第03話 ー『三千万円を使え』
第03話 ー『三千万円を使え』
2026年4月7日(火)——午前7時20分。
中野坂上——如月樹の部屋。
樹は目を覚ました。
アラームではない。遠くの電車の音でもない。頭が重くて、服がまだ湿っているせいだった。昨夜着ていたスーツはまだドアの後ろに掛かっていて、雨で濡れてしわくちゃになっている。自分がいつアパートに帰ってきたのか覚えていなかった。覚えているのは、公園のベンチと、雨と、浮かぶウィンドウと、黒いカードだけだった。
樹は手を伸ばした。
カードはまだポケットにあった。
それを取り出し、冷たい黒い金属の表面を見つめた。薄いカーテンから差し込む朝の光の下で、カードはかすかに輝いていた。
「……夢じゃなかったのか。」
彼はベッドに座り、長い息を吐いた。
頭がずきずきしていた。寝不足のせいかもしれない。ストレスのせいかもしれない。昨日の朝食以来、何も食べていないせいかもしれない。時計は7時20分を示していた。窓の外では、東京の朝が動き始めている。幹線道路からのクラクション、最寄り駅のアナウンス、出勤する人々の足音。
樹は天井を見つめた。
そして何かを思い出した。
あのウィンドウだ。
彼は手を伸ばした。昨夜のようにウィンドウが現れることを半分期待して。しかし何もない。ただ目の前の虚ろな空気だけだ。
「……おい。」
返事はない。
「システム。」
返事はない。
「このカードは……どうやって使うんだ?」
沈黙。
樹は眉をひそめた。システムは特定の時間だけ動くのかもしれない。クエストの時だけ現れるのかもしれない。あるいは、全てを失った後の幻覚だったのかもしれない。
しかし彼はあのウィンドウに残高を見た。
一億円。
樹はカードをしっかりと握りしめた。これが現実かどうかを確かめる方法が一つある。カードを使ってみることだ。
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午前8時40分——中野坂上駅近くのATM。
樹はファミリーマートの隅に設置されたATMの前に立っていた。黒いカードをスロットに差し込む時、手が少し震えていた。
ATMはカードを拒否しなかった。
普通、見慣れないカードや変なカードは即座にシステムにはじかれる。しかし今回は、ATMの画面が変わった。通常のメニュー——引き出し、残高照会、振込——は表示されず、代わりに漆黒の背景に白い文字が現れた。
【システム接続中...】
樹は息を止めた。
そして画面が変わった。
【アカウント確認完了】
【ようこそ、如月樹様。】
その下に残高が表示された。
一億円
さらに残高の下に、オプションが表示された。
【引出】
【残高確認】
【取引履歴】
【クエスト状況】
樹はその画面を見つめた。
彼は「クエスト状況」を選んだ。
画面が変わった。
【QUEST 01 —— アクティブ】
【残り時間: 22時間47分】
【目標: 三千万円を使用すること】
【リワード: 一億円】
樹は息を吐いた。
「……本物だ。」
彼は「引出」を選び、十万円を入力した。するとATMが馴染みのある機械音を立てて紙幣を吐き出した。樹はそれを受け取り、手の中の紙の感触を確かめた。本物のお金だ。
彼はカードを財布に戻した。
「よし。」
コンビニを出て、歩道に立ち、晴れた東京の空を見上げた。
「……三千万円を使わなきゃいけないのか。」
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午前10時30分——中野のショッピングセンター。
樹は困惑した表情でショッピングセンターを歩いていた。
これほどの大金を持ったことは一度もない。二年間のサラリーマン生活で、彼はいつも質素に暮らしてきた。コンビニ飯、安い服、休暇は近場だけ。今、彼は一日も経たないうちに三千万円を使わなければならない。
「どこから始めれば……」
彼は二階の家具店に入った。
「すみません、……椅子を見たいのですが。」
店員が親しみやすい笑顔を見せた。「かしこまりました!何かご希望のタイプはありますか?」
樹は周りを見渡した。様々なモデルの椅子がきれいに並んでいる。彼は大きくてふかふかしたビーンズソファを指さした。
「これ、いくらですか?」
「六万五千円です。」
樹は頷いた。「これください。」
店員が瞬いた。「あの——お試しにならなくてよろしいんですか?」
「いいです。」
彼はソファのコーナーへ歩いていった。大きな黒い革張りのソファ。
「これは?」
「十八万円です。」
「ください。」
テーブル。ランプ。本棚。カーペット。キッチン用品。何か快適そうなものを見つけるたびに、樹はそれを買った。値切らない。割引を尋ねない。本当に必要かどうか考えない。
店員がだんだん不安そうになってきた。
「恐れ入ります、お客様……こちらのお買い物、全てご購入されるおつもりでいらっしゃいますか?」
「はい。」
「合計で約二百三十万円になりますが。」
樹は財布から黒いカードを取り出した。店員はそのカードを不思議そうな表情で見つめた——普通でないデザインのせいかもしれない。しかしカードを決済端末にかざすと、取引は成功した。
ピッ。
レシートが出てきた。
樹はそれを見もせずに受け取った。
「この住所に送ってください。」
彼は注文書にアパートの住所を書いた。
「かしこまりました、お客様……」
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午後0時15分——中野ブロードウェイの家電量販店。
樹は並んだ薄型テレビの列の前に立っていた。
「一番大きいやつ。」
店員が八十五インチのテレビを指さした。「こちらでしょうか?五十五万円です。」
「ください。」
「お客様……スペックをご確認なさらなくてよろしいんですか?最新モデルで——」
「ください。」
彼はオーディオコーナーへ歩いていった。高そうなスピーカーシステム。
「これはいくらですか?」
「七十八万円です。」
「ください。」
パソコン。ノートパソコン。ゲーム機。ヘッドフォン。カメラ。キッチン家電。樹は値段も見ずに全てを買った。店員は汗をかき始めていた。
「お客様、お買い上げ合計は……八百四十万円になります。」
樹は再び黒いカードを取り出した。
取引は成功した。
彼はレシートを見た。八百四十万円。まだ目標の三分の一にも達していない。
「……まだ足りない。」
店員が引きつった笑顔を見せた。「はい?お客様?」
「いえ、あなたじゃない。ただ……考え事をしてるだけです。」
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午後3時0分——中野駅近くの通り。
樹はコンビニの前のベンチに座り、スマホの画面を見つめていた。
計算していた。
今朝の買い物:千七十万円。
それは目標の三分の一だ。まだ千九百三十万円を使わなければならない。残り時間は——彼はスマホの時計を見た——十二時間を切っている。
「あと何を買えばいいんだ……」
彼は苛立ち始めていた。
今までの人生、お金はいつも問題だった。今度はお金を使うことが問題になっている。皮肉な話だ。笑いが出そうだった。
彼は周りを見渡した。洋服屋。レストラン。スーパー。美容院。どれも短時間で千九百万円を使うには十分な高額商品ではない。
樹はスマホを開いた。「お金をすぐに使う方法」を検索エンジンで調べた。結果:不動産、車、投資、寄付。
不動産?あり得る。
車?樹は車に興味がなかった。今までずっと電車だった。でも……
樹は手の中の黒いカードを見つめた。
彼は思い出した——システムは高級品の購入を禁止していない。禁止されているのは投資と利益を得るための使用だけだ。個人的に使うための車の購入は許可されているはずだ。
彼はスマホを開き、「東京 高級車 ディーラー」と検索した。
そして一つの名前が目に留まった。
ランボルギーニ東京。
そのスポーツカーの価格は五千万円からだ。しかし樹は一番高いものを買う必要はない。千九百万円を使えば十分だ。
「……やめておこう。」
彼は息を吐いた。高級車は目立ちすぎる。彼は今、解雇されたばかりだ。突然ランボルギーニに乗って現れれば、望まない注目を集めるだろう。
しかしその考えが彼の頭の中で何かを刺激した。
不動産。
「それだ。」
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午後5時40分——新宿の不動産会社。
樹は上品な応接室のある不動産会社のオフィスに入った。クリスタルのシャンデリア、白い革張りのソファ、そしてプロフェッショナルな笑顔で迎える受付嬢。
「こんにちは。いらっしゃいませ。何かお手伝いできますか?」
「マンションを探しています。」
「かしこまりました。ご希望のエリアや予算はございますか?」
「……予算は問いません。ただ、快適で静かな場所がいいです。」
受付嬢は頷き、よりベテランの不動産担当者を呼んだ。田中と名乗る、スーツをきちんと着た男性がタブレットを持って現れた。
「こんにちは、如月様。マンションをお探しとのことですね?」
「はい。」
「新宿、渋谷、六本木でいくつかご用意がございます。ご予算の目安はどのくらいでしょうか?」
樹は考えた。残りの目標は約千九百万円。そのくらいの価格のマンションが見つかれば、クエストを達成できる。
「……二千万円程度で。」
田中は眉を上げたが、過剰な驚きは見せなかった。
「新宿のマンションですと、二千万円ですと築年数が少し経ったワンルームか、一LDK、二LDKくらいになりますね。ただ、リノベーションが必要な物件でしたら、面白い選択肢もいくつかございます。」
「見せてください。」
田中はタブレットを開き、物件リストを表示した。
「こちらは中野の駅近の物件です。価格は千八百五十万円。広さは四十五平米。築年数は二〇〇五年です。」
樹は写真を見た。そのマンションはまあまあ良さそうに見えたが、何かが気になった。壁の一部が剥がれ始めているし、間取りも狭く感じられた。
「他には?」
田中が画面をスクロールした。
「杉並の物件です。より広く、五十五平米。価格は二千二百万円。公園に近く、環境も静かです。」
樹は写真を見た。最初のよりは良さそうだ。しかしまだ普通のマンションのように感じられた。借りるためのものだ。買うためのものではない。
「もっと……特別なものは?」
田中はしばらく考え込んだ。
「恵比寿に一軒ございます。ただ、予算を少し超えますが——四千二百万円です。七階のペントハウスで、屋上への専用アクセス付きです。」
樹は沈黙した。
彼は一億円を持っている。四千二百万円のマンションを買っても、まだクエストは達成できる。そして本当に快適な住まいを手に入れられる。
「……見せてください。」
田中は樹を恵比寿へ連れて行った。
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午後6時30分——恵比寿のマンション。
そのペントハウスは樹の想像以上に広かった。
広いリビングには濃い色の木の床が敷かれている。東京の街並みを見渡す大きなガラス張りの壁。ステンレス製の器具が揃ったモダンなキッチン。大きなウォークインクローゼット付きの寝室。
そして何より素晴らしかったのは、屋上へのドアだ。
樹は屋上に出た。東京の全景が彼の前に広がっていた。夕暮れが訪れるにつれて、街の灯りが一つまた一つと点き始めている。風が優しく吹き、中野の狭いアパートでは感じられなかった新鮮な空気をもたらしていた。
「これは……いくらですか?」
田中が微笑んだ。「掲載価格は四千二百万円です。ただ、こちらの物件は半年間空き家になっておりましたので、オーナーは値下げ交渉に応じる可能性がございます。」
「買います。」
田中が瞬いた。「お客様、もう少しご内覧なさいますか?あるいは書類を先にご確認されますか?」
「買います。今すぐ買いたい。」
「……今すぐですか?」
「はい。」
田中はスマホを取り出し、事務所に書類処理の手配を電話した。
処理は一瞬では終わらなかった。署名すべき契約書があり、記入すべき書類があり、資金の移動があった。しかし樹は黒いカードを持っており、システムはすべての事務処理を加速しているようだった。
一時間も経たないうちに、すべての書類が完了した。
樹は各ページに署名した。
購入総額:四千二百万円。
管理費・登記費用:二百五十万円。
今日の総支出:千七十万円+四千二百万円+二百五十万円=五千五百二十万円。
樹はスマホを見た。
警告なしにシステムウィンドウが現れた。
【対象額を超過しました。】
【QUEST 01 —— 達成】
【リワード計算中...】
画面が変わった。
【一億円が追加されました。】
【新しい残高: 一億四千四百八十万円】
樹はその数字を見つめた。
一億四千四百八十万円。
たった一日で、彼の資産は二年間のサラリーマン時代に稼いだ以上の額になった。
彼は新しいマンションの床に座り、まだ何もないリビングで、大きなガラス窓を通して東京の夜空を見つめた。
「……本当に増えたのか。」
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午後8時17分——恵比寿の樹の新しいマンション。
システムウィンドウが再び現れた。
【ホストは現在、ウェルスアカウントにアクセスできます。】
【詳細な残高、取引履歴、および資産管理機能が利用可能になりました。】
樹は財布から黒いカードを取り出した。表面は温かかった。熱くはないが、朝日を浴びたような心地よい温かさだ。
「何かを買うたびにこれが現れるのか?」
【システムはクエスト時または重要な更新時にのみ出現します。】
「……ランボルギーニを買ったら?」
沈黙。
そしてウィンドウが現れた。
【車両購入は許可されています。ただし、車両を事業目的で使用する場合や、転売目的で購入する場合はルール違反となります。】
樹は眉をひそめた。
「つまり……個人的に使うためのランボルギーニは買ってもいいのか?」
【はい。】
「でも転売はダメ?」
【はい。】
樹は考え込んだ。
「……買って、毎日乗ったら、それは許可されるのか?」
【用途が「個人的な使用」に限定されている限り、許可されます。】
樹は静かに頷いた。
「わかった。ただの質問だ。」
彼はもう一度黒いカードを見つめた。
今日、彼は家具と家電とマンションを買った。
明日、彼は残りの一億四千四百八十万円をどうするか考えなければならない。
窓の外では、東京の灯りが輝き続けている。何百万もの人々の生活を描く、無数の光の点。樹は空っぽのマンションの床に座り、何年ぶりかに、明日何が起こるか全く分からないという感覚を味わっていた。
しかし彼は怖くなかった。
ただ好奇心だけがあった。
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【次話 第04話——『会社員じゃない朝』】
翌朝、樹はアラームなしで目を覚ます。三年ぶりに、会社に行く必要がない朝だ。しかしその自由は奇妙に感じられた。そして彼はその時間をどう使えばいいのか分からなかった。一方で、彼の解雇の知らせは元同僚たちの間で広まり始めていた。
【第04話へ続く……】




