第29話 ー『五百億円』
第29話 ー『五百億円』
2026年5月2日(土)——午前8時0分。
恵比寿のマンション。
樹は奇妙な感覚で目を覚ました。不安でもなければ興奮でもない。ただ静かな疲労感だった。ここ二日間で神田の物件を購入し、改修計画を立て、ほぼ二十億円を使い切った。しかしまだ八十億円が残っており、残り時間は二十四時間を切っている。
彼はベッドに起き上がり、スマホを手に取ってシステムのアプリを開いた。
【QUEST 08 —— アクティブ】
【残り時間: 23:47:12】
【残り目標額: 八十二億五千五百万円】
【総支出額: 十七億四千五百万円】
樹は長い息を吐いた。
「……まだ八十二億円もある。何を買えばいいんだ?」
彼はキッチンへ向かい、コーヒーを淹れてからソファに座り、考え込んだ。神田の物件はもう十分だ。箱根の旅館は完成した。青山のビルはもうすぐ完成する。みなとみらいの複合施設はまだ建設中だ。
「何か他に……」
ウィンドウが彼の前に現れた。
【ホストが最適な使用方法を模索していることを検知しました。】
【システムが提案を提供します。】
樹は眉をひそめた。「……提案?」
【ホストの資産は現在、分散しています。効率的な運用のためには、一つの拠点となるオフィスビルを取得することを推奨します。】
【推奨エリア: 千代田区・丸の内——交通アクセスが優れており、政府機関や皇居に近いビジネス中枢エリアです。】
樹は無表情でそのウィンドウを見つめた。
「……オフィスビル?丸の内に?」
【はい。現在、物件が利用可能です。】
ウィンドウには一棟のビルの情報が表示されていた。丸の内の十階建てビルで、東京駅と皇居に近い。価格は八十億円。
樹はその数字を見た。
八十億円。
残り目標額とぴったりだ。
「……最初からこれを見越してたんだな?」
システムは答えなかった。ただ静かにその物件情報を表示し続けている。
樹は息を吐き、スマホを手に取った。
「……見に行くよ。」
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午前9時30分——東京都千代田区丸の内。
樹はロールス・ロイスを東京駅近くの駐車場に停め、システムが指定した住所へ歩いていった。そのビルはメインストリートの角に立っていた。十階建てで濃い青色のガラス張りのファサード、モダンでエレガントな建築様式。正面には広い通りと街路樹が並び、遠くには石垣の向こうに皇居の屋根が見える。
「……この立地は素晴らしい。」
彼は入口へ歩み寄った。不動産業者——藤田という中年の女性——が既に正面玄関で待っていた。
「如月様ですか?おはようございます。丸の内の不動産会社の藤田と申します。」
「おはようございます、藤田さん。」
「こちらのビルは先日、空きが出ました。以前は投資会社の本社として使用されていましたが、より大きなビルへ移転されました。建物の状態は非常に良好です。軽微な内装工事のみで済みます。」
樹はガラス窓越しに中を覗いた。白い大理石の広いロビー、エレガントな受付、そして高い天井。
「……中を見てもいいですか?」
「もちろんです。こちらへどうぞ。」
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午前10時0分——ビルの中、一階。
藤田は樹をビルの中へ案内した。白い大理石とクリスタルシャンデリアのメインロビー。エレガントな制御パネルを備えた高速エレベーター。広々とした上層階のオフィススペースは、必要に応じて自由にレイアウトを変更できる。最上階には多目的スペースがあり、東京全体を見渡す三百六十度のパノラマビューが広がっている。皇居、東京駅、そして遠くの高層ビル群。
「……眺めは素晴らしいですね。」と樹は言った。
「ええ、お客様。丸の内でも最高の眺めの一つです。」
樹は窓辺に立ち、遠くの緑豊かな皇居を見つめた。心の中に、説明できない感覚があった。この場所が大切だと感じる何かが。
「……買います。」
藤田が瞬いた。「……お客様、もう少しご検討なさるおつもりは?」
「いいえ。買います。今日中に手続きを完了したい。」
「……かしこまりました。書類の手続きをいたします。」
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午前11時30分——不動産会社の事務所。
購入手続きには約一時間かかった。樹は全ての書類に署名した。丸の内のビルの総額は八十億円。
【QUEST 08 —— 達成】
【百億円が使用されました。】
【リワード計算中...】
【五百億円が追加されました。】
【新しい残高: 五百四十五億六千四百八十万円】
樹はその数字を見つめた。
五百四十五億六千四百八十万円。
五百四十五億円。
「……大きすぎる。」
彼はスマホをポケットにしまい、事務所を出た。新しいビルの前に立ち、歩道からその建物を見上げた。
丸の内の中心にそびえる十階建てのビル。東京駅に近い。皇居に近い。日本の権力の中心に近い。
「……こんなこと、想像もしていなかった。」
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午後0時30分——ビルの中、十階。
樹は最上階に立ち、眼下に広がる東京の景色を見つめていた。ここからは街全体が見渡せる。そびえ立つ高層ビル群、緑の公園、そして遠くには雲の間に霞む富士山。
スマホが震えた。冴からのメッセージだ。
「如月さん、丸の内のビルを購入されたと聞きました。本当ですか?」
樹は小さく微笑み、返信した。
「はい。買ったばかりです。」
冴からの返信がすぐに来た。
「……丸の内の十階建てビルですか?八十億円の?」
「はい。」
数秒間、返信はなかった。そして冴からのメッセージが届いた。
「……あなたは本当に予想外の方ですね、如月さん。」
樹は微笑み、スマホをポケットにしまった。
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午後2時0分——屋上。
樹はビルの屋上に立ち、吹き抜ける昼の風を楽しんでいた。ここからの東京の眺めは本当に壮観だ。一方には皇居、もう一方には東京駅、そして遠くにはそびえ立つ高層ビル群。
スマホが震えた。今度はシステムからの通知だ。
【特別条件達成】
【ホストは十分な非生産資産を蓄積しました。】
【新機能アンロック: プライベートホールディングフレームワーク】
樹は眉をひそめた。「……プライベートホールディングフレームワーク?」
【株式会社キサラギ・アセットマネジメント——設立準備完了】
樹は固まった。
「……待って。何?」
【ホストの資産は特定の閾値を超えました。効率的な管理のために、法人設立が必要です。】
「……でも、会社を設立したいなんて一度も言ってない。」
【しかし、資産管理が必要です。】
樹は信じられないという表情でそのウィンドウを見つめた。
「……勝手に俺の名前で会社を作ったのか?」
【株式会社キサラギ・アセットマネジメントは、ホストの資産を管理するための法人として自動的に設立されました。】
樹は長い息を吐いた。
「……信じられない。」
【ホストの資産は今後、同社を通じて管理されます。税務、保険、法的義務の処理が効率化されます。】
樹は屋上の端に座り、晴れた東京の空を見上げた。
気づかないうちに会社を設立していた。
如月アセット・マネジメント株式会社。
五百四十五億円という資産を管理する会社だ。
「……こんなの、望んでいなかった。」
しかし彼は、変えられないことも分かっていた。
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午後3時0分——屋上。
樹がまだ屋上に座っていると、スマホが震えた。莉々香からの着信だ。
「樹!丸の内のビルを買ったって聞いたよ!それに会社も作ったんだって!」
「……もう知ってるの?」
「メディアがもう報じてるよ!『如月アセット・マネジメント株式会社設立——丸の内に謎のオーナー現る!』って!」
樹は息を吐いた。「……有名になりたくないんだ。」
「もう遅いよ!有名になっちゃった!」莉々香は笑った。「でも……私は誇りに思ってるよ。」
樹は沈黙した。
「……誇り?」
「うん。短い間にたくさんのことを成し遂げたよね。意味のあるものを築いてる。それに、自分のやり方でやってる。」
樹は答えなかった。しかし心の中で、温かいものが広がった。
「……ありがとう、莉々香。」
「お礼なんていいよ!いつか新しいビルに行くからね!」
「うん。待ってるよ。」
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午後4時0分——屋上。
樹がまだ屋上に座っていると、スマホが再び震えた。冴からのメッセージだ。
「如月さん、如月アセット・マネジメント株式会社についてのニュースを見ました。ご存知でしたか?」
樹は返信した。
「システムが自動的に設立しました。さっき知りました。」
冴からの返信がすぐに来た。
「……それは普通ではありませんね。しかし、よろしければ会社の運営をお手伝いできますが。」
樹は微笑んだ。
「ありがとうございます、久遠さん。あなたの助けが必要になると思います。」
「私はここにいます。」
樹はスマホを閉じ、色が変わり始めた夕方の空を見上げた。
気づかないうちに会社を設立していた。
しかし彼のそばには人々がいた。冴、莉々香、そして出会った全ての人々。
そしてそれが、全てを少しだけ容易くしていた。
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【次話 第30話——『自由の値段』】
翌朝、樹はアラームなしで目を覚ます。仕事もない。上司もいない。後輩もいない。元彼女もいない。彼はようやく、最初から望んでいたものを手に入れた。自由だ。しかし皮肉なことに、自由になればなるほど、より多くの人々が彼の元に集まってくる。そしてシステムは最後のフックを提供する。新たな目標は三百億円。今度は一人で使う必要はない。
【第30話へ続く……】




