第19話 ー『二人目のヒロイン』
第19話 ー『二人目のヒロイン』
2026年4月22日(水)——午前8時0分。
恵比寿のマンション。
樹が朝食を終えたばかりの時だった。ご飯と味噌汁、自分で焼いた簡単な焼き魚。テーブルの上でスマホが震えた。
莉々香からのメッセージだ。
「如月さん!おはようございます!」
樹は小さく微笑み、返信した。
「おはようございます、橘さん。」
莉々香からの返信がすぐに来た。興奮した絵文字がたくさんついている。
「いきなりでごめんね、今日マネージャーが遅れてて。仕事で何ヶ所か回らなきゃいけないんだけど、カメラマンに追われるかもしれないから一人じゃ行けなくて。あの……一緒に来てくれない?」
樹はそのメッセージを二度読んだ。莉々香は有名人だ。いつもチームに囲まれている。そんな彼女が、街を歩くだけの簡単なことでも助けを必要としている。
樹は返信を打った。
「いいよ。今日は特に予定もないし。」
莉々香からの返信は一瞬で来た。
「本当?!ありがとう、如月さん!住所送るね!」
樹は微笑み、寝室へ向かって着替えた。白いカジュアルシャツにオープンカラー、薄いグレーのジャケット、茶色のコットンパンツ、そして履き慣れたカジュアルシューズ。手首にはパテック・フィリップが静かに時を刻む。
「……面白い一日になりそうだ。」
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午前9時30分——恵比寿の地下駐車場。
樹はロールス・ロイス・スペクターに座り、電動モーターを静かに始動させた。ダッシュボードのナビには、莉々香が送ってきた住所が表示されている。青山のカフェだ。
車はスムーズに駐車場を出て、混み始めた朝の交通に合流した。樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら窓の外の街並みを楽しんだ。
車内では、プレミアムスピーカーから静かなジャズが流れている。エアコンの冷たい風が顔を撫でる。
「……そろそろ慣れてきたな。」
彼は自分にそう呟いて、小さく笑った。
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午前10時0分——青山のカフェ。
樹はロールス・ロイスをカフェの前に停めた。木製のテーブルが外に置かれた小さな店で、大きな木の日陰になっている。その一つのテーブルに、莉々香が既に座っていた。クリーム色のカジュアルワンピースに、つば広の帽子、そして顔の半分近くを覆う大きなサングラス。
彼女は樹を見つけて手を振った。
「如月さん!こっち!」
樹は近づき、莉々香の向かいに座った。「おはようございます、橘さん。」
「来てくれてありがとう!本当にどうしたらいいか分からなかったの。」莉々香はサングラスを少し下げ、茶色い瞳を覗かせた。「マネージャーが渋滞で遅れてて。来週の撮影用の服を選びに何軒か回らなきゃいけなくて。それに一人じゃ行けないの。だって——」彼女は周囲を示した。「——分かるでしょ?」
樹は周りを見渡した。歩道の数人が彼らの方を見ている。莉々香のせいか、カフェの前に停めてある高級車のせいか、あるいはその両方のせいかもしれない。
「……分かった。一緒に行くよ。」
莉々香は満面の笑顔になった。「ありがとう、如月さん!」
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午前10時30分——表参道のブティック。
彼らは表参道を歩いていた。莉々香が樹の隣を軽やかな足取りで歩く。帽子とサングラスで正体は十分に隠れているが、それでも何人かは振り返った。エレガントなワンピースのせいか、あるいはその隣をくつろいだ様子で歩く樹のせいかもしれない。
「ここだよ。」莉々香が大きなショーウィンドウのあるブティックを指さした。「エディトリアル撮影用のドレスを何着か選ばなきゃ。」
彼らは店内に入った。店員がプロフェッショナルな笑顔で迎えたが、その目はすぐに莉々香に釘付けになった。サングラスで顔が隠れていても、その顔に見覚えがあったのだ。
「いらっしゃいませ、橘さん!何点かご用意してあります。」
莉々香はサングラスを外し、親しみやすい笑顔を見せた。「ありがとう。見せてもらえる?」
店員が頷き、彼らを店の奥のプライベートルームへ案内した。莉々香はドレスを選び始めた。布地を手に取り、細部を確認し、時々樹の意見を聞く。
「如月さん、どっちがいいと思う?」
莉々香が二着のドレスを手にしていた。一着はシンプルなシルエットの濃いブルー。もう一着はウエストにプリーツの入った赤。
「……ブルー。」樹は言った。「こっちの方がエレガントだ。」
莉々香は微笑んだ。「私もそう思う。」
彼女は赤いドレスを戻し、青い方を選んだ。樹は知らなかった。自分の意見が莉々香にとってどれほど大切だったのかを。彼女が知りたかったのは、カメラマンやクライアントが何を好むかではなく、樹が何を好むかだったのだ。
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午前11時30分——ブティックの外。
彼らはいくつかの買い物袋を持ってブティックを出た。莉々香は樹の隣を歩き、時折後ろを振り返ってカメラマンがついていないか確認した。
「他にはどこに行くの?」と樹が尋ねた。
「この近くに靴屋があるの。それから……アクセサリーの店にも行きたいな。」莉々香は樹を見た。「一緒にいて、退屈してない?」
樹は首を振った。「いいや。楽しいよ。」
莉々香は微笑んだ。「本当?」
「ああ。モデルと青山を歩くなんて初めてだ。」
莉々香は小さく笑った。「私も初めてだよ。自分のことを知らない男と街を歩くなんて。」
彼らは見つめ合い、そして同時に微笑んだ。
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午後0時30分——表参道の靴屋。
靴屋の中で、莉々香は何足かを試していた。樹は隅の椅子に座り、静かに見守っていた。莉々香は次々と靴を履き替える。ヒール、フラット、ウェッジ、ブーツ。
「如月さん、見てこれ。」
莉々香が彼の前に立った。シルバーのハイヒールで、ヒール部分にクリスタルの装飾が施されている。さっき選んだ青いドレスをまだ着ていて、その組み合わせは彼女を映画スターのように見せていた。
「……綺麗だよ。」樹は正直に言った。
莉々香はほんの少し赤くなった。しかし樹にはそれが見えた。
「……本当にそう思う?」
「ああ。その靴はドレスに合ってる。」
莉々香はしばらく樹を見つめた。そして微笑んだ。いつもより柔らかな微笑みだ。
「……これ買う。」
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午後1時30分——青山の小さなレストラン。
彼らは昨日と同じ小さなレストランで昼食をとった。木製のテーブル、レンガの壁、静かなジャズ。莉々香は帽子とサングラスを外し、茶色い髪を自由に下ろした。
「今日は楽しかった。」莉々香はサラダを口に運びながら言った。「チームなしでこんな風に街を歩くなんて、めったにないよ。」
「どうして?」
「だっていつも誰かがついてくるんだ。カメラマン。ファン。写真を撮りたい人。自分のままでいられない。」
樹は静かに聞いていた。
「……でも君となら、自分でいられる。」莉々香は樹を見た。「君は私を有名人扱いしない。普通の人間として見てくれる。」
樹は肩をすくめた。「だって君は普通の人間だよ。ただ仕事が違うだけだ。」
莉々香は微笑んだ。「大抵の人はそう思わないよ。」
「俺は大抵の人間じゃない。」
莉々香は笑った。心からの、軽やかで、温かな笑い声だ。
「……うん、違うね。」
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午後3時0分——青山のビルの屋上。
昼食の後、樹は莉々香を新しいビルの屋上に連れて行った。彼らは屋上の端に立ち、吹き抜ける午後の風を楽しんだ。ここからは青山の街並みが広がっている。ビル群、木々、そして果てしない青い空。
「……素敵な眺めだね。」莉々香が静かに言った。
「ああ。だからこのビルを買ったんだ。」
莉々香は樹の方を向いた。「……本当に眺めだけで買ったの?」
「それと、この場所に可能性を感じたから。」
「どんな可能性?」
樹はしばらく考えた。「……クリエイティブな人のためのスペース。仕事をしたり、集まったり、何かを生み出したりできる場所。正確には分からない。でも、ここは何か良いものになれる気がするんだ。」
莉々香は読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。
「……君は変わった人だね、如月さん。」
「よく言われるよ。」
莉々香は笑った。さっきと同じ笑い声。樹の心を温かくする笑い声だ。
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午後4時30分——ルミエール・アーツのスタジオ前。
彼らは樹のロールス・ロイスでスタジオに戻った。莉々香は車を降り、歩道に立ち、開いた窓越しに樹を見つめた。
「……今日はありがとう、如月さん。本当に楽しかった。」
樹は微笑んだ。「僕もだよ。」
莉々香は一瞬ためらった。そして言った。「……如月さん。」
「うん?」
「一つ聞いてもいい?」
「どうぞ。」
「……彼女とかいるの?」
樹はその質問に少し驚いた。首を振った。「いないよ。誰も。」
莉々香は安心したように微笑んだ。一瞬だけ。そしてすぐに明るい笑顔で隠した。
「……それは良かった。」
樹がその意味を尋ねる前に、莉々香は手を振ってスタジオのドアへ向かった。
「またね、如月さん!」
樹は莉々香の後ろ姿を見送り、そして小さく微笑んだ。窓を閉め、ロールス・ロイスは青山を後にした。
スタジオの中で、莉々香はドアにもたれかかり、目を閉じて微笑んだ。
彼女は樹のことを好きになり始めていた。
お金のせいじゃない。車のせいじゃない。ビルのせいでもない。
ただ樹が、彼女を普通の人間として扱ってくれたからだ。
そしてそれは何よりも価値のあることだった。
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【次話 第20話——『五億円の使い道』】
樹は青山のビルをクリエイティブスペースに変え始める。事業計画もなく、ただ正しいと感じたからだ。莉々香はその場所を見て気に入る。樹は「好きに使って」と言う。そして莉々香はその場所を自分自身でいられる安全な場所として捉え始める。
【第20話へ続く……】




