第04話 ー『会社員じゃない朝』
第04話 ー『会社員じゃない朝』
2026年4月8日(水)——午前8時0分。
恵比寿——樹の新しいマンション。
樹はアラームなしで目を覚ました。
音や振動に押されることなく、自然に目が開いた。見覚えのない天井を見つめる——白く清潔な天井で、古いアパートよりずっと現代的な埋め込み式の照明がある。一瞬、自分がどこにいるのか忘れた。
そして思い出した。
恵比寿のマンション。七階のペントハウス。昨日、黒いカードで買ったのだ。
樹はベッドに起き上がった。マットレスは柔らかい——古いアパートの薄いマットレスよりずっと柔らかい。濃いグレーのシーツは滑らかな手触りで、自分がこんなものを持てるとは思ってもみなかった。
大きなガラス窓の外では、東京の空が晴れ渡っている。朝日が遠くのビル群を照らしている。電車の音は近すぎない。深夜に叫ぶ隣人の声もない。
彼はベッドサイドの時計を見た——昨日家電量販店で買った新品だ。
午前8時0分。
樹は息を吐いた。
三年ぶりに、彼は急ぐ必要がなかった。電車を追いかける必要もない。上司より先にオフィスに着く必要もない。朝食前に仕事のメールをチェックする必要もない。
誰も彼を待っていない。
彼はパジャマのままキッチンへ向かった。薄手のコットンシャツと、古びた短パン。このマンションのキッチンは清潔でモダンだ。IHコンロ、大きな冷蔵庫、深く考えずに買った自動コーヒーメーカー。
樹はコーヒーメーカーのボタンを押した。
シューッという音と共に、コーヒーの香りが部屋に広がり始める。冷蔵庫を開けると——まだ空っぽだ。買い物をする暇がなかったから。不動産会社が用意してくれたミネラルウォーターのボトルが一本あるだけだ。
「……朝飯、どうしよう。」
キッチンを見渡す。新しい鍋、新しいフライパン、まだ一度も使っていない調理器具一式。しかし食材がなければ、どれも役に立たない。
樹はスマホを手に取った。
マップアプリを開く。「朝ごはん カフェ」と恵比寿周辺で検索する。
いくつか選択肢があった。しかし彼の指は一つの名前で止まった。吉祥寺。
東京の西側にある小さな街。週末にいつか行きたいと思いながら、仕事で行けずにいた場所。二年間、彼はいつも言っていた。「また今度。」
「今度」は決して来なかった。
樹はスマホを消した。
彼は決めた。今日は吉祥寺に行こう。
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午前10時0分——東京都武蔵野市、吉祥寺。
樹は吉祥寺駅で電車を降りた。
朝の空気は爽やかだった。新宿や中野よりもずっと爽やかだ。駅周辺の木々は生い茂り、遠くには井の頭公園の屋根が緑の葉の間に見えた。
彼はゆっくり歩いた。急ぐことなく。
久しぶりに、彼は目的もなく歩いていた。目標もない。締め切りもない。追いかけるべき会議もない。ただゆっくりとした足取りで、目は景色を楽しみ、耳は公園から聞こえる鳥の声を聴いている。
道沿いには小さな店が次々と開き始めていた。木の看板のレトロなカフェ。甘い香りを放つパン屋。見たことのないブランドの服を並べるブティック。
樹は小さなカフェの前で立ち止まった。外に木製の椅子が置いてある。
「カフェ・響」
彼は入り口の黒板に書かれたメニューを見た。
モーニングセット:トースト、卵、サラダ、コーヒー——七百八十円。
樹は現金で支払い、外の席に座った。朝の風が優しく吹き、コーヒーと木々の香りを運んでくる。コーヒーを一口すすると、温かさが胸に広がる。
隣のテーブルでは、年老いた男性が静かに新聞を読んでいる。通りの向こうでは、若い母親がベビーカーを押している。空では、白い雲がゆっくりと動いている。
樹はそこにかなり長く座っていた。
朝食の後、彼は井の頭公園へ歩いていった。
公園の中央の池は、太陽の光を受けてきらめいている。ボートがゆっくりと水面を滑り、若いカップルや家族連れを乗せている。池のほとりでは、数人がベンチに座り、本を読んだり、ただ水を眺めたりしている。
樹は大きな木の下の空いているベンチを見つけた。
座った。
何もしなかった。
ただ座っていた。
池を眺める。風の音を聞く。肌に感じる日差しの温かさ。
この二年間、彼はいつも考えていた。「いつかこれをやろう。」しかしその日は決して来なかった。なぜなら、いつも仕事があったから。いつも会議があったから。いつも営業目標があったから。いつも上司が何かを期待していたから。
今は誰も彼に何かを期待していない。
そしてそれは奇妙に感じられた。
楽しいわけではない。悲しいわけでもない。ただ奇妙だ。
樹は長い息を吐き、目を閉じた。
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午後0時30分——井の頭公園近くの小さなレストラン。
樹は一人で昼食をとった。
彼はカレーライスを出す小さなレストランを選んだ。シンプルな料理で、大盛り一食九百円だ。樹は部屋の隅に座り、ゆっくりと食事を済ませた。
近くで、二人の若い女性が仕事について小声で話している。嫌な上司の愚痴、払われない残業代、辞めたいという願望。
樹はそれをすべて聞いていた。
彼は小さく笑った。
数日前まで、彼もその一人だったかもしれない。仕事の愚痴を言いながらも、選択肢がないから毎日通っていた。
今、彼には選択肢がある。
しかし、何を選べばいいのか?
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午後2時30分——吉祥寺の古本屋。
樹は狭い路地にある小さな古本屋を見つけた。木製の本棚には黄ばんだ古い本がぎっしりと詰まっている。紙と埃の香りが、子供の頃の家の近くの本屋を思い出させた。
彼は棚の間を歩き、指で背表紙をなぞっていく。
古典小説。料理本。旅行記。古い漫画。百科事典。
彼は一冊の本を手に取った。表紙が色褪せた古い日本の小説。
『こゝろ』——夏目漱石。
樹は最初の数ページを読んだ。
そして本を元の場所に戻した。
何も買わなかった。
樹は店を出て、駅へと歩き戻った。日はもう傾き始めていて、彼は疲れを感じていた。身体の疲れではなく、精神的な疲れだ。短い間にあまりにも多くの変化があった。
駅のホームで、スマホが震えた。
樹は画面を見た。
知らない番号からの着信だ。
彼は出た。
「もしもし?」
「……如月さん?」
男性の声。年配だ。樹はその声を覚えていた。コーポレート・セールス・プランニング部門の元同僚の一人だ。
「鈴木です。総務の。あなた……もう聞きました?」
「ああ。クビになったことは知ってる。」
「違うんです——」鈴木の声はためらいがちだった。「神崎が噂を流し始めてるんです。あなたが能力不足でクビになったって。中島ロジスティクスのプロジェクトで致命的なミスをしたって。他の部署の何人かが信じ始めてます。」
樹は反応しなかった。
「……ふうん。」
「『ふうん』だけですか?」
「じゃあ、何て言えばいいんだ?」
鈴木がしばらく沈黙した。
「如月さん……私はあなたが無実だって知ってます。データログを見ました。会議で表示されたデータは、神崎がチームに送ったデータとは違ってました。でも証明できません。なぜなら——」
「お前も仕事を失いたくないからだ。」
「……すみません。」
「構わないよ、鈴木。もうどうでもいい。」
「でもあなたの評判が——」
「もう信用されていない場所で、評判に何の意味がある?」
電話の向こうで沈黙が流れた。
「……おっしゃる通りです。すみません、如月さん。ただ、ここにいる全員が神崎を信じているわけじゃないって、あなたに知ってほしかったんです。」
「ありがとう。」
樹は電話を切った。
スマホをポケットにしまい、吉祥寺の上の夕暮れの空を見上げた。雲が色を変え始めている。オレンジとピンク、まるでキャンバスに広がる水彩画のように。
遠くで、電車が線路を走り、仕事帰りの乗客を運んでいる。彼らは疲れているかもしれない。苛立っているかもしれない。辞めたいと思っているかもしれない。
樹はもうその一人ではなかった。
そして初めて、それが問題ではないと感じた。
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午後4時20分——恵比寿行きの電車の中。
樹は電車の中に立ち、片手で頭上にある吊り革を掴んでいた。乗客は混み始めている。まだ夕方だが、退勤ラッシュが始まっている。彼の前で、スーツ姿の男性が立ちながら眠っていて、首がこくんこくんと揺れている。
樹はその男性を見つめた。
彼は自分自身を思い出した。半分閉じた目で電車に立ち、疲れた身体、死んだように機能しない頭。それがこの二年間の自分だった。
今、彼は疲れていなかった。
ただ困惑していた。
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午後6時30分——恵比寿のマンション。
樹はマンションに戻った。
リビングはまだ空っぽだ。昨日買った家具はまだ届いていない。部屋の隅には家電の入った段ボール箱が積まれているだけだ。彼は床に座り、壁にもたれて天井を見つめた。
スマホが震えた。
別の元同僚からのメッセージ。
「如月さん、神崎の件について聞きました。私は彼を信じていません。もし裁判に証人が必要なら——」
樹はそのメッセージを読んだ。
そして削除した。
彼は東都リンクスに戻りたくなかった。復讐したくなかった。真実を証明したくなかった。
彼が望んでいたのはただ……
樹には分からなかった。
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午後7時40分——恵比寿のマンション。
樹は料理をしていた。正確には、料理をしようとしていた。駅前のスーパーで食材を買い、今はコンロの上のフライパンの前に立ち、簡単なチャーハンを作ろうとしている。
出来は悪くなかった。美味しくはないが、食べられる。
彼は床に座り、コンビニで買ったプラスチックの皿に盛ったチャーハンを食べた。
するとウィンドウが現れた。
樹はもう驚かなかった。ただ息を吐いた。
【QUEST 02 —— 発生】
【八千万円を直接的な利益を生まない用途へ使用してください。】
【リワード: 三億円】
樹はチャーハンを咀嚼しながらそのウィンドウを見つめた。
「……八千万か。」
【目標の使用用途に制限はありません。】
【ただし、投資、株式、事業資産の購入は禁止されています。】
「つまり、金を生むものを買っちゃいけないんだな。」
【正解です。】
樹は眉をひそめた。
「それなら、本当に役に立たないものを買わなきゃいけないのか。」
彼は最後の一口のチャーハンを口に運び、ゆっくり噛みしめ、そして考えた。
「……不動産。」
【不動産の購入は許可されています。ただし、賃貸収入を得る目的の場合は禁止されています。】
「つまり、金を生まない不動産を買えばいいんだな。」
【正解です。】
樹は空の皿をシンクに置いた。
スマホを開いた。
「空き物件」「収益の出ない物件」「東京 古い物件」と検索した。
いくつかの結果が表示された。
浅草の空き店舗。大田区の小さな廃工場。杉並の古い家。神田の老朽化したビル。
そして樹は一つの物件に目を留めた。
箱根の古い旅館。
名前:湯乃宿・月見荘。
価格:七千八百万円。
説明:古い建物。三代にわたって地元の家族が経営。ほぼ倒産状態。収入は低い。後継者がおらず、売却希望。
樹はその説明を何度も読んだ。
古い旅館。ほぼ倒産。人気がない。収益を生まない。
「完璧だ。」
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【次話 第05話——『買ったのは古い旅館』】
樹は箱根の古い旅館を買うことを決意する。七千八百万円という価格は、クエストの目標のほとんどを消費するだろう。しかし彼がその物件を訪れた時、彼が見つけたのは古い建物だけではなかった。彼は予想外の何かを発見する。そしてそこで、すべてを変える誰かと出会う。
【第05話へ続く……】




