第23話 ー『二人の距離』
第23話 ー『二人の距離』
2026年4月26日(日)——午前9時0分。
箱根湯本駅。
小田原からの在来線が、ブレーキの音と共に到着した。冴は規則正しく効率的な動きで降り立つ。いつも通りだ。クリーム色のブレザーに、グレーのペンシルスカート、ローヒール。長い黒髪は後ろできちんと結われ、手には今日のスケジュールが入ったタブレット。
彼女は今日、箱根に来る必要はなかった。月見荘の改修は順調に進んでおり、業者からは定期的に進捗報告が来ている。
しかし冴は来たかった。
樹に会いたかった。彼と話したかった。あの奇妙な青年のそばにいる時に感じる静けさを、もう一度味わいたかった。
「……ただの定期確認だ。」
自分にそう呟いたが、それが嘘だと分かっていた。
冴はバス停へ歩き、他の観光客と共に待った。遠くには、晴れた空の下で箱根の山々が緑にそびえている。朝の空気はまだ爽やかで、温泉からかすかに漂う硫黄の香りがする。
バスが到着した。冴は乗り込み、窓際の席に座り、流れゆく景色に身を任せた。
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午前10時0分——月見荘近くのバス停。
冴は前回と同じバス停で降りた。木々の間を登っていく舗装された細道は、相変わらず静かで人気がない。彼女はその道を歩き、東京では決して味わえない静けさを楽しんだ。
月見荘の門前に着くと、彼女は予想外のものを見た。
一台のプロダクション用バンが門の近くに停まっている。数人のスタッフがカメラ機材と反射板を抱えて庭に集まっている。その群衆の中央で、明るい茶色の髪の若い女性がスタッフと話し、楽しげな声で笑っていた。
冴は眉をひそめた。
「……何かあったのか?」
彼女は近づいた。樹がその女性の隣に立ち、いつものように両手をジャケットのポケットに入れ、くつろいだ表情を浮かべている。
「ああ、久遠さん。」樹が冴を見つけ、微笑んだ。「おはようございます。」
「おはようございます、如月さん。」冴は周囲の人々を見渡した。「……これは?」
「橘莉々香さんです。モデルをしているんです。今日、箱根で撮影があって……」樹は肩をすくめた。「……急遽、追加のロケ地が必要になったので、月見荘を使ってもらうことにしました。」
冴はその女性——莉々香の方を見た。彼女は美しく、明るい笑顔と輝くような目をしている。エレガントな白いワンピースを着ており、手には大きなサングラスを頭の上に乗せている。
「……橘莉々香?」冴はその名前を繰り返した。「あの有名なモデル?」
莉々香は微笑み、軽やかな足取りで近づいてきた。「はい!お会いできて嬉しいです……?」
「久遠冴です。アステリア・ホールディングスのエグゼクティブ・セクレタリーをしております。」
「ああ!バリキャリの女性ですね!」莉々香は小さく笑った。「アステリア・ホールディングスは聞いたことがあります。大手不動産会社ですよね?」
「ええ。」冴は無表情で莉々香を見つめたが、その目は素早く動いていた。莉々香のワンピースから、彼女が樹の近くに立つ様子、あまりにも明るい笑顔まで。「……如月さんとお知り合いなんですか?」
「はい!表参道でカメラマンの群衆から助けてもらったんです。それに、スタジオの隣のビルを買ったのも如月さんなんです!」莉々香は輝くような目で樹を見つめた。「すごい人ですよね?」
冴は胸に奇妙な感覚を覚えた。認めたくない感覚だ。
「……ええ。すごい人です。」
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午前11時0分——月見荘の中、大広間。
冴は畳の上に座り、裏庭に面して座っていた。目の前には樹が入れてくれた緑茶がある。その隣で、莉々香はよりくつろいだ姿勢で座っている。脚を組み、体を前に傾けて、熱心に話している。
樹はその向かいに座り、いつものようにくつろいだ表情を浮かべている。
「ということは、久遠さんが月見荘の書類を扱ってくれたんですね?」と莉々香が尋ねた。
「ええ。法務面と管理面を担当しました。」
「ああ、じゃあ如月さんがこの場所を買うのを手伝ったんですね!」
「……私は仕事をしただけです。」
莉々香は微笑んだ。「でも、すごくしっかりやってくれたんでしょ?如月さん、いつもあなたのことを褒めてるよ。」
冴は樹を一瞥した。「……私を褒めてるんですか?」
樹は肩をすくめた。「だって久遠さんは優秀だから。」
冴は頬に温かさを感じた。うつむき、その表情を隠すためにお茶を一口すする。
莉々香は全てを鋭い目で観察していた。
「……久遠さん。」
「はい?」
「あなた、如月さんのことをすごく気にかけてるんですね。」
その質問は突然だった。冴は莉々香の方を見て、その言葉の裏にある意味を探った。
「……私はただのプロフェッショナルとして手伝っているだけです。」
「ああ、そう。」莉々香は微笑んだ。完全に無邪気ではない笑顔だ。「私も同じだよ。ただ彼に助けられて感謝してるだけ。」
冴は莉々香を見つめた。その目には何かがあった。冴がよく知っている何かが。
莉々香も樹を好きなのだ。
冴は声に出して言わなかった。しかし、それを知っていた。
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午後0時30分——温泉の湯舟のほとり。
お茶の後、莉々香は撮影を続けるためにスタッフの元へ戻った。冴と樹は温泉の湯舟のほとりに立ち、静かな午後を楽しんでいた。
「……如月さん。」
「はい?」
「橘莉々香さんとは……かなり親しいんですね。」
樹は頷いた。「ええ。数日前に会いました。楽しい人です。」
「……彼女が誰かご存知なんですか?有名なセレブですよ?」
「知ってます。でも彼女もただの普通の人間です。仕事が違うだけです。」
冴は樹を見つめた。「……あなたはいつも人をそう見るんですね。」
「どういう意味ですか?」
「普通の人間として。肩書きに関係なく。」
樹はしばらく考えた。「……仕事が違うだけで、人を違うように扱うことに何の意味があるんですか?彼らはみんな人間です。」
冴は答えなかった。しかし心の中で、温かいものを感じていた。
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午後1時30分——月見荘の中、食堂。
莉々香が昼食のために合流した。地元のケータリングが用意したシンプルな弁当だ。彼らは低いテーブルに座り、軽い会話を楽しみながら食事をした。
「如月さん、来週東京に来るよね!」莉々香が言った。「青山で面白いアート展があるんだ!」
「……アート展?」
「うん!よかったらVIPチケット取れるよ。」
樹は頷いた。「いいね。行くよ。」
莉々香は満面の笑みを浮かべた。「やった!」
冴はそのやり取りを無表情で見ていた。心の中で、無視できない何かが動いていた。
「……私も行きます。」冴が突然言った。
莉々香と樹が冴の方を見た。
「……久遠さんも?」莉々香が眉を上げて尋ねた。
「ええ。私もアートには興味がありますから。」
莉々香は微笑んだ。さっきと同じ笑顔だ。「……いいね。多いほど楽しいね。」
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午後3時0分——裏庭。
冴と莉々香は裏庭に立っていた。緑の木々と春の花々の間に。樹は本館の中で業者と話している。
二人はしばらく沈黙して立っていた。そして莉々香が口を開いた。
「……久遠さん。」
「はい?」
「あなた、如月さんのこと好きでしょ。」
その質問は率直だった。冴は莉々香の方を見て、少し驚いた。
「……どういう意味ですか?」
莉々香は微笑んだ。無邪気な笑顔ではない。何かを秘めた笑顔だ。「分かるよ。彼を見る目。彼の話し方。彼に会うために箱根まで来るところ。」
冴は答えなかった。
「……私も彼が好きなの。」莉々香は正直に言った。「今まで出会った誰とも違う。ステータスなんて気にしない。何も求めてこない。ただ……彼は彼なんだ。」
冴は莉々香を見つめた。その目には正直さがあった。否定できない正直さだ。
「……そうですか。」
「怒らないの?」
冴は首を振った。「いいえ。私には怒る権利はありません。」
莉々香は深い眼差しで冴を見つめた。「……でも、あなたも彼が好きなんでしょ。」
「……ええ。」
その言葉は静かにこぼれた。冴はもう否定できなかった。
彼らは沈黙の中で立っていた。同じ男性を好きになった二人の女性。
「……どうする?」莉々香がようやく尋ねた。
冴はしばらく考えた。「……何もする必要はありません。彼はまだ誰も選んでいません。それに、彼は私たちの気持ちに気づいてすらいないかもしれません。」
莉々香は苦笑した。「……本当に気づいてないよね。」
「ええ。気づいていません。」
彼らは一緒に笑った。温かく、理解に満ちた小さな笑い声だ。
「……私は諦めないよ。」莉々香が言った。
「私もです。」
彼らは見つめ合い、そして初めて、健康的な競争心が二人の間に生まれた。
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午後5時0分——月見荘の門の前。
日が西に傾き、空はオレンジとピンクに染まり始めていた。
莉々香はスタッフと共に去っていた。冴は帰る準備をしていた。門の前に立ち、樹がその隣にいる。
「来てくれてありがとうございます、久遠さん。」
「私も来られて良かったです。」
彼らはしばらく沈黙して立っていた。
「……如月さん。」
「はい?」
「……あなたを好きな女性が二人います。」
樹は瞬いた。「……え?」
冴は微笑んだ。優しく、神秘的な笑みだ。「……今は分からなくてもいいです。」
彼女は振り返り、木々の間の細い道を歩き去った。
樹は門の前に立ち、困惑した表情で冴の後ろ姿を見送った。
「……二人の女性?」
彼には理解できなかった。
しかし心の中で、何か温かいものがあった。
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【次話 第24話——『日本一の道楽』】
樹は新たなクエストを受け取る。利益目的のない二十億円を使えというものだ。彼は横浜·みなとみらいの廃墟となった物件を、個人的なくつろぎの場として購入することを選ぶ。しかしその物件には大きなビジネスの歴史があり、彼の行動は大手企業の注目を集め始める。
【第24話へ続く……】




