第30話 ー『自由の値段』
第30話 ー『自由の値段』
2026年5月3日(日)——午前7時30分。
恵比寿のマンション。
樹はゆっくりと目を開けた。
アラームはない。スマホのバイブもない。下の通りからの騒音もない。ただ、心地よい朝の静けさだけがある。カーテンの隙間から差し込む日差しが、寝室の木の床の上で踊っている。
彼はベッドに起き上がり、軽く伸びをしてから、部屋を見渡した。恵比寿の高級マンション。最初の一週間で買った家具。クローゼットに並んだ新しい服。手首の高級時計。全てが彼のものだ。
しかし樹はそれらを考えていなかった。
彼が考えていたのはただ一つ。今日、彼はどこへも行く必要がない。会議もない。報告書もない。上司もいない。営業目標もない。裏切った後輩もいない。目の前で泣いた元彼女もいない。
彼はようやく、最初から望んでいたものを手に入れた。
自由だ。
樹は窓辺へ歩き、カーテンを大きく開けた。眼下では、東京の朝が動き始めている。車が道路を埋め、人々が駅へと歩き、都会の日常がいつものように動き出している。樹はそれらを上から見つめ、かつて自分がいた世界との距離を感じていた。
「……今日は、何もしなくていい。」
彼はキッチンへ向かい、コーヒーを淹れて、簡単な朝食を楽しんだ。トーストにジャム、ゆで卵、フルーツ。急ぐこともなく、予定もなく、ただ静かな朝だけがある。
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午前9時0分——マンションの室内。
樹はソファに座り、スマホで昨夜届いたメッセージを読んでいた。冴からは神田の物件状況の報告。莉々香からはスタジオでの写真と「会いたいな!」というメッセージ。
彼は小さく微笑み、二人に短く返信した。長々と書く必要もない。説明する必要もない。ただ心からの返事だけだ。
そして彼は窓の外を見た。東京の空は晴れ渡り、雲一つない青空が広がっている。
「……箱根に行こうかな。」
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午前10時0分——箱根へ向かう道。
ロールス・ロイス・スペクターは箱根へと続く高速道路を走っていた。樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら、遠くに見え始めた山々の景色を楽しんでいる。車内では、プレミアムスピーカーから静かなクラシック音楽が流れ、落ち着いた雰囲気を作り出していた。
箱根に特別な目的はなかった。ただ月見荘にいたいだけだ。温泉の湯舟のほとりに座り、風の音を聞き、静けさを味わいたい。
車はトンネルを抜け、景色が変わった。緑の山々、小さな川、そして遠くには木々の間に隠れた伝統的な旅館の屋根が見える。
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午前11時30分——箱根·月見荘。
樹は車を月見荘の門の前に停めた。箱根の空気が彼を迎える。爽やかで清潔で、遠くの温泉からかすかに漂う硫黄の香り。彼は木製の門をくぐった。蝶番は相変わらずきしむ。しかし庭はすでに整えられ始めていた。枯れ葉は掃かれ、庭木は剪定され、本館は以前よりずっと生き生きと見える。
業者の仕事は順調だ。屋根は修理され、障子は新しいものに交換され、客室の畳も張り替えられた。そして裏庭では、温泉の湯舟が湯気を昼の空に立ち上らせている。
樹は湯舟のほとりへ歩き、縁の大きな石に座り、日差しの下で輝く水面を見つめた。
「……いい場所だ。」
彼は深く息を吸い込み、新鮮な空気が肺に満ちるのを感じた。排気ガスもなく、騒音もなく、ただ平和だけがある。
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午後0時0分——木製の縁側。
樹が縁側に座り、自分で入れた緑茶を楽しんでいると、玄関先から足音が聞こえた。彼が振り返ると、冴がかすかな微笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「久遠さん……来てくれたんですか?」
冴は頷き、促されるままに樹の隣に座った。「小田原方面への出張の途中でして。ちょっと寄ってみようと思いまして。」
樹は微笑んだ。「……偶然?」
冴は優しい眼差しで彼を見つめた。「……偶然です。」
彼らは心地よい沈黙の中で座り、整えられ始めた庭の景色を眺めた。風が吹き、花と温泉の香りを運んでくる。
「改修は順調に進んでいますね。」冴がようやく口を開いた。「業者の話では、あと二週間ほどで完了するそうです。」
「良かった。もっと長くここにいられるのが楽しみだ。」
「……東京を離れるおつもりですか?」
樹はしばらく考えた。「完全にはね。でも……逃げ場所が欲しいんだ。」
冴は頷いた。「……それは良い考えですね。」
彼らは再び沈黙し、互いの存在を楽しんだ。
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午後1時0分——温泉の湯舟のほとり。
彼らが湯舟のほとりへ歩いていくと、玄関先から別の足音が聞こえた。樹が振り返ると、莉々香が庭に駆け込んでくる。茶色い髪が風に揺れている。
「如月さん!来たよ!」莉々香は彼の前で立ち止まり、息を切らしながら満面の笑みを浮かべた。「この近くで撮影があってね!寄ってみようと思ったんだ!」
樹は莉々香を見、冴を見、そして再び莉々香を見た。
「……偶然?」
莉々香は明るく笑った。「偶然!」
冴はかすかに微笑んだ。樹だけが気づくほどの微笑みだ。
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午後2時0分——月見荘の食堂。
三人は食堂の低いテーブルに座り、樹が用意した簡単な昼食を楽しんだ。ご飯、味噌汁、焼き魚、そして新鮮な野菜。莉々香は美味しそうに食べ、樹の料理を褒めた。冴は優雅に食べ、時折味についてコメントをした。
「如月さん、料理上手いね!」莉々香はご飯を口に運びながら言った。
「自分で覚えたんだ。あまり上手くないけど。」
「でも美味しいよ!」莉々香は微笑んだ。「君の作る料理、好きだな。」
冴は何も言わなかったが、小さく微笑んだ。
三人の食事は温かい雰囲気に包まれていた。ところどころ気まずい瞬間もあったが、ほとんどは心地よいものだった。
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午後3時0分——裏庭。
食事の後、彼らは裏庭を散歩した。莉々香は咲き始めた花々に興奮し、冴は樹の隣を静かに歩いた。
「ここは本当に美しいね。」莉々香は手に取った花を見つめながら言った。「また来たいな。」
「いつでも来ていいよ。」樹は言った。「扉はいつでも開いてる。」
莉々香は微笑み、そして冴を見た。「……久遠さんもだよ。一緒に来よう。」
冴は頷いた。「……そうだね。」
三人は庭に立ち、箱根の美しさに囲まれていた。風が吹き、花と温泉の香りを運んでくる。遠くでは、山々が夕方の空の下で緑にそびえている。
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午後4時30分——月見荘の門の前。
莉々香は帰らなければならなかった。東京で別の撮影の予定がある。彼女は樹と冴に手を振り、プロダクションの車に乗り込んだ。
「またね、如月さん!またね、久遠さん!」
車は走り去り、樹と冴だけが門の前に残された。
彼らはしばらく沈黙して立っていた。そして冴が口を開いた。
「……如月さん。」
「はい?」
「これからどうされるおつもりですか?」
樹は目の前に広がる箱根の景色を見つめた。緑の山々、青い空、遠くで湯気を上げる温泉。
「……分からない。」彼は正直に言った。「ここまでは考えてなかった。」
冴は微笑んだ。優しく、心からの微笑みだ。「……時には、分からないことが良いこともあります。それはまだ選択の自由があるということですから。」
樹は冴の方を向いた。「……久遠さんはどうする?」
冴はしばらく考えた。「……東京に戻ります。仕事が待っていますから。」
「……仕事は楽しいですか?」
冴はすぐには答えなかった。深い眼差しで樹を見つめた。
「……分かりません。でも、ここにいるときは幸せだと分かっています。」
樹は胸に温かいものを感じた。
「……ありがとうございます、久遠さん。」
「お礼には及びません。」
彼らは門の前に立ち、静かな夕方に囲まれていた。風が吹き、木々と温泉の香りを運んでくる。そして初めて、樹は一人ではないと感じた。
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午後6時0分——東京への帰路。
樹は違った気持ちで東京へ向かって車を走らせた。不安もなく、迷いもなく、ただ深い静けさだけがあった。
彼は冴のことを考えた。莉々香のことを考えた。自分が成し遂げた全てのことを。そして未来について考えた。次に何をすべきかを。
樹には分からなかった。しかし初めて、分からなくても構わないと思えた。
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午後8時0分——恵比寿のマンション。
樹はマンションに戻った。リビングは出かける前と変わらず、静かで、テーブルの上には本が積まれ、部屋の隅には観葉植物が置かれている。
彼はキッチンへ向かい、温かいお茶を淹れてからソファに座った。
テーブルの上には、CENTURIONの黒いカードが置かれている。樹はそれを手に取り、冷たい金属の表面を指先で確かめた。このカードが彼の人生を変えた。富を与え、物件を与え、自由を与えた。
しかしその自由には代償があった。
ウィンドウが彼の前に現れた。いつものように、予告もなく。
【如月樹。】
【あなたの人生は、まだ始まったばかりです。】
樹は無表情でそのウィンドウを見つめた。
「……まさか、またクエストがあるなんて言わないよな。」
数秒の沈黙。
そしてウィンドウが変わった。
【次のウェルスイベント】
【7 May 2026 —— 09:00】
【ターゲット: 三百億円】
樹は長い息を吐いた。
「……三百億か。」
ウィンドウにはさらに一行が表示された。
【特別目標——今回は一人で使う必要はありません。】
樹は固まった。
その一文を何度も読んだ。「今回は一人で使う必要はありません。」
システムは他者を巻き込むことを許可している。何かを共に築くこと。全てを一人で背負わなくていいこと。
樹はそのウィンドウを見つめ、そして微笑んだ。
「……悪くないかもしれない。」
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午後8時30分——マンションの室内。
樹がまだソファに座っていると、スマホが震えた。冴からの着信だ。
「久遠さん?」
「如月さん。夜分にすみません。」
「いいえ。どうされました?」
「……高峰さんから電話がありました。アステリア・ホールディングスが、キサラギ・アセット・マネジメントとの協力に関心を持っていると。」
樹は眉をひそめた。「……協力?」
「ええ。彼は私に、あなたの会社の直接担当者になるよう望んでいます。……戦略アドバイザーとして。」
樹は沈黙した。
「……あなたはどうしたい?」
冴はしばらく考えた。「……まだ決めていません。」
「どうして?」
「それは、アステリア・ホールディングスとあなたの間で選ばなければならないということだからです。」
樹は答えなかった。
「……考えます。」冴がようやく言った。「でも、どちらを選んでも、あなたを助けるつもりであることを知っておいてください。」
樹は胸に温かいものを感じた。
「……ありがとうございます、久遠さん。」
「お礼には及びません。」
電話が切れた。
樹はしばらくスマホを見つめ、そしてポケットにしまった。
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午後9時0分——マンションの室内。
スマホが再び震えた。莉々香からのメッセージだ。
「如月さん!ルミエール・アーツから新しいオファーが来たよ!キサラギグループが関わるプロジェクトなんだって!知ってた?」
樹は返信した。
「さっき知った。どうやらシステムが全部仕組んでたみたいだ。」
「システム?何のシステム?」
樹は微笑んだ。
「長い話だ。いつか説明するよ。」
「楽しみにしてる!」
樹はスマホを閉じ、天井を見上げた。
三週間で彼は長い道のりを歩んできた。解雇されたサラリーマンから、数百億円の資産を持つ人間へ。誰もいなかった場所から、自分を気にかけてくれる人々に囲まれる場所へ。
しかし旅はまだ終わっていない。
そして樹——ただ静かに生きたいだけの元サラリーマン——は、次の一歩を踏み出す準備ができていた。
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午後9時30分——マンションのバルコニー。
樹はバルコニーに立ち、東京の夜空を見上げていた。遠くでビルの灯りがきらめき、その上では星々が一つまた一つと現れ始めている。
彼は深く息を吸い込み、夜の冷たい空気を感じた。
手の中のCENTURIONの黒いカードは、まだ温かかった。
樹は夜空に向かって微笑んだ。
「……どこまで行けるか、見せてもらおう。」
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【第一卷 完】
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【次卷 第二卷——『五百億円の使い道と、東京の女たち』】
第二卷は2026年5月7日に始まる。新たなクエスト:三百億円。しかし今回は、樹は一人で使う必要はない。冴はアステリア・ホールディングスとキサラギ・アセット・マネジメントの間で選択を迫られる。莉々香はキサラギグループのプロジェクトに巻き込まれ始める。そして新たなヒロイン——櫻庭澪、二十五歳のテクノロジースタートアップCEO——が、樹がシステムの指示でお金を使うために彼女が争っていた資産を買ったことで怒り、ビジネスの競争相手として現れる。
【第二卷へ続く……】




