第26話 ー『元恋人』
第26話 ー『元恋人』
2026年4月29日(水)——午後5時0分。
恵比寿のマンション。
樹はクローゼットの前に立ち、いつもより慎重に服を選んでいた。自分を良く見せたいからではない。誰かに印象を与えたいからでもない。ただ今日は、過去の誰かと会うからだ。
水原綾香。
元彼女。
昨夜、綾香からメッセージが届いた。謝罪と後悔、そしてもう一度会いたいという願いが綴られた長文のメッセージだった。樹はそれを静かに読み、一言だけ返信した。「わかった。」
彼らは新宿サザンテラスで午後六時三十分に会うことにした。
樹は目の前の服を見た。今ならたくさんの選択肢がある。高級スーツ、シルクのシャツ、レザージャケット、エレガントなカジュアルウェア。表参道と銀座で買った全ての服だ。
しかし今日、彼は違う服を選んだ。
彼はクローゼットから長袖の白いシャツを取り出した。新品の高級シャツではない。東都リンクスで働いていた時に着ていた古いシャツだ。襟の部分は少し擦り切れ、白色も褪せ始めている。同じ黒いパンツ。折り目ももう薄れている。同じ黒い革靴。何度か磨いたが、やはり傷んでいる。
樹は鏡の前に立ち、何週間ぶりかに古い服を身につけた。
鏡の中には、昔の自分が映っていた。普通のサラリーマン。何も持っていない人間。簡単に貶められ、忘れ去られる人間。
「……もう俺はあの人間じゃない。」
彼は自分の姿にそう呟いた。
手首には、パテック・フィリップ・ノーチラス5711が静かに時を刻んでいる。唯一身につけている高価なものだ。ポケットには、数週間前に買ったばかりの最新のフラッグシップスマホ。以前使っていた安物のスマホではない。
樹は深く息を吸い込み、そしてマンションを出た。
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午後5時45分——恵比寿の地下駐車場。
樹は駐車場の隅に停めてあるロールス・ロイス・スペクターへ歩いていった。漆黒の高級車が駐車場の灯りの下で輝いている。その豪華さは、彼の質素な服装とは対照的だ。
彼はドアを開け、運転席に座る。柔らかな革が身体にフィットする。電動モーターが、心地よい静けさで始動した。
ダッシュボードのナビには、新宿サザンテラスへのルートが表示されている。
樹はアクセルを踏み、車はスムーズに駐車場を出ていった。
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午後6時15分——新宿へ向かう道。
ロールス・ロイスは、夕方のラッシュで混み始めた東京の街を走る。樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら窓の外を流れる街並みを見つめた。
車内は快適な静けさだ。エンジン音も振動もなく、プレミアムスピーカーから流れる静かなクラシック音楽だけが聞こえる。
樹は綾香のことを考えた。
彼は彼女に怒っていなかった。憎んでもいなかった。恋しくもなかった。ただ……何も感じなかった。綾香は彼の過去の一部だ。そして樹はその過去を既に手放していた。
彼はただ、全てを静かに終わらせたかった。
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午後6時30分——新宿サザンテラス。
樹はロールス・ロイスをサザンテラス近くの駐車場に停め、待ち合わせ場所へ歩いていった。周囲の灯りが点き始め、暗くなり始めた夕暮れの空の下に暖かな雰囲気を作り出している。
一つのベンチに、綾香が見えた。
彼女は樹が覚えているのと同じだった。長い黒髪、少し化粧をした美しい顔、そして隠し切れない落ち着かない表情。クリーム色のカジュアルワンピースを着て、手には小さなバッグをしっかりと握っている。
綾香は樹が近づくのを見た。
彼女の目が見開かれた。彼に会った驚きではなく、別の理由からだ。樹は彼女が知っている古い服を着ていた。擦り切れたシャツ。褪せたパンツ。傷んだ靴。それはかつての樹だった。彼女が裏切った樹だ。
しかし何かが違っていた。
手首の時計。樹は以前、高級な時計を身につけたことがなかった。そしてポケットには、一ヶ月分の家賃に相当する最新のフラッグシップスマホ。
綾香はその矛盾を処理できずにいた。
「樹……」
樹は彼女の前で立ち止まり、落ち着いた表情を見せた。「こんにちは、綾香。」
「……来てくれたんだね。」
「君がそう言ったから。」
綾香はうつむき、手が微かに震えていた。「……私……何から話せばいいのか分からない。」
「最初からでいいよ。」
綾香は顔を上げた。目が潤んでいる。
「……ごめんなさい、樹。本当にごめんなさい。あの時起こったこと全て。あなたにしたこと全て。……神崎のこと。」
樹は静かに聞いていた。
「私——」綾香は言葉を止め、唾を飲み込んだ。「私は馬鹿だった。神崎の方がいいと思った。彼が未来をくれると思った。でも彼は私を利用しただけだった。そして今……今はもう全てが壊れた。」
樹は答えなかった。ただ静かな目で綾香を見つめた。
「あなたが私を許してくれるとは思ってない。でも……あなたに伝えたかった。後悔してる。本当に後悔してる。」
綾香はうつむき、涙が頬を伝い始めた。
樹は静かに息を吐いた。
「綾香。」
「……うん?」
「君を憎んではいない。」
綾香は顔を上げた。その目に希望が浮かんだ。
「……本当に?」
「ああ。もう意味のない人間を憎んでも仕方ない。」
樹の言葉は優しかった。しかし綾香はその重みを感じた。意味のない人間。樹は怒っていなかった。ただ……無関心だった。
「私——」綾香は言葉を探した。「私、全部やり直せる。私——」
「綾香。」
樹は静かに首を振った。
「戻りたくない。」
綾香は沈黙した。涙がまだ頬を伝っている。
「……戻りたくないの?」
「ああ。もう前に進んだ。君も前に進むべきだ。」
綾香は唇を噛みしめた。「……他に誰かいるの?」
樹は答えなかった。
彼は冴を思い浮かべた。莉々香を思い浮かべた。心から彼を気にかけてくれる二人の女性。彼を裏切らなかった二人の女性。
「……それは関係ない。」彼はようやく言った。「大事なのは、君と俺はもう終わったってことだ。」
綾香はうつむき、声を殺して泣いた。
樹は立ち上がり、帰ろうとした。
「……幸せになれよ、綾香。」
彼は振り返り、歩き去った。
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午後7時0分——駐車場、ロールス・ロイスの前。
綾香は遠くから樹を追いかけた。彼が駐車場へ歩いていくのを見た。そして高級な黒い車のドアを開けるのを見た。その車の価格は、東京の高級マンション一軒分に相当するかもしれない。
ロールス・ロイス・スペクター。
綾香は固まった。
彼女は樹を見た。二人が一緒にいた時と同じ古びた服を着た樹が、六千万円の高級車に座っている。その対比はあまりにも鮮烈だった。あまりにも奇妙だった。
樹がエンジンをかけると、車は音もなく滑り去った。
綾香は駐車場に立ち、樹の後ろ姿を涙で潤んだ目で見送った。
彼女は何かに気づいた。これまでのどの瞬間よりも、深く心を打ち砕く何かに。
樹はもう別人だった。
そして彼女は、彼の新しい人生の一部になるチャンスを永遠に失ってしまった。
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午後7時30分——ロールス・ロイスの中。
樹は新宿の街を走り、窓の外できらめく街灯を見つめていた。車内は快適な静けさだ。
悲しみはなかった。安堵もなかった。ただ……静けさだけだ。
ようやく、彼は本当に過去を手放した。
ポケットでスマホが震えた。彼は取り出した。画面には冴からのメッセージが表示されている。
「如月さん、お会いになったのですか?」
樹は小さく微笑み、返信した。
「はい。終わりました。大丈夫です。」
冴からの返信がすぐに来た。
「良かったです。心配していました。」
「心配しなくて大丈夫です。もう前に進みましたから。」
「……それを聞いて安心しました。」
樹はそのメッセージをしばらく見つめ、そしてスマホを閉じた。
外では、東京の灯りが輝き続けている。何百万もの命が、それぞれのリズムで動いている。
そしてかつてその一人に過ぎなかった樹は、今や自分自身の道を走っていた。
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【次話 第27話——『十億円では足りない』】
樹はシステムが止まらないことに気づき始める。クエストはどんどん大きくなり、資産は増え続ける。彼はシステムにいつ終わるのか尋ねる。そしてシステムは新たなクエストで答える。七十二時間以内に百億円を使えと。初めて、樹は何をすればいいのか分からなくなる。
【第27話へ続く……】




