第49話 ー『皇居の見える窓』
第49話 ー『皇居の見える窓』
2026年5月18日(月)——午前7時30分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
丸の内の月曜日の朝は、いつもと違う空気が流れていた。雲一つない青空のせいかもしれない。昨夜の雨で洗われた朝の空気のせいかもしれない。あるいは、樹が説明できない感覚——深い静けさ、嵐が過ぎ去った後のような静けさ——で目を覚ましたからかもしれない。
樹はいつもより早くオフィスに到着した。志織はまだ来ていない。昨夜、家族の用事で少し遅れると連絡があった。樹は気にしなかった。彼は朝の静けさを楽しみ、まだ誰もいない十階の廊下を歩き、社長室へ入った。
彼はコーヒーを淹れた。インスタントではなく、小さなパントリーで自分で準備したコーヒーだ。湯呑みに熱湯を注ぎ、しばらく待ってからゆっくりと口に運んだ。温かく、苦く、完璧だった。
樹は社長室の大きなガラス窓へ歩いていった。ここからは、東京の街並みが広がっている。
遠くには、高層ビルの間に皇居の緑が見える。古くからある木々が生い茂り、濠が周囲を囲み、その向こうには歴史ある建物の落ち着いた屋根が広がっている。反対側には、象徴的な赤レンガの壁を持つ東京駅が、出勤する人々の群れで賑わい始めている。その間に、丸の内の高層ビル群が青いガラスを朝日に向けて輝かせている。
樹はその窓の前に立ち、コーヒーカップを手に、久しぶりに……静けさを感じていた。
爆発的な幸福感ではない。過剰な喜びでもない。ただ深い静けさだ。全ての不安や心配が消え去り、自分が正しい場所にいるという意識だけが残るような。
彼は数週間前のことを思い出した。普通のサラリーマンだった頃、満員電車に揺られながら、同じ空を別の窓から見ていた頃。あの頃は、ただビルを見て「あのビルのどこかで働かなければ」と思っていた。今は、あのビルの一つを所有している。そして、誰かのために働く必要はない。
「……変な気分だ。」
彼は小さく呟き、ガラスに映る自分の姿に微笑んだ。
「……こんなこと、想像もしていなかった。」
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午前8時0分——十階·社長室。
樹がまだ窓のそばに立っていると、スマホが震えた。志織からのメッセージだ。
「如月さん、遅れて申し訳ございません。家族の用事がありまして。十時ごろ到着します。」
樹は返信した。
「大丈夫だ。時間をかけて来い。君が来るまでは自分で何とかする。」
志織からの返信がすぐに来た。
「……大丈夫ですか?」
「ああ。子供じゃないんだ。自分でどうにかできる。」
志織は小さな笑いの絵文字を送ってきた。彼女がそうするのは珍しい。
「わかりました、如月さん。すぐに向かいます。」
樹は微笑み、スマホをポケットにしまった。
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午前9時0分——十階·パントリー。
樹は朝食を作ることにした。シンプルなトーストにジャムとゆで卵。彼は十階の隅にある小さなパントリーへ歩き、冷蔵庫を開けて卵を取り出した。テーブルの上には、志織が数日前に買った新しいトースターが使われるのを待っている。
樹はパンを焼き、卵を茹で、緑茶を用意した。彼はパントリーの小さなテーブルに座り、静かに朝食を楽しんだ。窓の外では、東京が独自のリズムで動き続けている。高速道路を走る車、線路を走る電車、歩道を歩く人々。
彼は一口一口のトーストを、一杯一杯のお茶を、一瞬一瞬の静けさを味わった。
「……これが自由だ。」
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午前10時0分——十階·社長室。
志織が速足で到着した。白いブレザー、きちんと結わえた髪、少し疲れているが温かい笑顔。
「おはようございます、如月さん。遅れて申し訳ございません。」
樹は首を振った。「……大丈夫だ。家族の用事はどうだった?」
志織は微笑んだ。心からの笑顔だ。「……大丈夫です。小さな問題でした。もう片付きました。」
「……良かった。」
志織は秘書席に座り、タブレットを開いてスケジュールを確認し始めた。
「如月さん、今日はお昼まで会議はありません。いくつか署名していただく書類があります。それから……」志織は言葉を止め、新着メッセージを確認した。「……久遠冴さんがランチに来られます。」
樹は眉を上げた。「……冴さんが?」
「ええ。数分前にメッセージが来ました。あなたにお会いしたいそうです。」
樹は小さく微笑んだ。「……もちろん。待っていると伝えてくれ。」
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午前11時0分——十階·社長室。
樹が書類に署名していると——新宿と六本木の物件の新しい契約書——スマホが震えた。冴からのメッセージだ。
「如月さん、向かっています。十二時ごろに着きます。オフィスの近くでいいランチスポットはありますか?」
樹は微笑み、返信した。
「丸の内仲通りに小さなレストランがある。料理も美味しいし、景色もいい。ロビーで待っています。」
冴からの返信がすぐに来た。
「伺います。」
樹はスマホを閉じ、志織を見た。「……冴さんがランチに来る。」
志織は頷いた。「……プライバシーが必要でしたら、小会議室を用意します。」
「……ありがとう、志織さん。」
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午後0時0分——丸の内ビル·ロビー。
樹がロビーに立っていると、自動ドアが開き、冴が入ってきた。クリーム色のブレザー、グレーのペンシルスカート、長い黒髪はきれいに下ろされ、優しい微笑みを浮かべている。
「如月さん。」
「冴さん。こんにちは。」
彼らは互いに軽く一礼した。習慣となった動作だが、その形式の裏には温かみがあった。
「……会ってくれてありがとう。」冴が言った。
「……もちろん。いつでも会えるのは嬉しいよ。」
冴は微笑んだ。樹の心を温かくする微笑みだった。
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午後0時15分——丸の内仲通りの小さなレストラン。
そのレストランは小さくてエレガントだった。木製のテーブルが街路樹の下に置かれ、遠くには皇居の景色が見える。樹と冴は柵の近くのテーブルに座り、暖かい昼の日差しを楽しんだ。
冴はサラダとお茶を、樹はカレーライスを注文した。彼がいつも好きなシンプルな料理だ。
「……会社の調子はどうですか?」冴が尋ねた。
樹は肩をすくめた。「……順調だよ。最近、三人の新しい社員を採用した。CFO、COO、人事部長。それに桜庭澪とジョイントベンチャーの話を進めている。」
冴は眉を上げた。「……桜庭澪?あのテクノロジースタートアップのCEO?」
「ああ。知ってるのか?」
「……名前は聞いたことがある。彼女は……難しい人で有名だ。」冴は小さく微笑んだ。「……でも、あなたはうまくやったようだね。」
樹は小さく笑った。「……誰も手懐けてないよ。ただ……一緒に仕事をしているだけだ。」
冴は優しい眼差しで樹を見た。
「……あなたはいつも、周りの人を安心させられる。」
樹は瞬いた。「……どういう意味だ?」
「莉々香さん。澪さん。志織さん。みんなあなたのそばにいると安心する。それは……珍しいことだ。」
樹は答えなかった。しかし心の中で、自分が評価されていると感じた。
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午後1時0分——レストランの中。
彼らは心地よい沈黙の中で食事をし、料理と景色を楽しんだ。冴は時折皇居の方へ目をやり、日差しの下で目を輝かせた。
「……如月さん。」
「はい?」
「……あなたは幸せですか?」
樹は咀嚼するのを止めた。
「……なぜそう思う?」
冴は深い眼差しで樹を見た。
「……知りたいから。あなたが変わっていくのを見てきた——全てを失った人から、全てを持った人へ。でも……」冴は言葉を止めた。「……幸せは、全てを持つことからくるとは限らない。」
樹は答えなかった。遠くの皇居を見つめた。緑豊かで、静かで、永遠のように見える。
「……幸せだよ。」彼はようやく言った。「……今までよりずっと。」
冴は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。
「……それを聞いて安心した。」
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午後1時30分——レストランの外。
彼らはレストランの外に立ち、街路樹と昼の日差しに囲まれていた。冴は優しい眼差しで樹を見た。
「……如月さん。」
「はい?」
冴は口を開けかけた。何か大切なことを言おうとしているようだった。樹は待った。
しかし冴は静かに首を振った。
「……何でもない。忘れてください。」
樹は眉をひそめた。「……本当にいいのか?」
「……ええ。」冴は微笑んだ。少し無理をしたような笑顔だ。「……ただ、あなたが幸せで良かったと言いたかっただけです。」
樹は完全には信じなかったが、無理に聞き出そうとはしなかった。
「……ありがとう、冴さん。あなたがここにいてくれて嬉しい。」
冴は微笑んだ。今度はより心からの笑顔だ。
「……私もです。」
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午後2時0分——十階へ戻る。
樹と志織は社長室に座り、来週のスケジュールについて話し合っていた。樹の心はまだ冴にあった。言いかけた言葉、意味深な眼差しについて。
「……如月さん、何かお悩みですか?」志織が尋ねた。
樹は息を吐いた。「……いや、ただ……考え事をしているだけだ。」
志織は微笑んだ。理解に満ちた笑顔だ。
「……当然です。あなたは多くのことを経験してこられましたから。」
樹は答えなかった。しかし心の中で、志織が理解してくれていると感じた。
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午後4時0分——十階·社長室。
樹は窓のそばに立ち、夕日で色が変わり始めた皇居の景色を見つめていた。手には、冷めたお茶の入った湯呑み。
彼はこの数週間に起きた全てのことを考えていた。解雇。システム。富。物件。冴。莉々香。澪。レイナ。彩芽。志織。
「……こんなこと、想像もしていなかった。」
彼は自分に静かに呟いた。
「……でも、感謝している。」
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午後6時0分——Zeekr 9X Mansoryの中。
樹はZeekr 9X Mansoryに座り、色が変わり始めた夕方の空を見つめていた。手には、さっき冴から届いたメッセージが表示されたスマホ。
「今日はありがとうございました、如月さん。あなたと過ごす時間をとても楽しみました。」
樹は微笑み、返信した。
「俺もだよ、冴さん。また会おう。」
彼はエンジンを始動し、大型SUVは心地よい静けさと共に滑り出した。
窓の外では、街の灯りが一つまた一つと点り始めていた。
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【次話 第50話——『高級時計』】
システムが高級品購入の目標を提示する。樹は銀座の時計ブティックに入る。パテック・フィリップ、オーデマ・ピゲ、リシャール・ミル、ヴァシュロン・コンスタンタンの中から、彼は一番高いものではなく、自分が付けていて快適だと感じる一本を選ぶ。システムは新たな性格の成長を記録する:「選択的消費」。
【第50話へ続く……】




