第28話 ー『十億円の使い道』
第28話 ー『十億円の使い道』
2026年5月1日(金)——午前8時0分。
恵比寿のマンション。
樹はいつもとは違う感覚で目を覚ました。不安でもなければ混乱でもない。静かな明晰さだった。昨夜、彼は何時間もソファに座り、自分がやってきたことと、やらなければならないことを考え続けた。そしてある時点で、彼は何かに気づいた。
一人で考える必要はないのだと。
樹はシャワーを浴び、服を着替えた。シンプルな白いシャツ、薄いグレーのジャケット、コットンのパンツ。そしてキッチンへ向かい、コーヒーを淹れた。テーブルの上には、スマホにシステムの通知が表示されている。
【QUEST 08 —— アクティブ】
【残り時間: 62:47:19】
【目標: 百億円】
樹はコーヒーを一口すすると、スマホの連絡先を開いた。冴の名前をタップした。
電話は二コールでつながった。
「如月さん。おはようございます。」冴の声は落ち着いていたが、その奥に気遣いの色があった。「何かありましたか?」
「久遠さん。……助けが必要なんです。」
電話の向こうで一瞬の沈黙があった。
「……承知しました。すぐに向かいます。」
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午前9時0分——青山、樹の新しいビル、三階ラウンジ。
樹はB&B Italiaのソファに座り、部屋のあちこちに置かれた花瓶でまだ咲き誇る生花に囲まれていた。正面では、冴がプロフェッショナルな姿勢で座り、膝の上にタブレットを置き、真剣な表情を浮かべている。
「つまり。」冴が言った。「三日も経たないうちに百億円を使わなければならないと。」
「はい。」
「そしてそれを投資や利益獲得のために使ってはいけないと。」
「はい。」
冴は鋭い目で樹を見つめた。「……何か考えはありますか?」
樹は首を振った。「いいえ。だからあなたを呼んだんです。」
冴は静かに息を吐いた。「……如月さん、私があなたのお金の使い道を決めることはできません。」
「でもアドバイスはくれますよね。」
冴はしばらく樹を見つめ、そしてタブレットを操作した。
「……いくつか選択肢があります。不動産。美術品コレクション。慈善事業。公共施設。しかしどれにも守るべきルールがあります。」
樹は頷いた。「分かっています。」
「不動産が最も安全な選択肢です。しかしあなたは既に四つの物件を持っています。これ以上増やせば、不必要な注目を集めるでしょう。」
「……注目は気にしません。」
冴は眉を上げた。「……本気でおっしゃっているのですか?」
「ええ。もう人が私についてどう思うかは気にしないことにしました。」
冴はしばらく沈黙し、そして小さく微笑んだ。「……それは良い変化ですね。」
「で、アドバイスは?」
冴はタブレットのリストを開いた。
「神田にいくつか古い物件があります。あなたが既にお持ちの建物の近くです。元倉庫、空き店舗、そして放置された歴史的建造物。それらを購入して改修すれば、何か意味のあるものを作り出せます。」
樹は注意深く聞いていた。
「……どういう意味ですか?」
冴は深い眼差しで樹を見つめた。「コミュニティスペースを作ることができます。図書館。公園。共有オフィス。小さなレストラン。お金を生まないけれど、他の人々に利益をもたらす公共施設です。」
樹はしばらく考えた。
「……それはいいアイデアですね。」
「実際に見てみますか?」
「はい。今すぐ。」
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午前10時30分——東京都千代田区神田。
冴は樹を神田へ連れて行った。古書店や伝統的なレストラン、そして旧東京の雰囲気を残す古い建物で知られる地区だ。
彼らは築年数で黒ずんだ赤レンガの壁を持つ古い建物の前で立ち止まった。窓のほとんどは壊れ、正面の木製の扉は腐食している。
「こちらは元繊維倉庫です。」冴が言った。「1960年建築。八年間空き家です。」
樹はその建物を見た。建築様式はクラシックで、入り口の上の彫刻が施され、古いながらもまだしっかりとした屋根を持っている。
「……値段は?」
「四億五千万円です。」
樹は頷いた。「買います。」
冴が瞬いた。「……如月さん、内部をご覧にならなくてよろしいのですか?」
「必要ありません。」
「……これで五度目ですよ、調査もせずに物件を買うのは。」
「ええ。後悔していません。」
冴は息を吐いたが、小さく微笑んだ。「……かしこまりました。記録しておきます。」
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午前11時30分——神田の二件目の物件。
彼らは二件目の建物へ歩いていった。通り角の古い店舗で、ガラスのショーウィンドウは割れ、看板は色褪せている。
「こちらは元書店です。」冴が言った。「1975年建築。五年間空き家です。」
「値段は?」
「二億八千万円です。」
「買います。」
「如月さん——」
「買います。」
冴は感嘆と困惑が入り混じった表情で樹を見つめた。「……状態についてお尋ねにならないのですか?」
「いいえ。あなたの判断を信じています。」
冴は沈黙した。そしてうつむき、口元の微笑みを隠した。
「……かしこまりました。記録しておきます。」
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午後0時30分——神田の三件目の物件。
三件目は古い集会所だった。何年も使われていない元コミュニティホールだ。広い空間で、天井が高く、裏手の小さな庭に面した大きな窓がある。
「こちらは元コミュニティホールです。」冴が言った。「1982年建築。三年間空き家です。」
「値段は?」
「三億二千万円です。」
「買います。」
冴はそれ以上尋ねなかった。ただタブレットに記録した。
「……三件の物件で合計十億五千万円です。」
樹は頷いた。「まだ八十九億五千万円残ってる。」
冴は樹を見つめた。「……本当に全て使い切るおつもりですか?」
「ええ。選択肢はありませんから。」
「……あなたには常に選択肢があります。」
樹は冴の方を向いた。目が合った。冴の視線には何かがあった。いつもとは違う優しさだ。
「……分かっています。」樹は静かに言った。「でも、私はこれをやることを選びました。」
冴は答えなかった。ただ頷き、歩き続けた。
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午後2時0分——神田の不動産会社の事務所。
樹と冴は不動産会社の事務所に座り、神田の三件の物件の書類に署名した。合計:十億五千万円。
不動産業者——高橋という男性——が信じられないといった表情で樹を見つめた。
「如月様……三時間足らずで三件の物件を購入なさいました。」
「はい。」
「……調査もせずに?」
「はい。」
高橋は長い息を吐いた。「……私はこの業界で二十年働いてきましたが、あなたのようなお客様にお会いしたのは初めてです。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
高橋は最後の書類に署名し、樹に手渡した。
「おめでとうございます、お客様。これらの物件は全てあなたのものです。」
樹はその書類を受け取り、折りたたんでバッグにしまった。
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午後3時0分——神田の街角。
彼らは街角に立ち、買ったばかりの三件の物件を見つめていた。古い建物たちは夕方の空の下で静かに立ち、再び命を吹き込まれるのを待っている。
「……これらをどうされるおつもりですか?」と冴が尋ねた。
樹はしばらく考えた。
「意味のあるものを作りたい。お金を稼ぐためじゃない。……与えるために。」
冴は深い眼差しで樹を見つめた。
「……あなたは本当に変わりましたね。」
樹は冴の方を向いた。「……変わりました?」
「ええ。かつてはただ逃げ出したいだけだった。今は何かを築こうとしている。」
樹は答えなかった。しかし心の中で、冴の言う通りだと分かっていた。
彼は変わった。
そしてその変化はシステムのせいではなかった。お金のせいでもなかった。それは彼の周りの人々——冴、莉々香、そして出会った全ての人々——のせいだった。
「……たぶん、ただ目標が必要だったんだ。」樹はようやく言った。「何か、戦うべきものが。」
冴は微笑んだ。優しく、心からの微笑みだ。
「……それは良い目標ですね。」
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午後4時0分——神田の小さな公園。
彼らは買ったばかりの物件の近くにある小さな公園のベンチに座った。夕方の風が吹き、木々と土の香りを運んでくる。
「久遠さん。」
「はい?」
「……助けてくれてありがとう。あなたなしではどうなっていたか分かりません。」
冴は優しい眼差しで樹を見つめた。
「……お礼には及びません。私がそうしたいと思ったからです。」
「どうしてですか?」
冴はしばらく沈黙した。そして、静かな声で言った。「……あなたは助ける価値のある人だからです。」
樹は答えなかった。ただベンチに座り、色が変わり始めた夕方の空を見つめた。
心の中に、説明できない感覚があった。一人じゃないという感覚だ。
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午後6時0分——青山へ戻る。
樹と冴は青山のビルに戻った。三階のラウンジで、彼らはソファに座り、樹が入れてくれたお茶を楽しんだ。
「業者にはもう連絡しました。」冴が言った。「来週から神田の作業を始めるそうです。」
「いいですね。」
「それと——」冴はタブレットを開いた。「——本日の総支出を計算しました。」
「いくらですか?」
「神田の物件:十億五千万円。管理費・登記費用:四千五百万円。合計:十億九千五百万円。」
樹は頷いた。「まだ八十九億五百万円残ってる。」
「ええ。残り時間は約……」冴はスマホの時計を見た。「……四十八時間です。」
樹は息を吐いた。「……もっと買わなきゃ。」
「他にどんな物件を?」
樹はしばらく考えた。「……神田駅近くに古い建物がありました。小さな元工場です。さっき歩いている時に見かけました。」
冴はタブレットに入力した。「……あの建物は知っています。価格は約六億五千万円です。」
「買います。」
「……如月さん。」
「はい?」
「本当に、このお金を全て使い切るおつもりですか?」
樹は冴を見つめた。「……選択肢はありません。」
「しかし、あなたには常に選択肢があります。いつでも止められます。」
樹は沈黙した。
彼はシステムのことを考えた。自分が成し遂げた全てのこと。自分が築いてきた全てのこと。
「……止めたくない。」彼はようやく言った。「どこまで行けるのか、見てみたいんです。」
冴は深い眼差しで樹を見つめた。
「……わかりました。私がお手伝いします。」
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午後8時0分——恵比寿のマンション。
樹は少し軽い気持ちでマンションに戻った。今日、彼は神田で三件の物件と、さらに一件追加で購入した。合計十七億四千五百万円。まだ八十二億五千万円を使わなければならない。
しかし初めて、彼は一人じゃないと感じた。
冴が彼のそばにいる。莉々香もいる。樹には自分を気にかけてくれる人々がいる。
そしてそれが、全てを少しだけ容易くしていた。
彼はソファに座り、天井を見上げて微笑んだ。
「……やれる。」
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【次話 第29話——『五百億円』】
クエスト08が完了し、樹は五百億円を受け取る。システムの残高は、ほとんど非現実的な数字まで跳ね上がる。しかし樹を驚かせたのはそれではなかった。システムは新機能「プライベート・ホールディング・フレームワーク」を開放し、彼の名義で新しい会社が誕生する。如月アセット・マネジメント株式会社。
【第29話へ続く……】




