第05話 ー『買ったのは古い旅館』
第05話 ー『買ったのは古い旅館』
2026年4月9日(木)——午前9時15分。
恵比寿のマンション。
樹は床に座り、膝の上にノートパソコンを置いていた。画面には昨夜見つけた物件情報が表示されている。
湯乃宿・月見荘。
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町。
価格:七千八百万円。
古い建物。三代にわたって地元の家族が経営。収入は低い。ほぼ倒産状態。主要な観光ルートから外れていることと、大規模な改修が必要なため、投資家の関心はない。
樹はその説明を何度も読み返した。
「古い旅館……人気がない……収益を生まない。」
彼は小さく笑った。
「完璧だ。」
樹はノートパソコンを閉じ、立ち上がって洗面所へ向かった。鏡の中の自分を見つめる。顔は昨日と同じだが、目に何かが変わっていた。喜びではない。野心でもない。ただ静かな好奇心だ。
「東京を離れるのも悪くない。」
彼は服を着替えた。グレーのカジュアルシャツ、薄手のジャケット、少し擦り切れたジーンズ。スーツはない。ネクタイはない。光る革靴もない。
久しぶりに、彼は自分らしい服装をしていた。
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午前10時30分——新宿駅。
樹は小田原行きの新幹線の切符を買った。グリーン車ではない。まだ経済席に慣れている。その習慣はなかなか抜けなかった。彼はホームに立ち、電車を待っていた。周りは観光客や、スマホに忙しいビジネスマンたちで囲まれている。
電車は定刻通りに到着した。
樹は乗り込み、窓際の空いている席を見つけて座った。窓の外では、東京の景色が変わり始めていた。高層ビルが住宅地に変わり、やがて遠くに田園と山々が見えてくる。
彼は何も考えずにその景色を見つめた。
箱根で待っている人はいない。会議もない。目標もない。ただ、システムがお金を使えと言うから買おうとしている古い旅館があるだけだ。
「……変な話だ。」
彼はその言葉を小さく呟いた。
昔は、こういう旅行はいつも計画されていた。ホテルを予約し、ルートを計画し、費用を計算し、全てが効率的であることを確認しなければならなかった。今、彼は七千八百万円の物件を、それでどうするかもよく分からずに買うために箱根へ行こうとしている。
樹は息を吐き、目を閉じた。
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午後0時40分——小田原駅。
樹は新幹線を降り、箱根湯本行きの在来線に乗り換えた。旅は約一時間かかった。緑の山々、小さな川、晴れた空の下で穏やかに見える村々を通り過ぎる。
箱根湯本駅で降りた。
ここの空気は東京とは違っていた。より爽やかで、より冷たい。遠くから温泉の硫黄の香りがかすかに漂っている。樹は深く息を吸い込み、都会の排気ガスを含まない空気を肺に満たした。
スマホを開き、地図を確認した。
湯乃宿・月見荘——駅からバスで約十五分。
樹はバス停へ歩き、他の数人の観光客と一緒に待った。隣の年配の女性が彼に微笑みかけた。
「観光客ですか?」
「……まあ、そんなところです。」
「箱根の春は本当に美しいですよ。桜はもう散り始めましたが、山の眺めはまだ素晴らしいです。」
樹は丁寧に頷いた。「ありがとうございます。」
バスが到着した。彼は乗り込み、窓際の席に座り、流れゆく景色に身を任せた。
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午後1時15分——月見荘近くのバス停。
樹は人気のないバス停で降りた。近くに店はない。観光客もいない。ただ、木々の間を登っていく舗装された細い道と、その上に広がる青空だけがある。
彼はスマホの地図に従って歩いた。
道は次第に狭くなり、緑の木々と手入れの行き届いていないように見える茂みに囲まれていた。遠くに、古い建物の屋根が見えた。濃い色の瓦で、所々に苔が生えている。
五分ほど歩くと、彼は門の前に到着した。
古い木造の門。その上の看板は色褪せている。
湯乃宿・月見荘
その下に、かすかに読める文字。
「昭和三十三年創業。天然温泉の湯宿。」
樹はその門を見つめた。
門の向こうの建物は、想像以上に古く見えた。ファサードの木材は年月で黒ずんでいる。いくつかの障子は破れている。玄関先は掃かれていない枯れ葉で覆われている。
「……確かに人気はなさそうだ。」
彼は門を開けた。蝶番がきしむ音を立てて。
そして足を踏み入れた。
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午後1時30分——月見荘の玄関先。
庭では、年老いた男性がゆっくりとした動きで枯れ葉を掃いていた。白い髪、少し猫背、薄い灰色の浴衣を着ている。
その男性は樹が近づくと顔を上げた。
「……こんにちは。何かご用でしょうか?」
「如月樹と申します。この旅館の購入について、不動産会社を通じて連絡させていただきました。」
老人は掃除をやめた。その目は樹を、驚きと疑念が入り混じった表情で見つめた。
「……昨日お電話くださった方ですか?」
「はい。」
老人は箒を置き、歩み寄ってきた。樹より背が低く、しわくちゃな顔をしているが、その目は鋭かった。多くのことを見てきた老経営者の目だ。
「山田哲夫です。この旅館の持ち主です。あるいは……本当に買っていただけるなら、元持ち主になりますが。」
樹は丁寧に一礼した。「お会いいただきありがとうございます、山田さん。」
山田は長い息を吐いた。「本当に、この場所を買うおつもりですか?」
「はい。」
「この状態を見ても?」
「物件情報は見ました。」
「物件情報には全ての損傷は載っていませんよ。三箇所で雨漏りがしています。温泉の配管は交換が必要です。二階の浴室は使えません。それに——」山田は一旦止まり、本館を指さした。「——この六ヶ月間、お客様は一人もいません。」
樹は頷いた。「承知しています。」
山田は眉をひそめた。「……それでも買いますか?」
「はい。」
老人は沈黙した。樹を、読み解くのが難しい眼差しで見つめた。困惑、驚き、そしてかすかな期待が入り混じった眼差しだ。
「あなたは……この場所を再生させるおつもりで?」
「いいえ。」
「……いいえ?」
樹は首を振った。「再生させたいわけではありません。ただ買いたいんです。」
山田は数秒間、言葉を失って樹を見つめた。
「……あなたは変わった方ですね、若旦那。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
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午後2時30分——本館内部。
山田は樹を連れて旅館の中を案内した。
建物は外から見るよりも広かった。二階建てで、和風の客室が十室、広い食堂、くつろぎ用の畳の間、そして裏手には温泉風呂があった。
一番印象的だったのは風呂だった。天然温泉の湯舟は緑の山々を見渡し、湯気がかすかに立ち上っている。湯舟の縁には自然石が使われ、不揃いだが自然な感じを与えていた。
「湯は良いんですよ。」山田は湯舟の縁に立ちながら言った。「ここの源泉は質が高い。ちゃんと手入れをすれば、お客様は来るでしょう。しかし……私はもう老いて、世話をするのが難しくなりました。子供たちは継ぎたがらない。都会で暮らす方を選びました。」
樹はその湯舟を見た。
彼はビジネスの可能性に関心がなかった。湯の質にも関心がなかった。彼が考えていたのはただ、ここは静かだ。人気がない。東京から遠い。そしてこれを買えばシステムが三億円をくれる。それだけだ。
「買います。」樹は言った。「値段は七千八百万円、掲載の通りでよろしいですか?」
山田は静かに頷いた。「本当によろしいのですか?」
「はい。」
「……もっと詳しくご覧になりませんか?値下げ交渉はなさらないのですか?」
樹は首を振った。「必要ありません。」
山田は長い間沈黙した。そして微笑んだ。疲れているが、誠実な老いた微笑みだった。
「あなたは変わった方だ、如月さん。しかし……この場所には、変わった人が必要だったのかもしれません。」
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午後3時30分——山田の事務室。
購入手続きは樹の想像以上に時間がかかった。署名すべき書類があり、土地の権利書を確認し、地元の公証人の承認を得る必要があった。
しかしシステムの黒いカードは、行政手続きのほとんどを加速させた。樹が東京から連絡した不動産会社が担当者を派遣していて、二時間も経たないうちに全ての書類が整った。
樹は各ページに署名した。
山田もその横に署名した。
「……おめでとうございます、如月さん。今日から、月見荘はあなたのものです。」
樹はその書類を見た。紙の上で、如月樹という名前が、箱根の古い旅館の新しい所有者としてきれいに印字されている。
「ありがとうございます、山田さん。」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。」山田は深くお辞儀をした。「私はもうこの場所を世話できません。しかし……誰かが買ってくれるのを見ると、長年育てた子供を手放すような気持ちです。」
樹は何と言っていいか分からなかった。
ただ、同じようにお辞儀を返した。
「……できる限り、大切にします。」
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午後6時30分——温泉の湯舟のほとり。
全ての書類が終わると、山田は町に住む息子の家へと去っていった。旅館には誰もいない。樹だけが残り、温泉の湯舟のほとりに座り、湯気が夕方の空へ立ち上るのを見つめていた。
スマホが震えた。
樹は画面を見た。
【QUEST 02 —— 達成】
【八千万円が使用されました。】
【残り使用額: 〇円】
【リワード計算中...】
画面が変わった。
【三億円が追加されました。】
【新しい残高: 三億六千四百八十万円】
樹はその数字を見つめた。
三億六千四百八十万円。
二日間で、彼の資産は三倍以上になった。
彼は息を吐き、スマホをポケットにしまった。
目の前では、温泉の湯舟がまだ湯気を上げている。遠くでは、山々が色を変え始めていた。夕日を受けてオレンジとピンクに染まっている。
樹はそこに長い間座っていた。
ただ静けさを味わっていた。
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午後7時0分——本館内部。
樹は旅館の木製の廊下を歩いた。足音が少しきしむ床に柔らかく響く。両側には障子が並んでいる。一部は傷んでいるが、ほとんどはまだ無事だった。
彼は一つの襖を開けた。
中は中くらいの広さの和室だった。畳、押し入れにきちんと畳まれた古い布団、裏庭に面した窓。外では、木々が夜風に揺れている。
樹は畳の上に座った。
「……これが俺のものか。」
彼はその言葉を声に出した。自分の耳で聞いて、初めて信じられる気がしたのだ。
答えはなかった。
ただ風の音と、外の湯舟から聞こえる水のせせらぎだけだ。
樹は目を閉じた。
彼は幸福感を感じていなかった。誇りも感じていなかった。彼が感じていたのは、ただ奇妙な安堵感だった。ずっと気づかなかった重荷が、ようやく軽くなり始めたかのような。
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午後8時0分——大広間。
樹が大広間に座っていると、外から足音が聞こえてきた。
山田の足音ではない。もっと軽く、もっと整然とした足音。女性が誰かと電話で話している声がかすかに聞こえる。
樹は立ち上がり、玄関へ歩いていき、ドアを開けた。
外では、一人の女性が薄暗い庭灯の下に立っていた。
長い黒髪が背中まで伸びている。クリーム色のブレザーに濃い色のペンシルスカート。その顔は落ち着いていて、プロフェッショナルな表情。そしてその目——濃い茶色——が、抑制された好奇心を持って樹を見つめていた。
「こんばんは。」
声は低く、滑らかだった。
「久遠冴と申します。アステリア・ホールディングスから参りました。月見荘の購入取引に関連する物件書類の処理のため、お邪魔しております。」
樹は瞬いた。
「アステリア・ホールディングス?」
「はい。当社はこの取引を担当した不動産会社と業務提携しております。新しい所有者様に直接ご対応いただく必要がある書類が何点かございます。」
樹は、完全には理解していなかったが、頷いた。
「……どうぞお入りください。」
冴は丁寧に一礼し、足を踏み入れた。
彼女が樹の横を通り過ぎる時、かすかな香水の香り——花のような、清潔な香り——が一瞬、樹の嗅覚を刺激した。
そして樹は、何か奇妙なものを感じた。
恋愛的な関心ではない。欲望でもない。
ただ、この女性は今まで出会った人々とは違うという感覚だけだった。
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午後8時30分——大広間。
冴は樹の向かいに座り、膝の上にタブレットを置き、書類を低いテーブルの上にきちんと並べていた。
「如月さん、取引書類をすべて確認いたしました。法務面では問題ございません。ただ、この物件の状態についてご理解いただいているか、改めて確認させていただきたいのですが。」
樹は頷いた。「山田さんから説明を受けました。」
「承知しました。」冴はタブレットの画面をタップした。「一点、追記がございます。この旅館には、地元の業者への少額の負債が残っております。約三百二十万円です。山田さんは物件情報に記載するのを忘れておりました。」
樹は眉をひそめた。「負債?」
「はい。食材や備品の注文で、未払いのものがございます。もしよろしければ、当社でその負債を——」
「払います。」
冴が言葉を止めた。
「……すみません?」
「負債を払います。総額はいくらですか?」
「三百二十万円です。」
樹は財布から黒いカードを取り出した。「今すぐ払えますか?」
冴はそのカードを見つめた。目をわずかに細めた——不信感からではなく、何か普通でないものを見たからだ。
「……そのカード。」
「はい?」
「カード番号がありません。チップもありません。銀行名もありません。」
樹は手の中のカードを見た。「……これは特別なカードです。」
冴はそれ以上尋ねなかった。ただ頷き、タブレットのボタンを押した。
「承知しました。負債の支払いを処理いたします。」
彼女は樹のカードをタブレットのカードリーダーにかざした。取引は数秒で完了した。
冴はタブレットの画面を見つめた。
「……取引が完了しました。」
「ありがとうございます。」
冴は顔を上げ、樹を読み解くのが難しい表情で見つめた。
「一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。」
「あなたは、倒産寸前の古い旅館を、十分な物件調査もせずに買い、知らされていなかった負債まで交渉なしでお支払いになりました。」
樹は頷いた。「はい。」
「……なぜですか?」
樹は少し考えた。
「……ただ、静かな場所が欲しかったんだ。」
冴は数秒間彼を見つめた。そして初めて、彼女のプロフェッショナルな表情が少し和らいだ。ほとんど気づかれないほどだが、樹にはわかった。
「……あなたは面白い方ですね、如月さん。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
冴は眉を上げたが、何も言わなかった。
外では、夜風が温泉と木々の香りを運んでいた。
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午後9時30分——月見荘の門の前。
冴は門の前に立ち、タブレットを腕に抱えていた。
「書類は全て整いました。デジタルコピーは明日メールでお送りいたします。」
「ありがとうございます、久遠さん。」
「お礼には及びません。仕事ですので。」
樹は頷いた。「……気をつけてお帰りください。」
冴は一瞬立ち止まり、解釈しがたい眼差しで樹を見つめた。
「如月さん。」
「はい?」
「……本当に、この場所を再生させるおつもりはおありにならないのですか?」
樹は首を振った。「いいえ。」
「では、なぜ買われたのですか?」
樹は背後にある旅館を見つめた。夜の闇に沈む古い建物。傷んだ屋根、枯れ葉で埋まった庭。
「ただ……美しい場所が荒れ果てていくのを見るのが、好きじゃないんだ。」
冴は沈黙した。
そして、小さく微笑んだ。心からの、プロフェッショナルではない笑顔だった。
「おやすみなさい、如月さん。」
「おやすみなさい。」
冴は振り返り、バス停へ続く細い道を歩いていった。その足取りは規則正しく、落ち着いていて、暗い木々の間に消えていった。
樹は門の前に立ち、彼女の後ろ姿を見送った。
その夜、久遠冴が勤務時間外に誰かのことを考えたのは、これが初めてだった。樹はそれを知らなかった。
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【次話 第06話——『最初の女性』】
翌朝、冴は東京に戻り、如月樹という人物が誰なのかを調べ始める。事業の経歴はない。投資家としてのプロフィールもない。二十三歳の元サラリーマンが突然古い旅館を買っただけだ。冴は興味を持ち始める。そして彼女の樹への関心は、業務の枠を超えて静かに育っていく。
【第06話へ続く……】




