第33話 ー『桜庭澪』
第33話 ー『桜庭澪』
2026年5月6日(水)——午前8時0分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
樹はいつもより早くオフィスに到着した。今日は志織とパーソナルアシスタントとしての仕事の詳細を話し合う日だ。彼は社長室へ歩き、椅子に座り、目の前に広がる東京の街並みを見つめた。
午前八時十五分、ウィンドウが現れた。
【WEALTH EVENT 09 —— システム推奨】
【対象資産: テクノロジーインフラ企業 —— 株式会社デジタルブリッジ】
【状況: 同社は現在、財務難に直面しています。買収が推奨されます。】
【価格: 二十一億円】
樹は眉をひそめた。
「……テクノロジー企業には興味がない。」
システムは答えなかった。ただその企業の情報を静かに表示し続けている。
樹はさらに読み進めた。株式会社デジタルブリッジは従業員二十名の小さな企業で、クラウドインフラとサイバーセキュリティを手がけている。現在、別の企業——より大きなテクノロジースタートアップ——との交渉中だった。
樹はその企業の名前を読んだ。
株式会社桜庭デジタルソリューションズ。
「……桜庭?」
その名前は聞いたことがなかった。
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午前8時30分——十階·小会議室。
エレベーターの扉が開き、志織が静かな足取りで入ってきた。黒いブレザー、グレーのペンシルスカート、ローヒール。きちんとしているが過剰ではないプロフェッショナルな服装だ。髪は後ろできちんと結われ、手には新品らしいタブレット。
「おはようございます、如月さん。」
樹は立ち上がり、軽く会釈を返した。「おはようございます、林さん。来てくださってありがとうございます。」
「お招きいただきありがとうございます。」
彼らは会議テーブルに座った。志織はタブレットを開き、昨夜準備したメモを表示した。
「ご提案について考えました。」志織が言った。「いくつか質問があります。」
「どうぞ。」
「第一に、キサラギ・アセット・マネジメントの長期的な目標は何ですか?」
樹はしばらく考えた。「……分からない。日本一の企業になりたいわけじゃない。ただ、安定した何かを築きたい。私が全てを自分で管理しなくても機能するものを。」
志織はメモを取った。「……承知しました。」
「第二に、所有権と意思決定の構造はどのようになっていますか?」
樹は息を吐いた。「……私が唯一のオーナーだ。でも全ての決断を一人で下したいわけじゃない。有能な人々に助けてほしい。」
志織は再びメモを取った。「……承知しました。」
「第三に、パーソナルアシスタントとして私に何を期待していますか?」
樹は正直な目で志織を見た。
「私が馬鹿なことをしたら教えてほしい。細かいことに気を取られないようにスケジュール管理をしてほしい。私と外部の世界をつなぐ役割を果たしてほしい。そして……」樹は一瞬言葉を止めた。「……信頼できる人になりたい。」
志織は注意深く聞いていた。そして微笑んだ。心からの、作り物ではない笑顔だった。
「……この仕事をお受けします。」
樹は瞬いた。「……本当ですか?」
「はい。ただし、一つだけ条件があります。」
「何ですか?」
「私が『ノー』と言ったら、あなたはそれに従わなければなりません。」
樹は微笑んだ。「……それが私の頼んだことだ。」
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午前9時0分——十階·社長室。
樹が志織との話し合いを終えたばかりの時、スマホが震えた。知らない番号からの着信だ。
「おはようございます。如月樹様でいらっしゃいますか?」
電話の向こうの女性の声——冷たく、プロフェッショナルで、わずかに鋭い口調だった。
「……はい。どちら様ですか?」
「桜庭澪です。桜庭デジタルソリューションズのCEOです。あなたにお会いしたい。」
樹は眉をひそめた。「……何の用でしょうか?」
「デジタルブリッジにご関心をお持ちだと伺いました。あの会社は私と交渉中です。」
樹は自分が関心を持ったと言った覚えはなかったが、システムが買収を推奨していた。その情報が漏れたのかもしれない。
「……その会社があなたと交渉中だとは知りませんでした。」
「不思議ですね。デジタルブリッジのオーナーに既に連絡を取ったという報告を受けていますが。」
樹は沈黙した。システムが彼の知らないうちに何かをしたに違いない。
「……誤解かもしれません。」
「誤解だろうと何だろうと、私はあなたに会いたい。今日中に。」
樹は時計を見た——九時十五分。志織が働き始めたばかりだ。
「……わかりました。どこで?」
「大手町フィナンシャルシティ。十五階。午後一時。」
「わかりました。伺います。」
電話が切れた。
樹は困惑した表情でスマホを見つめた。「……あの人は誰だ?」
ドアのところで会話を聞いていた志織が言った。「桜庭澪。桜庭デジタルソリューションズのCEO。二十五歳。日本で最も成功したテクノロジー起業家の一人です。」彼女はタブレットから読み上げた。「同社はエンタープライズAI、クラウドインフラ、サイバーセキュリティを手がけています。年間売上は約百五十億円。彼女は……難しい人として知られています。」
「……難しい?」
「簡単に感動しない。妥協しない。そして非常に競争心が強い。」
樹はため息をついた。「……面白い会合になりそうだ。」
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午後1時0分——東京都千代田区大手町·大手町フィナンシャルシティ——十五階。
樹は大手町フィナンシャルシティのロビーに到着した。青いガラスのファサードとエレガントな白い大理石の内装を持つ現代的な高層ビルだ。彼はエレベーターで十五階へ上がり、扉が開くと桜庭デジタルソリューションズのオフィスが広がっていた。
壁に企業ロゴが掲げられたモダンな受付。社員たちが画面の前で忙しそうにしているオープンスペース。キーボードの打音と低い会話の声が、活気ある雰囲気を作り出している。
樹は受付へ歩いていった。「如月樹です。桜庭さんとの約束があります。」
受付係は頷き、誰かに電話をかけ、そして言った。「どうぞお入りください。桜庭様が会議室でお待ちです。」
彼女は樹を廊下に案内した。開かれたオフィススペースを通り過ぎ、廊下の突き当たりのガラス張りの部屋へ。
扉が開く。
会議室の中では、一人の女性が窓辺に立ち、東京の街並みを見つめていた。長い黒髪、グレーのブレザー、濃い色のペンシルスカート、そして真剣な表情。
桜庭澪。
彼女は樹が入ってくると振り返った。その目は——濃い茶色で、鋭く、計算高い——樹を頭の先からつま先まで見渡した。
「……如月樹。」
樹は軽く一礼した。「桜庭さん。お会いいただきありがとうございます。」
澪は目の前の椅子を指した。「お座りください。」
彼らは向かい合って座った。澪は前置きに時間を無駄にしなかった。
「本題に入ります。デジタルブリッジは、私がこの六ヶ月間ターゲットにしてきた企業です。彼らは桜庭デジタルのクラウドインフラ拡張に必要な技術を持っています。私は既にオーナーと交渉しており、合意間近でした。」
樹は静かに聞いていた。
「……そこにあなたが現れました。」澪は鋭い目で樹を見た。「あなたはデジタルブリッジのオーナーに連絡し、より高い価格を提示し、進行中の交渉を妨害した。」
樹は眉をひそめた。「……私は誰にも連絡していません。」
澪は眉を上げた。「……何?」
「デジタルブリッジのオーナーに連絡したことはありません。あなたと交渉中だということさえ、システムが——」樹はそこで言葉を止めた。危うく言い間違えるところだった。「——誰かが今日教えてくれるまで知りませんでした。」
澪は信じられないという表情で樹を見つめた。「……あなたはデジタルブリッジに興味がないと言っているのですか?」
「テクノロジー企業には興味がありません。」
「しかしあなたはここに来た。デジタルブリッジのことを知っている。あなたは——」澪は言葉を止め、目を細めた。「……誰かがあなたに情報を流した。」
樹は答えなかった。
澪は疑いの目で樹を見つめた。「……何か企んでいますね、如月さん。」
樹はため息をついた。「……何も企んでいません。あなたが呼んだからここに来ただけです。何が起きているのか、私もよく分かっていません。」
澪はしばらく沈黙した。
「……デジタルブリッジに連絡したことはないと?」
「ええ。」
「買収に興味はないと?」
「ええ。」
「では、なぜここにいるのですか?」
樹は正直な目で澪を見た。「……あなたが来てほしいと言ったからです。」
澪は長い間、樹を見つめた。そして椅子に寄りかかり、その表情がわずかに和らいだ。ほんのわずかに。
「……あなたは変わった人ですね、如月さん。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
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午後2時0分——会議室の中。
澪はタブレットを開き、デジタルブリッジのデータを表示した。「わかりました。あなたが連絡していないと仮定しましょう。しかし今やあなたは関与しています。デジタルブリッジのオーナーは、あなたからのオファーを待っているため、私との交渉を拒否しています。」
樹は眉をひそめた。「……私は何もオファーしていません。」
「しかし彼らはあなたが何かオファーすると思っています。そして彼らがそう思っている限り、私には売ろうとしません。」
樹はしばらく考えた。「……あなたは私に何を望んでいますか?」
澪は鋭い目で樹を見た。「あなたに彼らに興味がないと伝えてほしい。」
「……わかりました。」
澪が瞬いた。「……何?」
「興味がないと伝えます。」
「……あなたはそれをやるのですか?」
「ええ。あの会社を買う気はありません。テクノロジーは分からないし、参入する計画もありません。だから……」樹は肩をすくめた。「……関心を持ち続ける意味はありません。」
澪は隠しきれない表情で樹を見つめた。驚きと困惑と好奇心が入り混じった表情だ。
「……如月さん、あなたは交渉もせずに買収のチャンスを手放したのですか。」
「ええ。」
「この状況から利益を得ようとは思わないのですか?」
「いいえ。」
澪は沈黙した。
「……あなたは本当にお金に興味がないのですか?」
樹は小さく微笑んだ。「……そういう問題じゃない。ただ、理解できないことに興味がないだけだ。そしてテクノロジーは理解できない。」
澪は長い間、樹を見つめた。そして、先ほどよりも柔らかな声で言った。「……あなたのような人に会ったことがありません。」
樹は肩をすくめた。「……よく言われます。」
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午後3時0分——大手町フィナンシャルシティの前。
樹と澪はビルの前に立ち、大手町の喧騒の中にいた。澪は読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。
「デジタルブリッジに連絡します。」澪が言った。「あなたが興味がないと伝えます。」
「お願いします。」
「……そして、お礼を言います。」
樹は瞬いた。「……何のために?」
「物事を複雑にしなかったからです。」
樹は微笑んだ。「……複雑なことは好きじゃないんで。」
澪は微笑みそうになった。ほとんど。彼女はそれをこらえたが、口元がわずかに緩んだ。
「……また会いたいです。」
樹は眉を上げた。「……何のために?」
「あなたを理解するために。」澪は深い眼差しで樹を見た。「お金に興味がない人間ほど……危険な人間はいないからです。」
樹はその意味がよく分からなかったが、頷いた。
「……いつでも。」
澪は頷き、そして振り返ってビルの中へ戻っていった。
樹は歩道に立ち、澪の後ろ姿を見送り、この出会いが何か大きなものの始まりに過ぎないと感じていた。
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【次話 第34話——『買収ではなく、救済』】
システムは依然としてデジタルブリッジの買収を推奨する。樹は澪の交渉を妨害したくないが、システムは資産購入の目標を提示する。彼がデジタルブリッジのオフィスを訪れると、その会社が倒産寸前であり、従業員たちが解雇されるとパニックに陥っていることを知る。樹はその会社を買うことを決意する——買収のためではなく、救済のために。
【第34話へ続く……】




