第27話 ー『十億円では足りない』
第27話 ー『十億円では足りない』
2026年4月30日(木)——午前8時0分。
恵比寿のマンション。
樹は落ち着かない気分で目を覚ました。悪夢のせいではない。騒音のせいでもない。ただ、自分がずっと恵みだと思っていたシステムが、もしかしたら単なる贈り物ではないかもしれないと気づき始めたからだ。
彼はベッドに起き上がり、スマホの画面を見つめた。システムのアプリは昨夜からまだ開いたままで、増え続ける残高を表示している。
【現在の総資産: 百四十五億六千四百八十万円】
樹は無表情でその数字を見つめた。三週間で、彼の資産はほぼゼロから百四十五億円まで跳ね上がった。そしてシステムが止まると思うたびに、システムはより大きなクエストを投げかけてくる。
「……いつ終わるんだ?」
彼は自分に呟いた。
ウィンドウが彼の前に現れた。いつものように、予告もなく。
【ホストが質問をしました。】
【質問: 「いつ終わるんだ?」】
【回答: ホストが停止を要求しない限り、システムは継続します。】
樹は眉をひそめた。
「……何て言えばいいんだ?」
【ホストは「システムを停止してください」と発言することで、システムを終了させることができます。】
樹は沈黙した。
彼は全てを止めることができた。普通の人間に戻ることができた。莫大な富も、物件も、システムもなしで。退屈なサラリーマン生活に戻り、積み重なる請求書と嫌な上司と共に。
しかし……
彼は月見荘のことを考えた。青山のビルの屋上からの景色。莉々香が「あなたに会えて良かった」と微笑んだ顔。冴が「あなたを気にかけています」と優しく言った声。
樹はそれら全てを失いたくなかった。
「……止めない。」
【確認しました。システムは継続します。】
樹は息を吐いた。
しかし心の中に、無視できない不安があった。
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午前10時0分——青山、樹の新しいビル。
樹はまだ落ち着かない気持ちで青山のビルに到着した。三階へ上がり、B&B Italiaのソファに座り、大きなガラス窓から街の景色を眺めた。
スマホが震えた。莉々香からのメッセージだ。
「如月さん!どうしたの?メディアに載ってた写真、なんか元気なさそうだったけど!」
樹は小さく微笑んだ。莉々香はいつも彼のことを見抜く。
「大丈夫。ちょっと考えごとをしてただけ。」
「よかったら会いに行くよ!」
樹はしばらく考えた。
「……いいや、ありがとう。少し一人で考えたい。」
「わかった。でも話し相手が必要なら、いつでも呼んでね!」
樹はそのメッセージをしばらく見つめ、そしてスマホを閉じた。
彼はシステムのことを考えていた。止めることなくお金を与え続けるシステム。自分自身の人生に対するコントロールを失い始めていること。
「……俺に一体何が起きているんだ?」
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午後0時0分——二階音楽スタジオ。
樹はスタジオの中を歩き回り、指で荘厳なスタインウェイのピアノを撫でた。木の感触は冷たく、彼はその楽器が演奏されたらどんな音を出すだろうかと想像した。
彼はピアノを弾けなかった。どんな楽器も演奏できなかった。しかしシステムがお金を使えと言うから、六千八百万円のピアノを買った。
「……これに何の意味があるんだ?」
彼は自分に呟いた。
心の中で、彼は疑問を持ち始めていた。自分は本当にこれら全てを望んでいるのか?それともただシステムに流されているだけなのか?
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午後2時0分——一階ギャラリースペース。
樹はギャラリースペースの中央に立ち、完璧なギャラリー照明に囲まれていた。真っ白な壁が、アート作品が飾られるのを待っている。
数日前と同じ美術キュレーターが近づいてきた。
「如月様、数人のアーティストに連絡を取りました。彼らは皆、ここで展示することに非常に興味を示しています。」
樹は頷いた。「いいでしょう。」
「一つだけ……」キュレーターはためらった。「何人かのアーティストが、スペースの使用料について尋ねてきました。何と答えたらいいのか分からなくて。」
樹はしばらく考えた。「……無料で。」
キュレーターが瞬いた。「……すみません?」
「無料です。使用料はありません。彼らはただ作品を持ってきて展示すればいい。」
「……しかし、お客様、ここは数億円の機材を備えたギャラリースペースですよ——」
「構いません。この場所を使ってもらいたいんです。空っぽのままじゃ意味がない。」
キュレーターはしばらく沈黙し、そして微笑んだ。
「……あなたはお寛大な方ですね、如月様。」
樹は答えなかった。ただ目の前の空っぽの空間を見つめ、自分が築いてきたもの全てが本当に意味を持っているのかどうかを考えていた。
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午後4時0分——屋上。
樹は屋上に立ち、吹き抜ける午後の風を楽しんでいた。ここからは青山全体が見渡せる。ビル群、緑の木々、そして果てしない青い空。
スマホが震えた。冴からのメッセージだ。
「如月さん、アーティストにギャラリースペースを無料で提供なさったと聞きました。良い決断だと思います。」
樹は小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、久遠さん。」
「……しかし、今日は落ち着かない様子だとも聞きました。何かお悩みですか?」
樹はしばらく考えた。冴はいつも彼を見抜く。テキストメッセージでも。
「……未来のことを考えていました。次に何が起こるのかを。」
「未来は常に不確かです。しかし、あなたにはあなたを気にかける人々がいます。」
樹はそのメッセージをしばらく見つめた。
「……ありがとうございます、久遠さん。」
「お礼には及びません。私はここにいます。」
樹はスマホを閉じ、色が変わり始めた夕方の空を見上げた。
冴は彼を気にかけている。莉々香も気にかけている。
樹は彼女たちを失いたくなかった。
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午後6時0分——恵比寿のマンションへ帰宅。
樹は少し落ち着いた気持ちでマンションに戻った。簡単な夕食を作る。ご飯、味噌汁、焼き魚。そしてダイニングテーブルに座った。
外では空が暗くなり始め、街の灯りが点き始めている。
樹は静かに夕食を楽しんだ。システムもない。クエストもない。ただ心地よい静けさだけだ。
しかし心の中で、彼は知っていた。システムは戻ってくる。
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午後8時0分——リビングのソファ。
樹はソファに座り、数週間前に吉祥寺で買った小説を読んでいた。外では、東京の夜がクラクションと足音で賑わい始めている。
スマホが震えた。メッセージでもない。着信でもない。
システムからの通知だ。
樹は息を吐き、それを開いた。
【ホストの資産が一定水準に達しました。】
【次のフェーズに移行します。】
樹は眉をひそめた。「……次のフェーズ?」
【システムは常にホストの能力をテストします。前回のクエストは成功しましたが、ホストの潜在能力はまだ完全には発揮されていません。】
「……どういう意味だ?」
【新しいクエストが発生しました。】
ウィンドウが変わった。
【QUEST 08 —— 発生】
【100億円を72時間以内に使用してください。】
【リワード: 五百億円】
樹はその数字を見つめた。
百億円。
七十二時間以内に。
樹は沈黙した。
「……百億?」
【はい。百億円を72時間以内に使用してください。】
樹は答えなかった。
ただソファに座り、虚ろな表情でシステムのウィンドウを見つめた。
今まで、彼はいつもお金を使う方法を見つけられた。マンション。旅館。青山のビル。神田の建物。みなとみらいの複合施設。それら全てを簡単に、深く考えずに買った。
しかし百億円……
それは別次元の金額だった。
簡単に使い切れる金額ではない。ただ高級な物件や機材を買うだけの金額ではない。考えもせずに使い切れる金額ではない。
初めて、樹は何をすればいいのか分からなかった。
「……そんなにたくさん、何を買えばいいんだ?」
システムからの答えはなかった。
樹はソファに座り、天井を見つめ、今まで感じたことのない重圧を感じていた。
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午後9時0分——マンションのバルコニー。
樹はバルコニーに立ち、東京の夜空を見上げていた。遠くでビルの灯りがきらめき、その上では星々が一つまた一つと現れ始めている。
彼は自分が成し遂げた全てのことを考えた。自分が築いてきた全てのこと。出会った全ての人々。
しかし百億円……
樹は長い息を吐いた。
「……多すぎる。」
何を買えばいいのか分からなかった。どこから始めればいいのか分からなかった。どうやって三日間でそんな大金を使い切ればいいのか分からなかった。
スマホが震えた。莉々香からのメッセージだ。
「如月さん!新しいクエストが来たって聞いたよ!手伝えることがあったら言ってね!」
樹は小さく微笑んだが、首を振った。
「ありがとう、莉々香。でもこれは自分で考えなきゃ。」
「わかった……でも何かアイデアが欲しかったら、いつでも言ってね!」
樹はスマホを閉じ、暗い夜空を見上げた。
自分が何をすべきか分からなかった。
しかし一つだけ分かっていた。今回は、一人でできることではない。
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午後10時0分——マンションの室内。
樹はソファに座り、静けさに囲まれていた。テーブルの上では、スマホがまだ開いたシステムの通知を表示している。
【QUEST 08 —— アクティブ】
【残り時間: 71:59:47】
【目標: 百億円を使用すること】
【リワード: 五百億円】
樹はその数字を見つめ、今まで感じたことのない重圧を感じていた。
「……どうすればいいんだ?」
答えはなかった。
ただ刻々と減っていくタイマーだけが、画面の上で静かに時を刻み続けていた。
そして樹——かつてただ静かに暮らしたいだけの元サラリーマン——は今、自分の資産が想像を超えた規模に達したという現実と向き合わなければならなかった。
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【次話 第28話——『十億円の使い道』】
樹は何を買えばいいのか分からなかった。彼は冴と数人の専門アドバイザーを集めるが、それはビジネスを始めるためではない。本当に利益を生まない何かを買いたいのだ。冴は神田の古い物件をいくつか購入して修復することを提案する。樹は同意し、最大のプロジェクトを始める。
【第28話へ続く……】




