第18話 ー『偶然の隣人』
第18話 ー『偶然の隣人』
2026年4月21日(火)——午前9時0分。
恵比寿のマンション。
樹は軽やかな気分で目を覚ました。今日は不動産会社との約束もない。署名すべき契約書もない。ただ、窓の外に広がる青い空と、晴れた火曜日だけがある。
彼はシャワーを浴び、服を着替えた。白のカジュアルシャツにオープンカラー、薄いグレーのジャケット、茶色のコットンパンツ、カジュアルシューズ。手首には、パテック・フィリップが静かに時を刻んでいる。
キッチンでコーヒーを淹れ、簡単な朝食をとる。タマゴサンドと小さなサラダ。食べながらスマホを開き、昨夜莉々香から届いたメッセージを確認した。
「如月さん!明日の午前中、青山で撮影があるの!もしかしたら会えるかも?」
樹は小さく微笑み、返信した。
「いいね。今から青山に行くよ。」
莉々香からの返信がすぐに来た。
「やった!探すからね!」
樹はスマホを閉じ、朝食を食べ終え、地下駐車場へ向かった。漆黒のロールス・ロイス・スペクターは、薄暗い駐車場の灯りに輝きながら、同じ場所に停まっていた。
ドアを開け、ドライバーズシートに座る。柔らかな革が身体にフィットする。電動モーターが、心地よい静けさで始動する。
「……青山。」
ダッシュボードのナビがルートを表示する。樹はアクセルを踏み、車はスムーズに駐車場を出ていった。
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午前9時30分——青山へ向かう道。
車は混み始めた東京の街を走る。車内は快適な静けさだ。エンジン音も振動もなく、プレミアムスピーカーから流れる静かなジャズだけが聞こえる。
樹は片手でハンドルを握り、ゆったりと運転しながら、窓の外を流れる街並みを楽しむ。住宅地からエレガントなショッピングエリアへと景色が変わっていく。
彼は青山エリアに入り、新しいビルの近くに駐車場を探した。メインストリートに何台分か空きがあり、樹はロールス・ロイスを他のより簡素な車たちの間に丁寧に停めた。
その高級な黒い車は、すぐに数人の歩行者の注目を集めた。スーツ姿の男性が一瞬立ち止まり、その車を好奇心を持って見つめる。若い女性がスマホを取り出して写真を撮ろうとする。
樹はそれらには気づかなかった。車を降り、ドアをロックし、新しいビルへ向かった。
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午前10時0分——青山のビルの前。
樹は買ったばかりの三階建てのビルの前に立っていた。朝の日差しの下で、ガラス張りの壁は輝き、青い空と周囲の木々を映し出している。
鍵を取り出し、正面のドアを開けて中に入る。メインルームはまだ何もない。濃い色の木の床、真っ白な壁、通りに面した大きな窓。太陽の光がたっぷりと差し込み、部屋全体を暖かく照らしている。
樹はゆっくりと歩き、広い空間を楽しんだ。家具もない。装飾もない。ただ可能性に満ちた空っぽの空間だけがある。
「……ここをどうしようか。」
彼は二階へ上がり、そして三階へ。三階には屋上へ続くドアがある。樹はそれを開け、外へ出た。
屋上は広々と開けていた。眼下には青山の街並みが広がる。遠くのビル群、その下の緑の木々、そして果てしない青い空。
「……いい場所だ。」
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午前10時30分——屋上。
樹は屋上に立ち、吹き抜ける朝の風を楽しんでいた。遠くに、ルミエール・アーツのスタジオの屋根が見える。莉々香との会話で覚えた、エレガントな看板のある建物だ。
スマホが震えた。莉々香からのメッセージだ。
「如月さん!撮影終わったよ!どこにいるの?」
樹は返信した。
「新しいビルの屋上だよ。青山の通り、交差点の近く。」
数分後、彼は下に人影を見た。莉々香が歩道を小走りに駆けてくる。茶色い髪が風に揺れている。彼女はまだ撮影用の白いワンピースを着ており、走るには不向きなハイヒールを履いている。
樹はそれを見て微笑んだ。屋上から降り、正面のドアへ向かい、莉々香がビルの前に息を切らして到着したのと同時にドアを開けた。
「……如月さん!このビル——本当に買ったの?!」
樹は頷いた。「うん。」
莉々香は目を見開いてビルを見つめた。「でもこれ——スタジオの隣のビルじゃん!楽屋の窓から見えるよ!」
「……知ってる。」
「なんで——なんで隣のビルを買ったのに教えてくれなかったの?!」
「ごめん。決めたのは昨日なんだ。」
莉々香は、信じられないのと嬉しいのが入り混じった表情で樹を見つめた。そして笑った。雰囲気を暖かくする、軽やかな笑い声だ。
「……如月さんって、本当に変な人だね。」
樹は微笑んだ。「よく言われるよ。」
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午前11時0分——ビルの中。
莉々香は感嘆の表情でビルの中を歩き回った。広いメインルーム、美しい木の床、通りに面した大きな窓。
「……すごいよ、如月さん。なんで買ったの?」
「分からない。」樹は正直に答えた。「ただ、この場所には可能性があると感じたんだ。」
「どんな可能性?」
樹はしばらく考えた。「……クリエイティブスペースとか。スタジオとか。くつろぎの場とか。まだ決めてない。」
莉々香は立ち止まり、読み解くのが難しい表情で樹を見つめた。
「……ほぼ五億円のビルを、どうするかも分からずに買ったの?」
「うん。」
莉々香は首を振ったが、微笑んでいた。「……本当に変わってるね、如月さん。大抵の人は細かく計画を立てるのに。でも君は……ただ感覚に従うんだね。」
樹は肩をすくめた。「何でも計画する必要があるのか?人生はいつも計画通りにはいかない。」
莉々香はしばらく樹を見つめた。
「……君の考え方、好きだよ。」
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午後0時0分——ビルの外。
彼らはビルを出て、樹が後ろのドアに鍵をかけた。莉々香は正面に停めてあるロールス・ロイス・スペクターを見て、眉を上げて樹の方を向いた。
「……あれ、君の車?」
樹は自分の車を見た。「うん。」
莉々香は近づき、その車をじっくりと観察した。「……ロールス・ロイス・スペクターだよね。最新モデル。値段は約六千万円くらい?」
樹は頷いた。「そんなところだ。」
「……本当に予想外の人だね、如月さん。」莉々香は微笑んだ。「ロールス・ロイスに乗ったことないんだ。」
樹は莉々香を見て、助手席のドアを開けた。
「……乗ってみる?」
莉々香は瞬いた。「……本当に?」
「うん。どこかで昼食を食べよう。」
莉々香は大きく笑顔になった。「乗りたい!」
彼女は助手席に座り、柔らかな革が身体にフィットするのを感じた。車内は快適な静けさと、ほのかなウッドの香りに包まれている。
「……すごい。」莉々香は周りを見回しながら言った。「まるで動く応接間みたいだ。」
樹は運転席に座り、エンジンをかけ、車は音もなく滑り出した。
「どこに行くの?」と莉々香が尋ねた。
「この近くに小さなレストランがある。美味しいんだ。」
莉々香は輝くような目で樹を見つめた。
「……本当に変わってるね、如月さん。」
樹は答えなかった。ただ小さく微笑み、車を走らせ続けた。
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午後0時30分——青山の小さなレストラン。
そのレストランは小さくて居心地が良かった。木製のテーブル、露出したレンガの壁、スピーカーから流れる静かなジャズ。彼らは窓際の席に座り、昼の日差しを楽しんだ。
莉々香はサラダとパスタを注文し、樹はカレーライスを注文した。彼らはゆったりと食事をし、時折ささいなことを話した。
「如月さん、君は一体何をしている人なの?」莉々香はパスタを口に運びながら尋ねた。
樹はしばらく考えた。「……元サラリーマンだよ。今は……無職。」
莉々香は眉を上げた。「無職?でもあんなにお金があるんでしょ?」
「うん。……ちょっと変わった方法で手に入れたんだ。」
「変わった方法?」
樹はかすかに微笑んだ。「説明するのは難しいんだ。」
莉々香は無理に聞こうとはしなかった。ただ頷き、食事を続けた。
「……分かったよ。」彼女はようやく言った。「誰にでも秘密はあるものね。」
樹は感謝の気持ちを込めて莉々香を見た。「ありがとう。」
「何が?」
「無理に聞こうとしなかったこと。」
莉々香は微笑んだ。「私も、説明したくないことを無理に説明させられるのは嫌いなんだ。」
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午後1時30分——レストランの前。
彼らはレストランの前に立ち、楽しい昼食を終えた。莉々香はスマホで時刻を確認した。
「スタジオに戻らなきゃ。マネージャーとの打ち合わせがあるんだ。」
樹は頷いた。「送っていくよ。」
彼らはロールス・ロイスへ歩き、樹が莉々香のためにドアを開けた。莉々香は小さく微笑みながら車に乗り込んだ。
スタジオへ戻る道中、二人はあまり話さなかった。ただ心地よい沈黙を楽しんでいた。
車がルミエール・アーツのスタジオの前に止まると、莉々香は樹の方を向いた。
「……如月さん。」
「うん?」
「今日はありがとう。すごく楽しかった。」
樹は微笑んだ。「僕もだよ。」
莉々香はドアを開けたが、降りる前に立ち止まった。
「……また会いたいな。」
「いつでも。」
莉々香は明るく微笑み、車を降りてスタジオへと歩いていった。入り口で振り返り、樹に向かって手を振った。
樹も手を振り返し、莉々香が中に入るのを見届けてから車を走らせた。
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午後2時0分——スタジオ内。
莉々香は弾むような足取りで楽屋に入った。マネージャーの裕子が、眉を上げて彼女を見た。
「……すごく嬉しそうだね。」
莉々香は満面の笑みを浮かべた。「如月さんとランチしてきたの。」
裕子は眉をひそめた。「……昨日の如月って?」
「うん!彼、なんとスタジオの隣のビルを買ったんだよ!交差点のあの空きビル!」
裕子は驚いた。「何?あのビルを買ったの?」
「うん!何に使うかまだ決まってないって言ってたよ。ただ可能性を感じたから買ったんだって。」
裕子は真剣な表情で莉々香を見た。「……莉々香、気をつけたほうがいい。五億円のビルを計画もなく買う男なんて……普通じゃない。」
「分かってる。でも彼は普通の人じゃない。」莉々香は微笑んだ。「それが面白いんだ。」
裕子はため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。
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【次話 第19話——『二人目のヒロイン』】
莉々香は再び樹に会う口実を探し始める。マネージャーが遅れたため、簡単な用事に付き合ってほしいと樹に頼む。樹は特に予定もなく承諾する。一日を通して、莉々香はカメラの前では決して見せない自分の一面を樹に見せる。そして樹は彼女を有名人ではなく、普通の人間として見るようになる。
【第19話へ続く……】




