ。すべての法務書類が正しく完了していることを確認し、物件の状態を簡潔に報告すること。
しかし、昨夜から彼女の心に引っかかっていることが一つあった。
その旅館の新しい所有者。
如月樹。
冴は昨夜、短時間だけ彼の経歴を調べた。寝る前の数分間。彼女は決して仕事を寝室に持ち込まないが、検索結果が予想以上に気になり、予定より長く起きていた。
事業経歴なし。
投資家としての記録なし。
彼の名義の大企業なし。
ただ:
· 東京の国立大学卒業。
· 株式会社東都リンクスで二年間勤務。
· 三日前に解雇。
冴は無表情でスマホの画面を見つめた。
二十三歳の元サラリーマン。不明瞭な理由で解雇された男が、突然七千八百万円の古い旅館を現金で購入した。
それは筋が通らなかった。
そして冴は筋の通らないことが好きではなかった。
彼女はスマホをブレザーのポケットにしまい、駅前のバス停へ向かった。
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午前9時15分——月見荘へ続く道。
冴は昨日樹が降りたのと同じバス停で降りた。木々の間を登っていく舗装された細い道は、相変わらず静かで人気がない。彼女は規則正しい足取りで歩いた。ローヒールがアスファルトの表面に柔らかな音を立てる。
遠くに、旅館の屋根が見えた。濃い色の瓦には所々に苔が生えている。建物は物件情報の写真よりも古く見え、屋根の一部が歪んでいるように冴には映った。
彼女は木製の門に近づき、開けると蝶番がきしんだ。
庭では、若い男が枯れ葉を掃いていた。
山田哲夫ではない。もっと若い男。黒い髪は少し乱れ、グレーのシャツはズボンの中に入っていない。その表情は、ほとんど怠惰に見えるほどくつろいでいた。
その男は冴を見て、掃除をやめた。
「ああ、久遠さん。」
冴は瞬いた。「……如月さん?」
「はい。おはようございます。」
冴は、完全には隠せない表情で樹を見つめた。少しの驚き、少しの疑問、そして彼女の落ち着いた目の奥で育つ好奇心。
「如月さん……こちらに泊まっていらっしゃるのですか?」
「昨夜はね。この近くにホテルがなくて、山田さんが空いてる部屋を使っていいって言ってくれたんだ。」
冴は彼の手にある箒を見た。「……そして庭を掃除なさっているのですか?」
樹は自分の手にある箒を見た。まるでそれを持っていることを忘れていたかのように。「ああ。うん。この庭、すごく散らかっててさ。このままにしておくのは気持ちが悪くて。」
冴は何と言えばいいのか分からなかった。
昨夜出会った樹——謎の黒いカードと、金に対する静かな無頓着さを持った男——が、今は古い旅館の庭に立ち、まるで朝のコーヒーを楽しむかのような表情で枯れ葉を掃いている。
「……中へどうぞ。」樹が言った。「お茶を入れたところです。すみません、コーヒーはないんです。」
冴は断りかけていた。彼女はビジネスのために来たのであって、お茶を飲むためではない。しかし樹の話し方の何か——堅苦しくなく、印象付けようともせず、ただ誠実な——が彼女をためらわせた。
「……はい。ありがとうございます。」
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午前10時20分——月見荘·大広間。
冴は大広間の畳の上に座り、開いた障子を通して裏庭を眺めていた。外では、朝の風が木々の葉を揺らし、温泉の湯気が青い空へと細く立ち上っている。
樹が台所から戻り、緑茶の入った湯呑みを二つ持ってきた。一つを冴の前に置き、もう一つを持って向かいに座る。堅苦しくなく、形式的でもなく、まるでその部屋にずっと慣れ親しんでいる者のように。
「お相手できるものがなくてすみません。」樹はお茶を一口すする。「山田さんはもう息子さんの家に行ってしまったので。ここには私一人です。」
冴は湯呑みを手に取った。「構いません。私はいくつか追加の書類を確認すればそれで十分ですので。」
「何か問題が?」
「いいえ。ただの手続きです。」冴はバッグを開け、タブレットを取り出した。「しかし……一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」
樹は眉を上げた。「どうぞ。」
「あなたはこの旅館を二日前に買われました。十分な物件調査もせずに。現金でお支払いになりました。開発計画もお持ちでない。そして——」冴は一瞬言葉を切り、慎重に言葉を選んだ。「——あなたは先日、仕事をクビになったばかりです。」
樹は怒った様子を見せなかった。ただ静かに頷いた。
「ええ。その通りです。」
冴は彼を見つめた。「……それを私が知っていることを、気にされないのですか?」
「いいえ。事実ですから。」
「如月さん、差し支えなければ……その大金はどこから?」
樹は湯呑みを見つめ、そして肩をすくめた。
「……説明できないんです。」
「説明できない?」
「ええ。正気を疑われずに説明する方法が分からないんです。」
冴は沈黙した。彼女は人生で多くの金持ちに会ってきた。投資家、実業家、名家の相続人、会社の重役。彼らには皆、共通点があった。賢く見えたい、成功しているように見えたい、自分が持っているものに値する人間だと見せたい。
樹は違った。
樹はまるで、自分が求めてもいない重荷を背負わされているかのようだった。
「……あなたは変わった方ですね、如月さん。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
冴はお茶を一口すすった。味は素朴だが、丁寧に淹れられている。苦すぎず、甘すぎない。樹はどうやらお茶の淹れ方を知っているようだった。
「一つ言いたいことがあるんです。」樹が突然言った。「変に聞こえるかもしれないけど……来てくれてありがとう。」
冴は眉を上げた。「仕事ですから。」
「うん、でも……」樹は窓の外の庭を見つめた。「最近、話し相手がほとんどいなくて。誰かと話せるのは……気持ちがいいなと思って。」
冴は答えなかった。
ただもう一度お茶をすする。そして樹の言葉を心の中にしまい込んだ。
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午後1時0分——温泉の湯舟のほとり。
すべての書類が終わり、冴は本来なら東京に戻るはずだった。
しかし彼女は帰らなかった。
代わりに、温泉の湯舟のほとりに立ち、湯気が昼の空へ立ち上るのを見つめていた。樹がその横に立ち、黙って景色を楽しんでいる。
「いい湯ですね。」冴がようやく口を開いた。「業務でいくつかの箱根の旅館を見てきましたが。ここの湯は……質が高い。」
樹が頷いた。「山田さんもそう言ってました。」
「あなたは、この旅館を手入れなさるおつもりですか?」
樹は静かに首を振った。「やり方が分からない。」
冴は振り返り、読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。「……では、なぜ買われたのですか?」
樹はしばらく考えた。
「たぶん……ただ、帰れる場所が欲しかったんだと思います。誰も何も期待しない場所。静かな場所。」
彼はそこで一旦止まり、そして小さく微笑んだ。
「逃げたかったのかもしれません。」
冴は何も言わなかった。
しかし彼女の心の中で、何かが動いた。予想もしなかった何かが。
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午後2時30分——月見荘の門の前。
冴は帰る準備をしていた。樹は門の前に立ち、両手をジャケットのポケットに入れ、いつものようにくつろいだ表情で立っている。
「来てくれてありがとう、久遠さん。」
「仕事ですので。」
「それでも。」樹は頷いた。「気をつけて帰ってください。」
冴は数歩歩き、そして立ち止まった。振り返り、もう一度樹を見つめた。
「如月さん。」
「はい?」
「……物件の管理でお困りのことがあれば、お手伝いできます。アステリア·ホールディングスの代表としてではなく。個人的に。」
樹は驚いたように見えた——一瞬だけ、そしてすぐに表情は穏やかに戻った。
「……ありがとう。覚えておきます。」
冴は頷き、振り返って歩き出した。
木々の間の細い道を歩いていると、ブレザーのポケットでスマホが震えた。彼女は取り出し、新着メッセージを読んだ。
アステリア·ホールディングス内部分析チームからだ。
「月見荘の新所有者に関する追加情報のご依頼について。背景調査の結果:いずれの事業グループとの関係も確認できず。過去の資産所有記録なし。投資履歴なし。銀行借入なし。高額所得の税務記録なし。有力家族との婚姻記録なし。ステータス:異常。」
冴はそのメッセージを二度読んだ。
そしてスマホをブレザーのポケットに戻した。
彼女の前方では、箱根の山々が晴れた空の下で青くそびえている。彼女の背後では、古い旅館が木々の間に静かに立っている。その中には、いかなる論理にも当てはまらない奇妙な若者がいる。
冴は歩き続けた。
しかし久しぶりに、彼女は何かに興味を持っていた。ビジネスについてではなく、任務についてではなく、キャリアについてでもない。
誰か一人の人間について。
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【次話 第07話——『秘書』】
東京に戻った冴は、樹についてさらに深く調べ始める。彼女は樹が旅館だけでなく、恵比寿のマンションも買い、明確な理由もなく数千万円を使い果たしていることを発見する。冴は疑問を抱き始める。樹は本当に金に無頓着な人間なのか。それとも、彼が隠しているもっと深い何かがあるのか。
【第07話へ続く……】




