第01話 ー『クビになった朝』
第01話 ー『クビになった朝』
2026年4月6日(月)——午前6時12分。
中野区中野坂上——築年数それなり、間取り1Kの賃貸マンション。如月樹の部屋だった。
スマホのアラームが鳴った。優しいメロディでも、お気に入りの曲でもない。短いバイブレーションと、三年間ずっと変わらないデフォルトの着信音。樹はスヌーズボタンを押す必要すらなく、目を開けた。手はもう自動的に動いていて、枕元のフローリングの上で震えるスマホを掴んでいた。
午前6時12分。
彼は起き上がった。目はまだ半分閉じている。黒い髪はあちこちに跳ねている。部屋の空気は冷たかった。暖房は深夜に切れていた。いつものことだ。先月の電気代が予想より高かったから。樹は短く息を吐き、足を床に下ろした。
フローリングの冷たさが足裏に伝わる。
この部屋は1K。メインルームの他に小さなキッチンと、狭い廊下の突き当りに風呂トイレがあるだけだ。広さは約18平米。家賃は月々7万2千円、水道代と電気代は別だ。東京の若手独身者としては標準的だ。特に中野エリアは新宿や渋谷に比べればまだ手が届きやすい。
樹はキッチンへ向かい、電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。沸騰する音が聞こえ始める。冷蔵庫を開けると、卵が数個、少ししなびた青菜、そして醤油の瓶があった。
朝食は今日も質素だ。
いつも通りだ。
コンロに火をつけ、卵を二つ割ってフライパンに落とす。縁がカリッとしてくるのを待つ。部屋の隅の小さなテーブルの上で、スマホがもう一度震えた。樹が目をやると、画面には会社のLINEグループからの通知が表示されていた。
「午前9時より15階にて全体ミーティング。全部門必須出席」
樹は無視した。
そのミーティングのことはもう知っている。コーポレート・セールス・プランニング部門は毎週月曜の朝にプロジェクト評価会議を行う。この二年間、彼は一度も休んだことがない。遅刻もない。言い訳もない。
一年前、38度の熱があった日でさえ、彼は出社した。プロジェクトの報告書を詳細に理解しているのが自分だけだったからだ。
樹はフライパンを持ち上げ、スクランブルエッグを皿に盛った。冷蔵庫から出した食パンは少し固くなっていたが、軽く焼けば食べられる。彼はローテーブルのそばに座り、スマホでニュースをチェックしながら朝食を摂った。
特に面白いニュースはなかった。
株価が小幅に上昇した。今日の東京の天気は晴れで最高気温は18度。首都高速はラッシュアワーに渋滞が予想される。
樹はスマホを閉じた。
部屋を見渡す。窓際の棚には本がきちんと並んでいる。テレビはない。ゲーム機もない。ポスターもない。白い壁は何もなく、ダイソーの安物の壁掛け時計だけが静かに時を刻んでいた。
ここは家じゃない。
ただ寝るための場所だ。
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午前7時3分——中野坂上駅。
駅の自動ドアが開く。
樹は数十人の乗客と共に足を踏み入れた。身だしなみはきちんとしている。長袖の白いワイシャツ、黒いネクタイ、濃いグレーのスーツ。肘のあたりが少し擦り減ってきたのが目立つ。黒い革靴はこの二年間ずっと同じで、何度か磨いたがやはり傷んでいる。
改札にICカードをかざす。
ピィン。
短い音。ゲートが開く。
駅の床はリズミカルな足音で満ちていた。スピーカーからアナウンスが流れる。池袋行きの電車が2分後に到着する。樹はホームへ向かい、毎朝同じ場所に立った。階段の近く、ホームの後方側。柱に寄りかかって人波を避けられる場所だ。
電車は定刻通りに到着した。
ドアが開く。乗客が降りる。そして樹は他の乗客と共に乗り込み、ドアの近くに立つ場所を探した。座らない。たった四駅で新宿だからだ。
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
窓越しに、中野の街並みがゆっくりと流れていく。アパート、コンビニ、学校、そして桜の花びらが散り始めた木々。春ももう終わりに近い。もうすぐ四月下旬だ。
車内では他の乗客たちがそれぞれスマホに没頭している。目の前の女性はスマホの画面で漫画を読んでいる。横の中年男性は眠そうで、首がこくんこくんと揺れている。車両の端の大学生はヘッドフォンをして、何かを素早く打っている。
樹は何もしなかった。
ただ立っていた。スーツのポケットに手を入れ、窓の外を見つめていた。しかし、何も見ていなかった。
毎日同じだ。
起きる。朝食。電車。会社。帰る。寝る。
大学を出てからずっと、彼の人生は同じパターンで回っていた。文句を言ったことはない。ルーティンを憎んだこともない。ただ、必要なことをこなしていた。
でも今日は、少しだけ違う気がした。
樹には理由がわからなかった。
たぶん、朝の空気がいつもより冷たいからかもしれない。たぶん、プロジェクトの報告書で四時間しか眠れなかったからかもしれない。たぶん、説明できない漠然とした予感があったからかもしれない。
電車が新宿駅に停まった。
アナウンスが流れる。ドアが開く。
樹は何千人もの乗客と共に足を踏み出した。
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午前8時31分——新宿住友ビル、西新宿。
その高層ビルは西新宿の雑踏の中にそびえ立っていた。濃い青色のガラスが晴れた朝の空を反射している。正面玄関では、黒やグレーのスーツを着た社員たちが足早に歩き、エレベーターへ、タイムレコーダーへ、長い月曜日へと向かっていた。
樹は自動ドアをくぐった。
ロビーでは、隅のカフェからコーヒーの香りが漂ってくる。トートリンクスの社員数名がエレベーターの近くに集まり、小声で話している。樹は何人かの顔に見覚えがあった。同じ部門の同僚、別の部署のスタッフ、いつも彼にそっと微笑みかける先輩。
樹は軽く頷くだけだった。
エレベーターが到着する。
彼は十数人の乗客と共に乗り込んだ。階数を示すランプが一つずつ変わっていく。5、8、12、15。
チン。
ドアが開く。
15階。コーポレート・セールス・プランニング部門の本拠地だ。
樹は降り、灰色のカーペットが敷かれた長い廊下を歩いていった。両側のガラス張りの壁からは、人々で埋まり始めた会議室が見える。総務のスタッフが書類の束を抱えて小走りに通り過ぎた。
「如月さん、おはようございます」
樹は振り返った。若い女性——新入社員か研修生かもしれない——が彼に微笑んだ。
「おはよう」
「9時の評価会議ですよね。ご用意した資料、こちらです」
「ありがとう」
樹は書類の入ったファイルを受け取り、自分の席へと歩き続けた。オフィスの隅、窓際で、都庁舎方面を見渡せる場所。そのデスクは整頓されていた。ノートパソコン、ノート、数本のボールペン、そして古びた小さな写真。
その写真は、去年鎌倉に旅行に行った時の、綾香とのツーショットだった。
樹は一瞬それを見つめた。
そして、引き出しにしまった。
なぜ今朝そうしたのか、自分でもわからなかった。
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午前9時15分——15階会議室。
中規模の会議室。中央に長いテーブルが置かれている。約十五人がその周りに座っていた。部門マネージャー、直属の上司、数人のシニアスタッフ、そしてテーブルの端に神崎俊。
俊は樹が入ってくると微笑んだ。
「如月さん、おはようございます」
「おはよう」
樹は空いている席に座り、今朝渡されたファイルを開いた。中身は昨夜既に読んでいた。物流大手向けの営業プロジェクトの報告書。数字、グラフ、利益予測。すべて確認済みだ。
彼の前で、マネージャーの吉田が咳払いをした。
「では、第1四半期プロジェクト評価会議を始める。配布資料を各自確認してください」
会議はいつも通りに進んだ。
数字の話。戦略の話。次四半期の目標の話。樹は注意深く耳を傾け、ノートにいくつかポイントを書き留めた。俊も時折発言し、説得力のある意見を述べた。
そして俊が営業報告書を開いた。
「中島ロジスティクスとのプロジェクトですが、今四半期の売上は目標比23%減となっております」
空気が変わった。
吉田が眉をひそめる。
「23%減?なぜ事前に報告がなかったんだ?」
俊はうつむき、申し訳なさそうな表情を見せた。
「申し訳ございません。事前報告の準備はしておりましたが……そのデータの確認を如月さんにお願いしておりました。数値の確認をしていただけるものと思っておりました」
すべての視線が樹に集まった。
彼は固まった。
樹は手元の書類を開き、該当する数値を確認した。昨日受け取ったデータ。自分が確認したデータ。プロジェクターの画面に表示されているデータとは異なっていた。
「……これは、私が確認したデータではありません」
「え?」
俊が眉を上げ、困惑したように見える。
「でも、そのデータはメールでお送りしましたよ、如月さん。先週、正確には金曜日の午後です。今日の会議までにご確認いただきたく」
樹はスマホを開いた。金曜日の午後に俊からのメールはない。木曜の朝に俊からのメールはあるが、それはミーティングのスケジュールについてだけだ。
「届いていません」
「どういうことですか?」
「メールがありません。改訂版のデータは受け取っていません」
部屋が静まり返った。
吉田は樹を見、俊を見、そして再び樹を見た。その視線は友好的ではなかった。
「如月。お前はこのプロジェクトの報告書を会議前に確認したのか?」
「はい。金曜日に受け取ったデータを確認しました——」
「どのデータだ?」
「初期のデータです」
「だが、ここにあるのはお前が確認すべきだった改訂版のデータだ」
「改訂版のデータは受け取っていません」
「ちっ……」吉田が長い息を吐いた。「これはもう論外だ。このプロジェクトはこのチームの責任だ。内部のコミュニケーション上の問題だけで、後輩に責任を押し付けるわけにはいかない」
俊はさらに深くうつむいた。
「申し訳ございません。全面的に私のミスです。如月さんがデータを受け取っていることを確認すべきでした」
「いや、お前は自分の役割を果たしている。」吉田は樹に視線を戻した。「如月。なぜ後輩をもっとしっかり指導しなかったんだ?お前はこのチームの先輩だ。最新のデータをすべて確認するのが当然だろう」
樹は口を開き、説明しようとした。
しかし、彼は俊の顔を見た。
俊の口元に浮かんだかすかな笑み。一瞬だけ、そして消えた。
樹は理解した。
理解した。
彼は黙って口を閉じた。
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午前11時40分——オフィスの廊下。
樹は会議室を出て、廊下を歩いていた。オフィス内の雰囲気はまだ変わらない。他の社員たちは会議で何が起きたか知らない。ただ、何人かが奇妙な目で彼を見始めている。
「如月さん」
声をかけられた。別の部署のシニアスタッフだ。
「何でしょうか?」
「吉田さんがお前に会いたいと言っている。午後1時に14階の会議室で」
「……わかりました」
樹は歩き続けた。
自分のデスクに戻り、椅子に座り、空のノートパソコンの画面を見つめた。スマホが震える。俊からのメッセージだ。
「如月さん、すみません。あなたを窮地に追い込むつもりは全くなかったんです。本当にデータは送信したつもりでした。もしかしたら何か技術的な問題があったのかもしれません」
樹はそのメッセージを二度読んだ。
そしてスマホを閉じ、返信しなかった。
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午後1時20分——14階会議室。
吉田がテーブルの向かいに座っている。その隣には人事部の女性——苗字は中村、名前は覚えていない。彼らの表情は中立だが、空気の中に何かがあり、部屋をより冷たく感じさせた。
「如月」
「はい」
「中島ロジスティクスの件について、簡単な評価を行った。目標比23%減はこのチームにとって極めて深刻な数字だ」
樹は答えなかった。
「誰に完全な責任があるのかは断定できない。しかし先輩として、監督責任はお前にある」
「……承知しました」
「当分の間、お前はこのプロジェクトから外れる。他のスタッフをお前の代わりに配置する」
樹は頷いた。
反論しても無駄だった。
彼は会社がどう動くかを知っていた。真実を追求することが優先ではないことを知っていた。優先されるのは最も責任を負わせやすい人物を見つけることだ。そして今回は、それが自分だった。
「他に言いたいことはあるか?」
樹は机を見つめた。
「……いいえ」
「よし。仕事に戻っていい。異動についての正式な通知書は後日送る」
樹は立ち上がり、軽く一礼して部屋を出た。
ドアが閉まる。彼は空っぽの廊下に立っていた。
静かだった。
たぶん三秒間。
それから彼は自分のデスクへと歩き戻った。
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午後5時30分——15階、人事部。
樹は中村のデスクの前に立っていた。今回は吉田はいない。彼と、同じ人事部の女性だけだ。
中村はため息をつき、一枚の書類を手渡した。
「如月さん。内部評価の結果、コーポレート・セールス・プランニング部門のリストラを実施することになりました」
樹はその書類を読んだ。
解雇通知書。
「……つまり、私はクビですか?」
「『クビ』とは言いません。これはリストラです。この部門で人員削減が行われ、あなたのポジションは……もはや必要ないと判断されました」
樹は紙の上の文字を見つめた。
具体的な理由はない。説明もない。ただ、リストラと規定に基づく退職金についての正式な声明だけだ。
彼は書類を机の上に置いた。
「……この決定はいつなされたのですか?」
「本日、評価会議の後です」
樹はもう尋ねなかった。
誤ったデータと関係があるのかどうか。俊が関与しているのかどうか。異議申し立ての余地があるのかどうか。
彼はただその書類にサインした。
手は震えなかった。表情も変わらなかった。
彼は名前を書いた——如月樹——きれいな字で、そして書類を中村に返した。
「何かお伝えしたいことはありますか?」
樹は少し考えた。
「……いいえ」
彼は立ち上がった。
人事部の窓の外では、東京の空が色を変え始めていた。夕方の訪れ、オレンジ色の光が高層ビル群を照らしていた。
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午後6時15分——新宿住友ビル、正面玄関。
自動ドアが開く。
樹は外へ歩み出た。
背後の、彼が二年間を過ごしたビルはまだそびえ立っている。青いガラスが夕焼けの空を映している。他の社員たちが一人また一人と外へ出て、駅へ、電車へ、それぞれの家へと向かっていく。
樹はビルの前で立ち止まった。
彼は見上げた。15階を。
あそこには、同じ部屋で、人々がまだ仕事に忙しくしているかもしれない。報告書。会議。メール。目標。すべて、もう彼の人生の一部ではないものたち。
彼は深く息を吸った。
そして吐き出した。
「……もういいか。」
声はかすかだった。ほとんど聞こえない。
復讐の場面はなかった。
叫び声もなかった。
涙もなかった。
彼はただビルの前に立ち、西新宿の雑踏の中で、奇妙な虚無感を感じていた。
スマホが震える。
樹は画面を見た。
綾香からのメッセージだった。
「樹、話したいことがある。今夜会える?大事な話」
彼はそのメッセージをしばらく見つめた。
そして返信を打った。
「いいよ。どこで?」
スマホが再び震える。
「私の部屋。8時?」
樹はスマホをスーツのポケットにしまった。
彼は新宿駅へと歩き始めた。
空では、雲が太陽を覆い始めていた。
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【次話 第02話——『裏切り』】
その夜、樹は東中野にある綾香の部屋へ向かった。そこで彼が見たものが、すべてを変えた。新宿の雨の中で、彼はすべてを失った。そして、どん底で、システムが現れた。
【第02話へ続く……】




