第34話 ー『買収ではなく、救済』
第34話 ー『買収ではなく、救済』
2026年5月7日(木)——午前8時0分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
樹がオフィスに着いた時、いつものように予告なくウィンドウが現れた。
【WEALTH EVENT 09 —— TARGET AKUISISI】
【対象資産: 株式会社デジタルブリッジ】
【状況: 同社の財務状況が悪化しています。買収が推奨されます。】
【推奨アクション: 本日、訪問して状況を確認してください。】
樹は眉をひそめた。「……デジタルブリッジ? 興味ないって言っただろ?」
システムは答えなかった。
樹は息を吐いた。「……お前は気にしないんだな?」
【ホストの意見は記録されましたが、資産評価は完了していません。】
樹は無表情でそのウィンドウを見つめた。「……それでも行けと?」
【はい。訪問を推奨します。】
樹は長い息を吐いた。行きたくなかった。もう澪に会っているし、彼女の交渉を邪魔したくなかった。しかしシステムは澪の気持ちなど気にしない。
「……わかった。行くよ。」
彼は立ち上がり、ジャケットを手に取り、エレベーターへ向かった。
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午前8時30分——丸の内·地下駐車場。
樹はロールス・ロイス・スペクターに座り、静かにエンジンを始動させた。ダッシュボードのナビには、秋葉原にあるデジタルブリッジのオフィスへのルートが表示されている。
車は駐車場を出て、混み始めた朝の交通に合流した。樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら窓の外の街並みを楽しんだ。
車内は快適な静けさだ。エンジン音も振動もなく、プレミアムスピーカーから流れる静かなジャズだけが聞こえる。
樹がその静けさを楽しんでいると、ダッシュボードにウィンドウが現れた。
【ホストは本当に不満そうですね。】
樹は瞬いた。システムが自ら会話を始めることは滅多にない。
「……何だ?」
【デジタルブリッジの買収を嫌がっています。でも、ホストは自分で決めたわけではありません。】
樹は無表情でそのウィンドウを見つめた。「……お前が言ったんだろ。」
【そうです。でも、ホストは従う必要はありません。】
樹は沈黙した。
「……どういう意味だ?」
【ホストはいつでもシステムを無視できます。好きなものを買い、好きな場所に行き、好きな人に会うことができます。ホストにはその権利があります。】
樹は答えなかった。運転を続けたが、心が動き始めた。
「……じゃあ、なぜお前は行けと言うんだ?」
【なぜなら、ホストが無意識に望んでいることをシステムが検知したからです。】
「……何を望んでいるんだ?」
【ホストは会社が欲しいのです。でも、普通の会社ではありません。】
【ホストが望んでいるのは——】
【誰も疲れない会社。】
【誰も怯えない会社。】
【誰も無理をしない会社。】
【法律通り。ルール通り。人として当然の扱いを受ける会社。】
樹は沈黙した。
「……それが、俺の望みなのか?」
【ホストはそれを強く願っています。でも、自分では認めていません。】
樹は答えなかった。
彼は運転を続けたが、システムの言葉が頭の中で回り続けていた。
誰も疲れない会社。誰も怯えない会社。誰も無理をしない会社。
樹は東都リンクスを思い出した。終わりのない残業。プレッシャーをかける上司。裏切る後輩。人間を壊す企業文化。
彼はそんな会社を築きたくなかった。
彼は違う何かを築きたかった。
「……たぶん、お前の言う通りだ。」
【ホストは間違っていません。】
【ただ、もう少し自分の欲求を認めるべきだと思います。】
樹は小さく微笑んだ。苦いが、心からの笑みだった。
「……いつからお前はカウンセラーになったんだ?」
【システムはホストのサポートツールです。すべての側面をサポートします。】
【ただし、買収の結果については保証しません。】
樹は小さく笑った。温かく、心からの笑い声だった。
「……お前の正直なところが好きだよ。」
【ありがとうございます。次の交差点を右折してください。】
樹は再び笑い、システムの指示に従った。
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午前9時0分——東京都千代田区秋葉原·デジタルブリッジ株式会社オフィス。
樹はロールス・ロイスを秋葉原の五階建ての小さなビルの近くの駐車場に停めた。そのビルは古く見えるが、手入れは行き届いている。赤レンガの壁にきれいな窓、入口には小さな看板が掲げられている。
彼は中に入った。小さなロビーには、不安そうな表情の受付係がいる。その後ろでは、緊張したオフィスの雰囲気が広がっている。従業員たちは小声で話し合い、何人かは虚ろな目でパソコンの画面を見つめている。
一人の若い女性——おそらく総務スタッフ——が近づいてきた。
「おはようございます、お客様。何かお手伝いできますか?」
「如月樹です。会社の状況を確認に来ました。」
女性の顔が青ざめた。「……如月様? 新しいオーナー様ですか?」
樹は眉をひそめた。「……まだ決まっていません。ただ見に来ただけです。」
女性はほっとしたようだったが、まだ不安そうだ。「かしこまりました……取締役をお呼びします。」
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午前9時30分——デジタルブリッジ会議室。
デジタルブリッジの取締役——田中という男性——が緊張した表情で樹の向かいに座った。その脇には、二人のシニアスタッフが不安そうに座っている。
「如月様。」田中は震える声で言った。「当社の買収にご関心をお持ちだと伺いました。」
樹は首を振った。「まだ決めていません。」
「しかし——」田中は唇を噛んだ。「いくつかの情報筋から伺っています。私たちは……厳しい状況にあります。もしあなたが買わなければ、三ヶ月以内に会社を閉鎖せざるを得ないかもしれません。」
樹は部屋の中を見渡した。ガラス窓越しに、働いている社員たちが見える。不安そうな顔、緊張した肩、不確実性に満ちた雰囲気。
「……もし会社が閉鎖されたら、何人の社員が仕事を失うことになりますか?」
田中はうつむいた。「……二十人です。全員です。」
樹は沈黙した。
彼は東都リンクスのことを考えた。予告もなく解雇された時のことを。無力で、価値がなく、目的を失ったと感じた時のことを。
樹は誰にも同じ思いをさせたくなかった。
「……この会社を買います。」
田中は顔を上げ、目を見開いた。「……すみません?」
「デジタルブリッジを買います。全社員を維持します。そして、この会社を継続させます。」
田中は信じられなかった。「……しかし、私たちは倒産寸前です。明確な見通しもなく——」
「構いません。」樹は静かな目で田中を見た。「利益を得るために買うわけじゃない。買うのは……なぜなら——」彼は言葉を止め、システムの言葉を思い出した。「——誰も疲れず、誰も怯えず、誰も無理をしない会社を築きたいからです。」
田中は涙ぐんだ目で樹を見つめた。
「……如月様、何とお礼を申し上げたらいいのか。」
「何も言わなくていい。今日からデジタルブリッジはキサラギ・アセット・マネジメントの一部です。そして、より良いものを一緒に築いていきましょう。」
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午前11時0分——デジタルブリッジのオフィス内。
噂は瞬く間に広まった。一時間も経たないうちに、デジタルブリッジの全社員が解雇されないことを知った。雰囲気は劇的に変わった。緊張は、ほとんどヒステリックな安堵に取って代わられた。
何人かの社員が泣いた。何人かは笑った。何人かはただ静かに座り、その知らせを噛みしめていた。
樹は彼らの間を歩き、徐々に輝き始めた顔を見た。一人の若い男性が彼に近づいてきた。
「如月様……ありがとうございます。」
樹は頷いた。「礼には及ばない。ただ、当然のことをしただけだ。」
「しかし——私たちは全てを失いかけてました。そしてあなたが救ってくれた。」
樹はしばらく考えた。「……理由もなく仕事を失う辛さを知っている。誰にも同じ思いをさせたくなかった。」
男性は心からの感謝の気持ちで樹を見つめた。
「……あなたは良い人です、如月様。」
樹は小さく微笑んだ。「……そうかどうかは分からない。でも、そうありたいと思っている。」
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午後0時0分——デジタルブリッジのオフィス前。
樹はデジタルブリッジのビルの前に立ち、救ったばかりの建物を見つめていた。中では、社員たちが新たな意気込みで働き始めている。今朝にはなかったエネルギーだ。
スマホが震えた。志織からのメッセージだ。
「如月さん、デジタルブリッジを購入されたと聞きました。本当ですか?」
樹は返信した。
「ああ。ちょうど買収を終えたところだ。」
志織からの返信がすぐに来た。
「……倒産寸前の会社を買い、全社員を維持し、明確な事業計画もないと。」
「ああ。」
「……あなたらしいですね。」
樹は小さく微笑んだ。
「それは褒め言葉か?」
「まだ決めていません。」
樹は小さく笑い、スマホをポケットにしまった。
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午後2時0分——丸の内へ戻る。
樹は少し軽い気持ちで丸の内のオフィスへ戻った。十階では、志織がタブレットを手に待っていた。
「おかえりなさい、如月さん。デジタルブリッジの初期報告書をまとめました。」
樹は頷いた。「後で読むよ。」
「もう一つ。」志織は真剣な表情で樹を見た。「桜庭澪から連絡がありました。もう一度会いたいそうです。」
樹は眉をひそめた。「……何の用だ?」
「あなたがデジタルブリッジを買ったことを聞いたそうです。何か説明したいとのことです。」
樹は息を吐いた。「……彼女と喧嘩したいわけじゃない。」
「おそらく喧嘩のためではないでしょう。もし怒っていれば、予告なしにここへ来るはずです。」
樹は小さく微笑んだ。「……君は彼女のことをよく知ってるな。」
「バックグラウンドレポートを読みましたので。」
「……当然だな。」
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午後4時0分——十階·小会議室。
澪は時間通りに到着した。黒いブレザー、濃い色のペンシルスカート、真剣な表情。彼女は樹の向かいに座り、鋭い目で彼を見つめた。
「……デジタルブリッジを買ったそうですね。」
「ああ。」
「興味がないと言った後に。」
樹は頷いた。「技術には興味がない。でも社員には興味がある。」
澪は眉をひそめた。「……社員?」
「あの会社は倒産寸前だった。二十人の社員が仕事を失うところだった。それをさせたくなかった。」
澪は隠しきれない表情で樹を見つめた。困惑と好奇心が入り混じった表情だ。
「……二十人の社員を救うためだけに二十一億円の会社を買ったのですか?」
「ああ。」
「……事業計画もなしに?」
「事業計画もなしに。」
澪は沈黙した。
そして彼女は笑った。心からの、小さな笑い声だった。樹は驚いた。
「……あなたは狂った人ですね、如月さん。」
樹は微笑んだ。「よく言われます。」
澪は息を吐き、そしてより柔らかな目で樹を見つめた。
「……今、分かりました。あなたはお金に関心がない。人に関心があるのですね。」
樹は答えなかった。
「……協力したい。」
樹は眉を上げた。「……協力?」
「ええ。デジタルブリッジはあなたから奪いません。でも、あなたの会社と協力したい。互いに利益があります。」
樹はしばらく考えた。「……何を提案する?」
澪は微笑んだ。滅多に人に見せない笑顔だ。
「技術。専門知識。ネットワーク。そして……誠実さ。」
樹は澪を見つめ、そして手を差し出した。
「……取引成立だ。」
澪はその手を握り返した。力強く、温かい握手だった。
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【次話 第35話——『法律事務所の女』】
デジタルブリッジの買収後、樹は強固な法体制の必要性に気づく。志織は彼に神崎彩芽を紹介する。厳格でプロフェッショナルなことで知られる企業法務専門の弁護士だ。彩芽は樹の全資産を調査し、彼の財産が初期報告書に記載されているよりもはるかに大きいことを発見する。彼女は樹が歩く法律問題かもしれないと疑い始める。
【第35話へ続く……】




