第51話 ー『罰ゲーム』
第51話 ー『罰ゲーム』
2026年5月19日(火)——午後8時0分。
東京都港区恵比寿——樹のマンション。
マンションの夜は、いつものように静かだった。大きなガラス窓の外では街の灯りがきらめき、遠くに光の海を作り出している。室内では、プレミアムスピーカーから流れる静かなジャズと、湯呑みの中のスプーンの音だけが心地よい静けさを彩っていた。
樹はソファに座り、スマホを手に、一日中届いたメッセージを読んでいた。志織からは週末のスケジュール確認が届いている。土曜日の午前中に千葉県の実家へ帰省する予定だ。冴からは夕食を食べたかどうかを尋ねる短いメッセージ。莉々香からはスタジオでの写真と「会いたい!」というメッセージ。澪からはジョイントベンチャーの進捗報告。レイナからは市場分析。
樹はそれら全てを見て、小さく微笑んだ。かつては寂しく空っぽだった彼の人生は、今や自分を気にかけてくれる人々で満ちている。胸の空洞を何かが満たしているような、温かい感覚があった。
彼は全員に短い返信を打ち、スマホをテーブルの上に置いた。
その隣には、時計の入った小さな箱がまだ置かれている。志織用、父用、母用。樹は志織用の箱を手に取り、開けてジャガー・ルクルト·レベルソを眺めた。白い文字盤の表面に光がきらめき、裏側には『林詩織』の名前がきれいに刻まれている。
「……志織さん、気に入ってくれるだろうな。」
彼はその箱を閉じ、次に父用の箱を手に取った。グランドセイコーSBGW231。シンプルでエレガント、強い日本の精神を持つ。父はいつも質素なものを大切にしてきた。樹は父がその箱を開け、目を見開き、そして誇らしげに微笑む姿を想像した。
樹は微笑んだ。「……父さん、驚くだろうな。」
彼はその箱を置き、母用の箱を手に取った。カルティエ·タンク·フランセーズ。上品で、クラシックで、時代を超えている。母はいつもエレガントなものを好んでいた。樹は母がその時計を細い手首に巻き、目を輝かせて微笑む姿を想像した。
「……母さん、泣いちゃうかもしれないな。」
樹は自分の想像に小さく笑った。会社員時代、実家に帰ることはめったになかった。いつも忙しく、いつも疲れていて、帰らない理由をいつも探していた。今は時間がある。お金もある。帰る理由もある。
「……久しぶりだな。」
---
午後9時0分——マンションの室内。
樹がまだソファに座っていると、スマホが鳴った。志織からの着信だ。
樹は電話に出た。「志織さん?どうした?」
「如月さん、夜分にすみません。週末のスケジュールがご希望通りになっているか確認したくて。土曜日の午前中に千葉へ帰省されるんですよね?」
樹は微笑んだ。「……ああ。ありがとう、調整してくれて。」
「いいえ。出張に必要な書類は全て準備してあります。それから……」志織は一瞬言葉を止めた。「……時計のこと、ありがとうございます。どれほど私にとって意味のあることか、言葉にできません。」
樹は胸に温かいものを感じた。「……君はそれを受けるに値するよ、志織さん。」
「……あなたは優しすぎます、如月さん。」
「……いいや、君の方が俺に優しくしてくれている。」
志織は小さく笑った。軽やかで温かな笑い声だ。「……わかりました。では、そろそろ失礼します。おやすみなさい、如月さん。」
「おやすみ、志織さん。」
樹は電話を切り、スマホを見つめて小さく微笑んだ。自分を気にかけてくれる人々がいること、意味のある人生を持てていることに、彼は喜びを感じていた。
そしてその時、彼は危うく口にしそうになった。「なあ、志織、これ全部システムが──」
彼はそこで止まった。
その言葉が口から出そうになった。ほとんど。彼は間一髪で唇を噛みしめ、重大な過ちを犯しそうになったことに気づいた。
「……危うく言うところだった。」
---
午後9時5分——マンションの室内。
予告なくウィンドウが彼の前に現れた。いつもより強い緊張感を伴って。
【━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━】
【⚠ 警告 —— 秘密保持違反 ⚠】
【━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━】
樹は固まった。
【ホストはシステムの絶対ルールをほぼ破るところでした。ホストは他の人間にシステムの存在を説明しそうになりました。それは禁止されています。】
樹は唾を飲み込んだ。「……わ、分かってる。言ってない。」
【ホストは運が良かったです。システムは試みを検出し、言葉が発せられる前に阻止しました。しかし試みは試みです。ペナルティが発動します。】
樹は背筋に冷たいものを感じた。「……ペナルティ?でも何も言ってないぞ!」
【ホストは言いかけた。それで十分です。システムは秘密保持違反に一切の寛容を示しません。】
樹は反論しようと口を開けたが、声を発する前に、自分の体に何か奇妙なことが起きているのを感じた。
痛みではない。痙攣でもない。ただ奇妙な感覚だ。何かが変わり、何かが縮み、何かが消え去るような。
樹はうつむき、目を見開いた。
「……何だ?」
【ペナルティが発動しました。一時的な身体的効果 —— 持続時間二十四時間。ホストの身体は物理的変化を経験します。二十四時間後、全てが正常に戻ります。】
樹は自分の体を感じた。言葉にできない感覚。彼をパニックに陥れる感覚。
「……待ってくれ——『物理的変化』ってどういう意味だ? 俺に何が起きてるんだ?!」
【システムはこれ以上の詳細を提供できません。しかしホストは心配する必要はありません。この効果は永続的ではありません。二十四時間後、ホストは正常に戻ります。】
樹はソファから立ち上がり、廊下の鏡の前に歩き、自分の姿を見つめた。見た目は同じだ。目に見える変化はない。しかし何かが違う——不快な感覚が彼を苛む。
「……冗談だろ? こんなの現実じゃない。」
【システムは冗談を言いません。ペナルティは現実です。ホストは一つのことを学びました。決してシステムについて話してはいけない。】
樹は長い息を吐き、自分を落ち着けようとした。
「……わかった。理解した。二度と口にしない。」
【ホストは学びました。それは良いことです。これからの二十四時間をお楽しみください、ホスト。】
ウィンドウが消えた。
樹は鏡の前に立ち、パニックと苛立ちが入り混じった表情で自分の姿を見つめた。
「……俺に何が起きたんだ?」
---
午後9時30分——マンションの室内。
樹はソファに座り、何が起きたのかを処理しようとしていた。システムを志織に暴露しそうになった。間一髪で止まった。しかしシステムはそれでもペナルティを科した。
「……何なんだよ?」
彼は小声で呟き、まだ体に残る奇妙な感覚を確かめた。痛みではない。しかし何かが違う。
彼は洗面所へ歩き、鏡を見つめた。目に見える変化はない。顔も体も同じだ。しかし何かがおかしい。
樹は長い息を吐き、目を閉じた。
「……二度とシステムのことは話さない。誰にも。」
彼は目を開け、新たな決意を込めて自分の姿を見つめた。
「……これを忘れるな。」
---
午後10時0分——マンションの室内。
樹はソファに座り、スマホを手にしていた。先ほど自分が送った志織へのメッセージを開いた。
「おやすみなさい、如月さん。」
樹は返信したい気持ちになった。何か言いたい。しかし彼は止まった。何が起きたのか説明できない。志織にも、誰にも。
「……距離を置かなければ。」
彼はスマホを閉じ、テーブルの上に置いた。
窓の外では、街の灯りが輝き続けている。何百万もの命がそれぞれのリズムで動いている。しかし樹は、自分が別の世界にいるように感じた。最大の秘密を誰とも共有できない世界に。
「……これが俺の払う代償だ。」
---
午後11時0分——マンションの室内。
樹はついに寝ることにした。ベッドに横たわり、暗い天井を見つめた。心の中では、まだペナルティのことを考えていた。自分の体に起きたこと、これから二十四時間をどう過ごすか。
「……明日には全部元に戻る。」
彼は自分に囁き、心を落ち着けようとした。
「……明日には全てうまくいく。」
---
午後11時59分——マンションの室内。
樹が眠りに落ちかけていた時、スマホが一度だけ震えた。着信ではない。メッセージでもない。一度も開いたことのないニュースアプリからの通知だった。
彼はそれを無視し、目を閉じた。
「……明日、考えよう。」
---
【次話 第52話——『一夜で有名人』】
翌朝、樹は目を覚ますと、スマホが通知で埋め尽くされているのを発見する。大手SNSアカウントが彼の写真を投稿していた——ブガッティ・ミストラル・ヴィンチェロの前で写る樹の写真だ。日本のメディアが報じ始める。「丸の内の謎の若者」「キサラギ・アセット・マネジメントのオーナーは誰だ?」「二十一歳の投資家が東京を震撼させる。」莉々香がパニックになって電話をかけてくる。システムが確認する:公的認知が永続的になった。そして芸能事務所が樹に連絡をよこす。
【第52話へ続く……】




