第32話 ー『秘書を探す男』
第32話 ー『秘書を探す男』
2026年5月5日(火)——午前8時0分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
樹は社長椅子に座り、目の前に積まれた履歴書の山を見つめていた。昨夜、冴が十人の候補者を送ってきたのだ。今朝、彼はそれを一冊一冊読み終えたところだった。
誰も適任ではなかった。
一人目の候補者——攻撃的すぎる。志望動機に「キサラギ・アセット・マネジメントを日本一の企業に変えます」と書いてあった。樹は首を振った。日本一の企業なんて望んでいない。ただ機能する会社が欲しいだけだ。
二人目の候補者——怖がりすぎる。志望動機は樹の財産への過剰な賛辞で埋め尽くされ、自分が何ができるかには一言も触れられていなかった。樹はこの人物が、たとえ愚かな決断でも全てに頷くだけだろうと想像した。
三人目の候補者——お金に興味がありすぎる。最初の段落で給与と福利厚生を尋ねてきた。樹は報酬を重視する人間を否定するつもりはないが、その優先順位は明らかに、自分が何を提供できるかより何を得られるかに興味があることを示していた。
四人目の候補者——理想主義すぎる。キサラギ・アセット・マネジメントを通じて「世界を変えたい」と書いてあった。樹はため息をついた。ただスケジュールを管理してくれる人が欲しいだけだ。
五人目から十人目まで——全て同じ問題を抱えていた。野心家すぎる。小心者すぎる。物質主義すぎる。純粋すぎる。あるいはその全ての組み合わせだ。
樹は最後の履歴書を机の上に置き、天井を見上げた。
「……誰も合わない。」
スマホが震えた。冴からのメッセージだ。
「どうでしたか、如月さん? 気になる方はいらっしゃいましたか?」
樹は正直に返信した。
「いいえ。全員合いませんでした。」
冴からの返信がすぐに来た。
「そうなるだろうとは思っていました。大抵の人は、あなたに本当に必要なものを理解していません。」
「僕に必要なものって何ですか?」
「あなたにノーと言える人です。」
樹はそのメッセージを読み、小さく微笑んだ。
「あなたの言う通りだ。」
「午後、丸の内に行きます。詳しく話しましょう。」
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午前11時0分——丸の内·新丸の内ビル。
樹は新丸の内ビルのロビーを歩いていた。自分のオフィスの向かいにある壮大なオフィスビルだ。ここではビジネスの空気がより生き生きとしている。社員たちがタブレットや書類を手に行き交う。ヒールの音が大理石の床に響く。隅のカフェでは、重役たちがコーヒーを片手に真剣に話し合っている。
樹は入口近くのベンチに座り、冴を待った。彼は周囲の人々を観察した。彼らの話し方、歩き方、交流の仕方。自信に満ちているように見える者もいれば、ストレスを抱えているように見える者もいる。自信があるふりをしているように見える者もいる。
「如月さん。」
冴の声が彼の思考を遮った。樹が振り返ると、冴が立っていた。クリーム色のブレザー、きちんと結わえた髪、優しいプロフェッショナルな表情。
「久遠さん。来てくれてありがとう。」
「もちろんです。話しましょう。」
彼らはロビーの隅のカフェへ歩いていった。木製の椅子と大理石のテーブルのある小さな店だ。冴は緑茶を、樹はブラックコーヒーを注文した。
彼らは向かい合って座った。
「それで。」冴が言った。「適任者は見つかりませんでしたか。」
「ええ。皆、何かが……過剰でした。」
「何が過剰なのですか?」
樹はしばらく考えた。「何もかもが。やる気がありすぎる。怖がりすぎる。欲張りすぎる。理想主義すぎる。僕はただ……普通の人が欲しいんだ。」
冴は小さく微笑んだ。「……普通。」
「ええ。スケジュール管理、電話の取次ぎ、書類処理、そして僕が馬鹿なことをしたら『ノー』と言える人。僕を変えようとしたり、利用しようとしたりしない人。」
冴はお茶を一口すすると、深い眼差しで樹を見た。
「……あなたは希少なものを探していますね、如月さん。お金に影響されない人間。プロフェッショナルでありながら人間性を失わない人間。忠実でありながら奴隷にならない人間。」
樹は頷いた。「……そう。それだ。」
「そういう人は簡単には見つかりません。」
「……分かっている。」
冴はお茶のカップを置き、言った。「……私が探すのを手伝います。でも今回は、違う方法で探しましょう。」
「違う方法?」
「広告は出しません。人脈を通じて探します。適任者は普通、応募してきません。見つけられるものです。」
樹は心からの感謝の気持ちで冴を見つめた。
「……ありがとうございます、久遠さん。」
「お礼には及びません。」
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午後1時0分——丸の内仲通り。
彼らは丸の内仲通りを歩き、暖かい昼の日差しを楽しんでいた。両側の街路樹が日陰を作り、風が優しく吹いている。
「一つお聞きしたいことがあります。」と冴が言った。
「どうぞ。」
「本当にこの会社を経営したいのですか?」
樹は立ち止まり、真剣な表情で冴を見た。
「……分からない。起業家になりたいと思ったことは一度もない。ただ……」彼は言葉を止め、適切な言葉を探した。「……意味のある何かを持ちたいんだ。自分の手で築ける何かが。お金のためじゃない。……自由のために。」
冴は静かに聞いていた。
「……自由?」
「ええ。サラリーマンだった頃、僕の人生は他人に支配されていた。今、僕にはお金がある。でも、何をすればいいか分からなければ、お金は自由をもたらさない。」樹は冴を見た。「……僕がいなくても機能する何かを築きたい。常に僕を必要としないもの。僕に自由を与えてくれるもの……生きる自由を。」
冴は微笑んだ。優しく、心からの微笑みだ。
「……それは良い目標ですね、如月さん。」
「できると思う?」
「ええ。」冴は深い眼差しで樹を見た。「あなたはお金のためにやっているのではありません。自由のためにやっている。それが、私が知っている全ての起業家とあなたを違うものにしています。」
樹は胸に温かいものを感じた。
「……ありがとうございます、久遠さん。」
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午後3時0分——東京都中央区銀座。
冴と別れた後、樹は銀座を散歩することにした。特に目的はなかった。ただ、マンションに戻る前に時間を潰したかっただけだ。
彼は中央通りを歩き、両側に並ぶ高級ブティックを通り過ぎた。ルイ・ヴィトン、シャネル、エルメス、カルティエ。かつては勇気を出して入ることさえできなかった店々。今はいつでも入れる。
しかし彼には興味がなかった。
樹はきらめくショーウィンドウを通り過ぎ、心はまだアシスタント探しのことで占められていた。適任者は誰なのか?どこで見つけられるのか?
彼はある店の前で立ち止まった。高級ブティックではなく、銀座の角にある大きなデパートだ。入口で、一人の女性がプロフェッショナルな微笑みを浮かべて立っていた。黒いブレザーにペンシルスカート、長い黒髪はきちんと下ろされている。
彼女は一人の客——シャネルのバッグを持った中年女性——と話していた。その女性はやや高圧的な口調で話していたが、彼女は冷静で、辛抱強く聞き、適切な対応をしていた。
樹はそのやり取りを観察した。
その女性はストレスを感じているようには見えなかった。イライラしているようでもない。ただ……プロフェッショナルだった。エレガントで、落ち着いていた。
客が満足そうな笑顔で去り、女性が振り返った。彼女の目が樹と合った。
「こんにちは、お客様。何かお手伝いできますか?」
声は滑らかで、温かみのあるプロフェッショナルな口調だった。
樹は近づいた。
「……ただ見ているだけです。」
「かしこまりました。お手伝いが必要でしたら、お声がけください。」女性は微笑み、そして入口の自分の位置に戻った。
樹は店内に入ったが、心はまだその女性にあった。
名前も、経歴も分からない。しかし彼女の話し方、立ち方、客への対応の仕方の何かが、樹にこう感じさせた。この人だ。
彼は店内を歩き回ったが、商品にはほとんど目を向けなかった。時々、入口の方へ目をやり、その女性がまだプロフェッショナルに立っているのを確認した。
約十五分後、樹は再び彼女に話しかけることにした。
「すみません……」
女性が振り返り、微笑んだ。「はい、お客様?」
「お聞きしたいのですが……ここで働いているのですか?」
女性は小さく微笑んだ。「はい。カスタマーサービスチームの一員です。お客様のご購入と商品のご提案をお手伝いしております。」
「……どのくらいですか?」
「三年です。」
樹は頷いた。「……如月樹と申します。」
女性はその名前に過剰な反応を示さなかった。驚きも、パニックもない。ただ丁寧に頷いた。
「林志織と申します。お会いできて光栄です、如月さん。」
樹は彼女の話し方に注目した。過剰ではない。卑屈でもない。ただ……的確だ。
「……林さん、変な質問かもしれませんが、お聞きしたいことがあります。」
「どうぞ。」
「パーソナルアシスタントに興味はありませんか?」
志織は瞬いた。一瞬だけ。そして表情はすぐに落ち着いた。
「……パーソナルアシスタント?」
「ええ。私は立ち上げたばかりの会社を持っています。スケジュール管理、書類処理、そして日常生活の管理をしてくれる人が必要です。そして……私にノーと言える人が。」
志織はしばらく樹を見つめた。そして微笑んだ。心からの、作り物ではない笑顔だった。
「……パーソナルアシスタントをしたことはありません。」
「分かっています。でも、さっきのあなたの客への対応を見ていました。落ち着いていて、プロフェッショナルで、動じない。それこそが私が必要としているものです。」
志織はしばらく考えた。
「……具体的な業務は?」
樹は簡潔に説明した。スケジュール管理、電話の取次ぎ、書類処理、物件の監督、弁護士や会計士との連絡調整、そして何より——樹が馬鹿なことをした時に「ノー」と言うこと。
志織は注意深く聞いていた。
「……つまり、あなたの人生を管理する仕事になりそうですね。」
「……そうだね。大体そんなところだ。」
志織は微笑んだ。「……それを私に任せると?」
樹は正直な目で志織を見た。
「……君を信頼できるかどうかは分からない。でも、信頼できる誰かが必要なのは分かっている。それに……」樹は一瞬言葉を止めた。「……君が適任だと感じたんだ。」
志織は沈黙した。
そして、優しい声で言った。「……考えてみます。」
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午後5時0分——デパートの外。
樹と志織はデパートの外に立っていた。夕方の銀座の喧騒の中で。樹は名刺を差し出した。キサラギ・アセット・マネジメントのために新しく印刷された名刺だ。
「これが私の番号です。もし興味があれば、いつでも連絡してください。」
志織はその名刺を受け取り、一瞥してからブレザーのポケットにしまった。
「……ありがとうございます、如月さん。ご連絡いたします。」
樹は頷いた。「……お待ちしています。」
彼は振り返り、歩き去った。
その後ろで、志織はまだ店の前に立ち、手の中の名刺を見つめていた。読み解くのが難しい表情で。
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午後6時0分——車内。
樹はロールス・ロイスの中に座り、色が変わり始めた夕方の空を見つめていた。一日中アシスタントを探し、ようやく適任かもしれない人物に出会った。
しかし一つだけ気になることがあった。
志織は彼の名前を聞いても何の反応も示さなかった。驚きも、パニックも、機嫌を取ろうともしなかった。
それがむしろ樹の興味を引いた。
「……適任者だ。」
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午後9時0分——恵比寿のマンション。
樹が夕食を終えた時、スマホが震えた。知らない番号からのメッセージだ。
「如月さん、林志織です。ご提案について考えました。詳細を話し合うため、もう一度お会いしたいです。」
樹はそのメッセージを読み、微笑んだ。
彼は返信した。
「承知しました。明日の午前九時に丸の内のオフィスでいかがですか?」
志織からの返信がすぐに来た。
「はい。伺います。」
樹はスマホを閉じ、天井を見上げた。
「……これは、何か良いことの始まりかもしれない。」
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【次話 第33話——『桜庭澪』】
翌日、樹は志織と仕事の詳細を話し合うために会う。しかしそのミーティングの前に、システムがテクノロジー企業の買収を推奨する。樹は興味がないが、その企業が桜庭デジタルソリューションズと交渉中であることが報告される。そこは二十五歳の冷徹で競争心の強いテクノロジースタートアップCEO、桜庭澪が率いる企業だ。
【第33話へ続く……】




