第31話 ー『三十億円の予告』
第31話 ー『三十億円の予告』
2026年5月4日(月)——午前7時30分。
東京都港区恵比寿——樹のマンション。
樹はゆっくりと目を開けた。
アラームはない。スマホのバイブもない。下の通りからの騒音もない。ただ、心地よい朝の静けさだけがある。カーテンの隙間から差し込む日差しが、寝室の木の床の上で踊っている。
彼はベッドに起き上がり、軽く伸びをしてから部屋を見渡した。解雇されてから三週間が経った。システムが彼の人生に入り込んでから三週間。今や彼は五百四十五億円の資産、四つの物件、一つの会社、そして二人の女性を持っている。彼女たちは彼を気にかけ始めている。
「……ようやく、静かに暮らせる。」
樹はキッチンへ向かい、コーヒーを淹れて、簡単な朝食を楽しんだ。トーストにジャム、ゆで卵、フルーツ。急ぐこともなく、予定もなく、ただ静かな朝だけがある。
彼はソファに座り、スマホで昨夜届いたメッセージを確認した。冴からは神田の物件状況の報告。莉々香からはスタジオでの写真と「会いたいな!」というメッセージ。そして志織——二日前に知り合ったばかりの女性——からは、今日の打ち合わせのスケジュールについての短いメッセージ。
樹は小さく微笑み、全てに短く返信した。
窓の外では、東京の空が晴れ渡り、雲一つない青空が広がっている。
「……いい日だ。」
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午前9時0分——恵比寿のマンション。
樹が朝食の皿を洗い終えた時だった。いつものように、予告なくウィンドウが彼の前に現れた。
【NEXT WEALTH EVENT】
【7 May 2026 —— 09:00】
【TARGET: 三百億円】
【TIME: 48:00:00】
【RULES: 生産資産の購入に制限はありません。ホストは企業、不動産、土地、車両、施設の購入、およびビジネスネットワークの拡大が許可されています。】
【PENALTY: 失敗した場合、ホストは「強制的な公的認知」を得ます——ホストの人気は永続的に上昇します。】
樹は無表情でそのウィンドウを見つめた。
「……三百億か。」
ウィンドウは答えなかった。ただ刻々と減っていく数字だけが表示されている。
樹は長い息を吐き、そして目を閉じた。
「……やっと静かに暮らせると思ったのに。」
彼は目を開け、天井を見上げて、小さく呟いた。
「……もう一度寝たい。」
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午前10時0分——東京都千代田区丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント。
樹は本社ビルに、初めて本当のオーナーとして足を踏み入れた。
これまで彼はこのビルを外から見ただけだった。濃い青色のガラス張りの十階建て、モダンでエレガントな建築様式、そして丸の内の中心に位置する戦略的な立地。システムが買えと言うから買っただけで、このビルで何をするのか真剣に考えたことはなかった。
しかし今日、彼は中に入ることにした。
自動ドアが開く。白い大理石とクリスタルシャンデリアの広いロビーが彼を迎える。受付の後ろでは、中年の女性がプロフェッショナルな表情で彼を見つめている。
「おはようございます、お客様。何かお手伝いできますか?」
樹は立ち止まり、自分には社員証がないことに気づいた。彼はこのビルのオーナーだが、誰も彼のことを知らない。
「……如月樹です。このビルのオーナーです。」
女性は瞬きをし、そして微笑んだ。「あ、如月様!失礼いたしました。すぐにご案内いたします。」
彼女は樹をエレベーターへ案内し、専用のアクセスカードを渡した。そして十階は社長室として準備されていると説明した。
樹は十階へ上がった。
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午前10時15分——十階·社長室。
エレベーターの扉が開く。
樹が足を踏み出すと、目を見張った。
十階は広い。約五百平方メートル。東京の街並みを一望するガラス張りの壁。一方には皇居が遠くに緑豊かに見え、もう一方には東京駅と丸の内の高層ビル群がそびえている。
社長室自体も広くて空っぽだった。エレガントな濃い色の木製の机、人間工学に基づいた椅子、その背後に大きなガラス窓。しかし書類はない。パソコンもない。本もない。装飾もない。
ただの空っぽの空間だ。
樹は窓辺へ歩き、眼下に広がる景色を見つめた。
「……これが俺のオフィスか。」
彼は周囲を見渡した。社長室の隣には会議室。その前に秘書室。小さなパントリーには設備が整っている。廊下の突き当たりにはサーバールーム。
しかし全てが空っぽだ。
社員はいない。スタッフはいない。秘書もいない。樹と静けさだけがある。
彼は社長椅子に座り、柔らかな革が身体にフィットするのを感じた。目の前には広い木製の机——何十もの書類を置くのに十分な広さだ。
しかし書類はない。
「……今、気づいた。」
樹は小さく呟いた。
「社員のいない会社は、会社じゃない。」
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午後0時0分——丸の内仲通り。
樹は一人で丸の内仲通りを歩いていた。丸の内エリアのメインストリートで、街路樹が生い茂り、エレガントな店舗や高級レストランが立ち並ぶ。周囲では、オフィスワーカーたちが足早に通り過ぎていく。きちんとしたスーツ、耳に当てたスマホ、真剣な表情。
樹はそれら全てを見つめた。
数週間前まで、自分もその一人だった。早起きして、電車に乗り、残業し、遅く帰り、寝て、次の日も同じことを繰り返す。
今、彼はここに立っている。背後には十階建てのビルがある。そして何もすることがない。
しかし初めて、彼は何かが欠けていると感じた。
「……昔は社員でいるのが嫌だった。今は……何者なのか分からない。」
彼は道端のベンチに座り、行き交う人々を見つめた。クリーム色のブレザーとタブレットを持った若い女性。革製のバッグと青いネクタイの中年男性。プロジェクトについて熱心に語り合う若いスタッフのペア。
樹はそれら全てを静かに観察した。
初めて、自分はもうあの世界の一員ではないことに気づいた。
しかし彼はまだ新しい世界を持っていなかった。
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午後2時0分——丸の内のビルへ戻る。
樹はビルの各フロアを一歩一歩歩いた。
九階:濃い色の木の床と真っ白な壁の空っぽの空間。
八階:同じく空っぽの空間。
七階:空っぽ。
六階:空っぽ。
全てのフロアが空っぽだ。机もない。椅子もない。パソコンもない。社員もいない。
樹は六階の中央に立ち、静けさに囲まれていた。
「……十階建てのビルがある。でも誰も働いていない。」
彼は長い息を吐いた。
「誰かを雇わなきゃ。」
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午後4時0分——十階·社長室。
樹は社長椅子に座り、スマホを開いて冴にメッセージを打った。
「久遠さん、助けが必要です。」
冴からの返信がすぐに来た。
「どうされましたか、如月さん?」
「社員の採用の仕方が分かりません。」
数秒間、返信はなかった。そしてスマホが着信で震えた。
冴からだ。
樹は電話に出た。
「如月さん、本気でおっしゃっているのですか?」
「……ええ。このビルを見て、全てが空っぽだと気づきました。一人では会社を運営できません。」
冴は一瞬沈黙した。そして優しい声で言った。「……お手伝いします。でも、一つだけご理解いただきたいことがあります。」
「何ですか?」
「あなたに必要なのは普通の社員ではありません。あなたの人生を管理できる人間です。パーソナルアシスタント。あなたにノーと言える人間です。」
樹はしばらく考えた。
「……賛成です。」
「わかりました。数名の候補を探します。」
「ありがとうございます、久遠さん。」
「お礼には及びません。」
電話が切れた。
樹はしばらくスマホを見つめ、そしてポケットにしまった。
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午後7時0分——丸の内仲通り、夜。
樹は一人で、灯りが点き始めた通りを歩いていた。遠くには、象徴的な赤レンガの壁を持つ東京駅が壮観にそびえている。
彼は帰宅するオフィスワーカーたちを見た。疲れているが、目的を持っている。彼らは駅へ向かい、電車に乗り、家へ帰る。
樹には目的がない。
彼には富がある。物件がある。会社がある。しかし彼には、寂しいマンション以外に帰る場所がない。
「……何かを築かなきゃ。」
彼は自分に静かに呟いた。
「お金のためじゃない。……意味のあるもののために。」
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午後9時0分——恵比寿のマンション。
樹はマンションに戻り、シャワーを浴びてソファに座った。テーブルの上にはCENTURIONの黒いカードがスマホの隣に置かれている。
彼はそのカードを見つめ、この三週間に起きた全てのことを思い出した。
解雇。裏切り。システム。富。物件。冴。莉々香。会社。
これら全てが、この黒いカードによってもたらされた。
樹はそのカードを手に取り、冷たい金属の表面を指先で確かめた。
「……俺に一体何が起きているんだ?」
ウィンドウが彼の前に現れた。
【ホストが質問をしました。】
【質問: 「俺に一体何が起きているんだ?」】
【回答: ホストは現在、人生を再構築する過程にあります。】
樹はそのウィンドウを見つめた。
「……どういう意味だ?」
【ホストは以前、他者のために生きていました。会社のために、関係のために、期待のために。】
【しかし今、ホストは自分のために生きることができます。】
【それは一つの問いを生みます:】
【「自由を手に入れた男は、自由を維持するために何を選ぶのか。」】
樹はその一文を何度も読んだ。
彼は答えなかった。
ウィンドウは消えた。
樹はソファに座り、天井を見上げ、その問いについて考え続けた。
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午後11時0分——恵比寿のマンション。
樹がまだ起きていると、再びウィンドウが現れた。
【SPECIAL QUEST】
【「ホストはホストの人生を管理できる人間を必要としています。」】
【REWARD: ホストのニーズに合ったパーソナルアシスタント。】
【BONUS: ホストが人間の助けを受け入れ、責任の一部を委譲することに成功した場合——追加報酬。】
樹はそのウィンドウを見つめた。
「……お前も俺にアシスタントが必要だと思ってるのか。」
システムは答えなかった。
樹は息を吐き、そして目を閉じた。
彼は冴のことを考えた。莉々香のことを。出会った全ての人々のことを。
そして初めて、全てを一人でできるわけではないと気づいた。
「……アシスタントを探そう。」
彼は自分に言い聞かせた。
「でも……適任者を。」
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【次話 第32話——『秘書を探す男』】
翌日、樹はパーソナルアシスタントを探し始める。冴が組織構造の策定を手伝い、必要な資質についてアドバイスする。樹は数名の候補者と面接するが、誰も適任ではない。迷いの中で、彼は銀座の高級ブティックで一人の女性に出会う。林志織——彼女が全てを変えることになる。
【第32話へ続く……】




