第22話 ー 『五十億円』
第22話 ー 『五十億円』
2026年4月25日(土)——午前8時30分。
恵比寿のマンション。
樹は奇妙な感覚で目を覚ました。悪夢のせいではない。騒音のせいでもない。ただ、昨夜自分の資産残高が、ほとんど非現実的な数字まで跳ね上がったことに気づいたからだ。
彼はベッドに起き上がり、枕元からスマホを手に取り、システムのアプリを開いた。クエスト終了後、昨夜神秘的にスマホに現れたアプリだ。
画面にはこう表示されていた。
【現在の総資産: 六十五億六千四百八十万円】
【流動資産: 五十二億円】
【不動産資産: 十三億六千四百八十万円】
樹はその数字を数秒間見つめた。
「……六十五億か。」
彼はその言葉を平坦な声で発した。興奮もない。パニックもない。ただ静かな驚きだけだ。
彼の資産は今や、東都リンクスで二年間働いて稼いだ額の何倍にもなっている。
「……これで何をすればいいんだ?」
スマホが震えた。メッセージではなく、システムからの通知だ。
【新機能がアンロックされました: 資産管理モジュール】
【ホストの資産を体系的に管理するためのツールが利用可能になりました。】
樹は眉をひそめた。その通知をタップすると、アプリが新しい画面を表示した。グラフ、物件リスト、取引明細を含むダッシュボードだ。
· 物件1:恵比寿のマンション — 四千二百万円
· 物件2:月見荘(箱根) — 七千八百万円
· 物件3:青山ビル — 四億八千万円
· 物件4:神田ビル — 二億二千万円
· 不動産合計:八億二千万円
· 投資合計(改修):五億四千四百八十万円(月見荘+青山+神田)
· 流動資産合計:五十二億円
樹は全てを無表情で読んだ。
「……四つの物件を持ってるのか。」
彼は自分がどれだけのものを持っているのか、これまで気づいていなかった。恵比寿のマンション。箱根の旅館。青山のビル。神田の古いビル。全てが彼のものだ。
「……こんなの頼んだ覚えはない。」
しかしシステムは彼が何を望むかなど気にしない。
【資産管理は、ホストの財務状況を最適化するために設計されています。】
【現在の資産構成は非効率的です。最適化を推奨します。】
樹は息を吐いた。「……最適化なんてしたくない。」
【その選択はホストに委ねられています。ただし、資産が増加するにつれて、管理の複雑性も増加します。】
「……どういう意味だ?」
【現在のホストの資産構造では、税金、保険、メンテナンス、および法的義務に関する管理が不十分です。専門家の助言を求めることを推奨します。】
樹はそれを読み、そして長い息を吐いた。
「……会計士が必要だな。」
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午前10時0分——青山、樹の新しいビル。
樹はロールス・ロイスで青山のビルに到着した。外では、何か普段と違うものを見かけた。大きなカメラを持った男が通りの向かいに立ち、彼のビルを撮影している。
樹は眉をひそめた。車を降り、その男に近づいた。
「……すみません。何かご用でしょうか?」
男は振り返り、驚いた様子で言った。「あっ!すみません、東京ビジネスジャーナルの者です。このビルを新たに購入された投資家がいらっしゃると聞きまして。インタビューをお願いできますか?」
樹は首を振った。「いいえ、結構です。」
「しかし——」
「インタビューには興味がありません。」
男は落胆した様子だったが、頷いた。「……かしこまりました。お邪魔しました。」
樹は自分のビルへ歩き、ドアを開けて中に入った。中では業者がまだ作業中だ。ドリルとハンマーの音が空っぽの空間に響いている。
「如月様!」現場監督の鈴木という男が近づいてきた。「ちょっと面白いことがありまして。何社かのメディアからこのプロジェクトについて問い合わせが来始めています。どうやら、設置している機材のせいで注目されているようです。」
樹は眉をひそめた。「機材?」
「はい。Auralisのモニター、スタインウェイのピアノ、Bowers & Wilkinsのオーディオシステム……クリエイティブ業界の人たちがこの場所の噂をし始めています。何人かのミュージシャンやプロデューサーから、スタジオを借りられないかという電話が既に来ています。」
樹は沈黙した。
「……スタジオを貸すつもりはない。」
「しかし、彼らは高額を提示していますよ。中には有名な方々もいます。」
樹はしばらく考えた。「……スタジオはまだ準備中だと伝えてくれ。準備が整ったら、どうするか決める。」
鈴木は頷いた。「かしこまりました。」
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午前11時30分——三階ラウンジ。
樹は新しく設置されたB&B Italiaのソファに座り、大きなガラス窓から青山の景色を眺めていた。昨日注文した生花が既に届いている。鮮やかな色の大きな花束が、各部屋のエレガントな花瓶に飾られている。
花の香りが空気に広がり、静かで温かな雰囲気を醸し出している。
樹はスマホを手に取り、今朝莉々香から届いたメッセージを開いた。
「如月さん!メディアが君のビルのことを話題にし始めてるよ!有名になったね!」
樹は小さく微笑み、返信した。
「有名になりたくないんだ。」
莉々香からの返信がすぐに来た。
「もう遅いよ!何億円もする機材を揃えた青山の謎のビルオーナーって、みんな気になってるんだから!」
樹は息を吐いた。
「……ただ静かな場所にしたかっただけなのに。」
「分かってる。でも、世の中は思い通りにならないこともあるんだよ。」
樹はそのメッセージを見つめた。莉々香の言う通りだ。いつも思い通りになるとは限らない。静かに生きようとすればするほど、注目を集めてしまう。
「……複雑だな。」
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午後1時0分——一階ギャラリースペース。
樹は一階を歩き、改修の進捗を確認した。可動壁パネルは既に設置され、ギャラリー照明システムのテストが始まっている。灯りが柔らかく点灯し、温かくドラマチックな雰囲気で部屋を照らし出している。
スマホが震えた。今度は冴からの着信だ。
樹は電話に出た。
「もしもし、久遠さん。」
「如月さん。こんにちは。」
電話の向こうの冴の声は、いつも通りプロフェッショナルだが、その奥に温かみが感じられた。
「こんにちは。何かありましたか?」
「青山のプロジェクトについて伺いました。メディアが話題にし始めていますね。」
「……もう知ってる。今朝、ビルの前に記者が来てた。」
冴は一瞬沈黙した。「……如月さん、お気をつけください。メディアが関心を持ち始めると、いろいろなことが起こります。人々はあなたの経歴を調べ始めるでしょう。」
樹は息を吐いた。「……面白い経歴なんてないよ。解雇されただけの元サラリーマンだ。」
「しかし、説明のつかないほどの財産をお持ちです。それが人々の興味を引くのです。」
樹は答えなかった。
「……よろしければ、私がお手伝いできます。メディア対応を管理できる人脈がいくつかあります。」
「……そんなことをしてくれるのか?」
「ええ。なぜなら——」冴は一瞬言葉を止めた。「——あなたを気にかけているからです。」
樹は胸に温かいものを感じた。
「……ありがとうございます、久遠さん。考えてみます。」
「はい。お困りの際はご連絡ください。」
電話が切れた。
樹はしばらくスマホを見つめ、そしてポケットにしまった。
冴は彼を気にかけている。
そして莉々香も気にかけている。
樹はそのことについてどう感じればいいのか分からなかった。
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午後3時0分——二階音楽スタジオ。
樹はスタジオの中央に立ち、設置され始めた機材に囲まれていた。スタインウェイ・モデルD-274のグランドピアノが部屋の隅に荘厳に立っている。その木目は照明の下で輝いている。Auralis Reference Seriesのモニターが壁に取り付けられ、完璧な音響を生み出す準備が整っている。
田中という若い技術者が近づいてきた。
「如月様、主要な機材は全て設置完了しました。あとはキャリブレーションと最終調整のみです。」
「……どのくらいかかる?」
「三日ほどです。その後、このスタジオは使用可能になります。」
樹は頷いた。「いいだろう。」
田中は一瞬ためらった。「如月様……お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。」
「あなたは世界最高の機材を揃えたスタジオを建設なさっています。しかし……何のために?あなたはミュージシャンなのですか?」
樹は首を振った。「違う。」
「では……」
「ただ、この場所が存在してほしいんだ。それを必要とする人たちのために。」
田中は困惑しながらも感嘆の表情で樹を見つめた。
「……あなたは面白い方ですね、如月様。」
樹はかすかに微笑んだ。「よく言われます。」
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午後4時30分——屋上。
樹は屋上に立ち、吹き抜ける午後の風を楽しんでいた。ここからは青山全体が見渡せる。ビル群、緑の木々、そして果てしない青い空。
スマホが震えた。システムからの通知だ。
【資産管理レポート: 週間サマリー】
樹はそれを開いた。
· 総資産:六十五億六千四百八十万円
· 今週の増加額:+六十二億円
· 物件数:4件
· 車両:1台+1台準備中(レクサスLM)
· 進行中のプロジェクト:3件(月見荘、青山、神田)
· 今週の支出:十五億円
樹はその数字を見つめた。
一週間で十五億円を使った。そしてその資産はまだ増え続けている。
「……分からない。」
それは心からの気持ちだった。樹はなぜ全てがこうなったのか理解できなかった。ただシステムの指示に従い、システムが求めるものを買い、そしてなぜか資産は増え続けている。
「……分からなくてもいいのかもしれない。」
彼はスマホをポケットにしまい、色が変わり始めた夕方の空を見上げた。
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午後5時30分——ビルの中。
樹は屋上から降り、変わり始めた各フロアを歩いて回った。三階では、生花がエレガントな花瓶でまだ咲き誇っている。二階では、スタインウェイのピアノが奏でられるのを待っている。一階では、ギャラリースペースが完璧な照明の下で輝き始めている。
樹はメインルームの中央に立ち、自分が築いたもの全てを見渡した。
「これが俺のものか。」
その言葉は柔らかくこぼれた。
誇りは感じなかった。満足感も感じなかった。ただ……静けさだけがあった。
まるで、この世界に自分の居場所を見つけたかのように。
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【次話 第23話——『二人の距離』】
樹は月見荘の改修状況を確認するため箱根を訪れる。冴がそこにいて、莉々香もたまたま撮影で訪れている。初めて、冴と莉々香が顔を合わせる。二人とも樹のことを知っていることに気づく——そしてそれぞれが、自分だけではないことに気づき始める。
【第23話へ続く……】




