第02話 ー『裏切り』
第02話 ー『裏切り』
2026年4月6日(月)——午後7時42分。
東京メトロ丸ノ内線——東中野行き。
電車がゆっくりと揺れていた。樹はドアの近くに立ち、片手で頭上にある吊り革を掴んでいた。窓の外では、闇が東京を包み始めていた。ビルの灯りが次々と点り、消えゆく夕暮れの光に取って代わっていた。
彼は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
その顔は何も映していなかった。悲しみも。怒りも。失望も。ただ虚ろだった。
スーツのポケットの中でスマホが震えた。樹は取り出さなかった。誰からのメッセージかはもう分かっていた。彼の解雇の噂を聞きつけた同僚たちだろう。あるいは俊。自分が本当に去ったことを確認したいのかもしれない。
電車が東中野駅に止まった。
樹は改札を出た。
夜の空気は思ったより冷たかった。彼は綾香のアパートへ続く細い道を歩いていった。白い三階建ての建物で、薄暗い庭灯がある。駅からは徒歩約七分。何度も来た道だ。
ここに来る時はいつも何か持っていった。コンビニの軽食。駅近くの花屋の安い花束。あるいは単にホットコーヒー。綾香がコーヒー好きだから。
今夜は手ぶらだった。
アパートのエントランスの前で、樹は立ち止まった。
スマホがもう一度震えた。
彼は取り出した。綾香からのメッセージ。「もう帰ってるよ。鍵開けてある」
樹はその画面を数秒見つめた。
そしてスマホをポケットに戻し、扉を開けた。
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午後8時10分——綾香のアパート、東中野。
薄暗い廊下。
樹は閉じられたドアの横を通り過ぎ、廊下の突き当たりの部屋へ向かった。二〇三号室。ドアの下から灯りが漏れていて、木の床を暖かな黄色い光で照らしていた。
彼はノックしなかった。
ドアノブを回した。
鍵がかかっていた。
樹は眉をひそめた。しかし、綾香のメッセージを思い出した。「鍵開けてある」。もしかしたら綾香が内側から開けてくれるのか。彼はドアを叩こうと手を挙げた。その時だった。
室内から声が聞こえた。
女性の声だ。
かすかな笑い声。
樹は動きを止めた。
その声は綾香だけのものではなかった。別の声があった。男性の声。親しげな口調で、近くで、親密に話している。樹はその言葉をはっきり聞き取れなかったが、その声の調子には見覚えがあった。
今朝、会議室で聞いたのと同じ声だった。
樹はもう一度ドアノブに手を伸ばした。より強く回した。鍵はかかっていなかった。今度は押し開けると、ドアが開いた。
中は小さなリビングだった。メインの照明は消えていて、隅のテーブルランプだけが灯っていた。部屋の中央にソファ。床に散らばった服。彼が知っている綾香のブラウス。彼が知っている男性のシャツ。
そしてソファの上で、二つの身体が寄り添っていた。
綾香——上半身は裸で、ミニスカートだけを履き、髪は乱れ、顔は上気していた。その隣には、神崎俊——シャツを脱ぎ、素肌を晒し、片手はまだ綾香の腰にあった。
ドアが開くと、二人は凍りついた。
俊が振り返った。目を見開いている。綾香は手で口を覆い、頬が青ざめた。
沈黙。
約五秒。
それから綾香が叫んだ——怒りの叫びではなく、驚きとパニックと羞恥の叫びだった。彼女は近くの毛布を掴み、慌てた動きで身体を隠した。俊は後ずさりしてソファから落ち、床からシャツを掴んだ。
樹は動かなかった。
彼は戸口に立ち、手はまだドアノブにあり、表情は平坦だった。
何の表情もない。
感情もない。
ただ沈黙。
「……樹、これ、これは違——」綾香が声を震わせて、どもりながら言った。「説明できる——」
「如月さん。」俊が立ち上がった。シャツは半ばしか着ておらず、ボタンはまだ留められていない。「確かに、これは酷く見えますが——」
彼は言葉を止めた。
樹が彼を見ていなかったからだ。
樹はただ綾香を見ていた。
二人の視線が交わった。
綾香は泣いていた。涙が赤くなった頬を伝っていた。しかし樹にはそれが後悔の涙なのか、それとも見つかったことへの涙なのか分からなかった。それを確かめようとも思わなかった。
「……いつからだ。」
その質問は平坦な声で出てきた。高くもなく、低くもなく。ただの問いかけだ。
綾香が口を開け、閉じ、また開けた。
「……三ヶ月。」
樹は反応しなかった。
三ヶ月。
三ヶ月間、彼はここに来て、ホットコーヒーを持ってきて、一緒に笑い、不確かな未来について話していた。三ヶ月間、綾香は彼の前で笑いながら、彼の背中で俊と笑っていた。
「如月さん、私——」
「やめろ。」
俊が口を閉ざした。
樹は視線を俊に移した。初めて、彼の目に何かが浮かんだ。怒りではない。ただの倦怠感だった。
「お前、会社でわざと俺を嵌めたんだな。」
俊が息を呑んだ。「違——俺はそんな——」
「構わない。」
樹はドアノブから手を離した。
「もうどうでもいい。」
彼は背を向けた。
「樹!」綾香が部屋の中から叫んだ。「樹、待って!私——」
ドアが彼の背中で閉まった。
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午後8時28分——綾香のアパート前の通り。
樹は歩いた。
速くもなく、遅くもなく。ただ歩いた。
街灯が夜露で濡れた歩道を照らしていた。風が吹き、薄いシャツとスーツだけの彼の肌を突き刺すような冷たさをもたらした。彼はそれを感じなかった。
ポケットのスマホが絶え間なく震えた。
樹は取り出さなかった。
歩き続けた。
明るく灯るファミリーマートを通り過ぎた。誰もいないバス停を通り過ぎた。暗い水が流れる川の上の小さな橋を通り過ぎた。
そしてついに彼は、新宿中央公園のベンチの前で立ち止まった。
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午後9時6分——新宿中央公園。
公園は静かだった。
数人だけが通り過ぎた。手をつないで歩くカップル。小さな懐中電灯で新聞を読む老紳士。ヘッドフォンをしてジョギングする女性。
樹は水の出ない噴水の近くの木製のベンチに座った。
夜風が強くなっていた。
彼は空を見上げた。暗い雲が速く動き、現れ始めた星々を覆っていた。遠くでは、新宿のビルの灯りが明るく輝いていた。まるで誰かの人生が壊れても気にせずに動き続ける世界のように。
樹はスマホを取り出した。
通知がたくさんあった。綾香からのメッセージ。「樹、電話に出て」「説明できる」「愛してる」。俊からのメッセージ。「すみません」「僕のせいです」「傷つけるつもりはありませんでした」。
樹はそれらすべての通知を閉じた。
彼は銀行のアプリを開いた。
残高は1,328,450円だった。
今月の給料は入っていたが、生活費と光熱費でほとんど消えていた。交通系ICカードをチェックした。残額は4,200円。数日分は持つ。
来月の家賃:72,000円。
電気代:約8,000円。
水道代:約3,000円。
スマホ代:6,500円。
月々の固定費合計:約90,000円。
仕事を失った。来月の収入はない。退職金は数週間後に支払われるかもしれない。だが、いくらか?長く持つには足りないだろう。
樹はアプリを閉じた。
スマホをポケットにしまった。
頭上で、最初の雨粒が落ち始めた。
ぽつん。
ぽつん。
そして突然、激しく降り出した。
東京の夜の雨は冷たく、鋭く、予告なしにやってくる。樹は雨宿りをしなかった。ベンチに座ったまま、スーツを、シャツを、髪を濡らす雨に身を任せた。水が顔を伝い、顎から滴り落ち、服の層を貫通して肌まで冷たくなった。
彼は目を閉じた。
仕事を失った。
恋人を失った。
人間への信頼を失った。
たった一日で、すべてを失った。
しかし彼は泣かなかった。
泣けなかった。
彼が感じていたのは悲しみではなかった。怒りでもなかった。絶望でもなかった。ただの虚無だった。胸の中の空っぽの穴。何も埋めることのできない穴。
その時——
彼の前にウィンドウが現れた。
スマホではない。壁でもない。空中に浮かんでいる。どこからともなく現れた光の投影のように。
樹は目を開けた。
淡い青の文字。整っていて、上品なフォントだ。
【アルティメット・ウェルス・システム】
【Ultimate Wealth Systemが起動しました。】
【ホスト、如月樹。接続を確認しました。】
女性の声だった。
落ち着いている。
過剰な感情はない。
樹はそのウィンドウを見つめた。雨はまだ彼の顔を濡らしている。彼は考えた。これは幻覚かもしれない。疲れすぎているのかもしれない。今日の衝撃が彼の精神に重すぎたのかもしれない。
しかしウィンドウはそこにあった。
そして彼の右側に、黒い箱が現れた。
影ではない。幻覚ではない。漆黒の金属製の箱。約二十センチ四方で、滑らかな表面は光を反射しない。その箱は彼の隣のベンチに置かれていた。まるで最初からそこにあったかのように。
樹は躊躇した。
そして箱に手を伸ばした。
重い。固い金属のように感じられる。彼は蓋を開けた。蝶番は見えず、はっきりした機構もない。触れるだけで開いた。
中には一枚のカードが入っていた。
黒い金属製のカード。
表面にはこう刻まれている。
CENTURION
そしてその下に、小さな文字で。
KISARAGI ITSUKI
樹はそのカードを手に取った。
表面は冷たく、滑らかで、磨かれたガラスのようだ。チップは見えない。表面にカード番号はない。名前とCENTURIONのロゴだけが、細い銀文字で刻まれている。
「……これは何だ?」
答えはなかった。
空中に浮かぶウィンドウだけがある。
【このカードは、システムの資産へアクセスするための物理的なキーです。】
樹はそのウィンドウを見つめた。
「……システム?資産?」
【説明します。】
ウィンドウが変わった。
【あなたは本日、株式会社東都リンクスを退職しました。】
【あなたは恋人を失いました。】
【あなたは信頼を失いました。】
【しかし、あなたはシステムを得ました。】
樹は眉をひそめた。
「……誰が作ったんだ?」
【その質問には回答できません。】
【しかし、システムのルールは明確です。】
ウィンドウが再び変わった。
【ルール① お金は使わなければならない。】
【ルール② 投資目的での使用は禁止。】
【ルール③ 利益獲得を意図した使用は禁止。】
【ルール④ 取引は合法的でなければならない。】
【ルール⑤ システムは人間の思考を操作しない。】
【ルール⑥ システムは誰かを強制的にホストに恋愛させることはできない。】
【ルール⑦ システムは社会的問題を魔法のように解決しない。】
【ルール⑧ システムは必要な時、またはクエスト発生時にのみ出現する。】
樹はそれらすべてのルールを読んだ。
沈黙。
雨はまだ降り続いている。水が浮かぶウィンドウを流れていくが、表示には影響しない。そのウィンドウは別の次元にあるかのようだ。
「……それで?」
ウィンドウが変わった。
【クエストが発生しました。】
【QUEST 01】
【24時間以内に三千万円を使用してください。】
【リワード: 一億円】
樹はその数字を見つめた。
三千万円。
「……三千万?」
【はい。】
「今、仕事を失ったばかりだ。」
【確認しています。】
「収入はゼロだ。請求書が山積みだ。明日の夕飯もない。」
【確認しています。】
「……それで三千万を使えと?」
【クエストは任意です。】
【ただし——】
ウィンドウが変わった。
【現在のシステム資産残高】
【一億円】
樹は固まった。
彼はその数字を見つめた。一億円。人生で一度も見たことのない金額。東都リンクスでの年収よりも大きい金額だ。
「……どういうことだ?」
【クエストを開始する前に、初期資金が付与されました。】
【あなたはすでに資産を持っています。】
【あとは使うだけです。】
樹はそのウィンドウを見つめた。
それから手の中の黒いカードを見た。
それから、まだ激しく降る雨を見た。
彼は笑った。
幸せそうな笑いではない。ヒステリックな笑いでもない。ただ短く、苦い笑いが、彼の意識を離れて胸の奥から漏れ出た。
「……一億円。」
彼はそのカードをしっかりと握りしめた。
「そしてそれを使えと。」
答えはなかった。
ウィンドウはまだ浮かんでいる。待っている。
樹は雨を見つめた。
彼は今日が人生最悪の日だと思っていた。
どうやら今日は、彼がまったく理解していない何かの最初の日だったのだ。
彼はカードをスーツのポケットにしまった。
「……了解した。」
彼は立ち上がった。
雨はまだ降っている。
遠くで、新宿の灯りがまだ明るく輝いている。
そして彼のポケットの中で、金属が冷たいはずなのに、黒いカードは温かく感じられた。
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【次話 第03話——『三千万円を使え』】
翌朝、樹は目を覚まし、そのシステムが幻覚ではなかったことに気づく。一億円の残高はまだあった。そして彼には三千万円を使い切るまで二十四時間を切っている。しかし、どうやって?元サラリーマンには、そんな大金の使い方が分からなかった。
【第03話へ続く……】




