第61話 絵画鑑賞
巨大な祝祭ケーキは、数多の生徒・一般客によって、文字通り跡形もなく完食された。
最後に残った一切れのスポンジを、調理部長が涙を流しながら口に運び、広場には万雷の拍手が巻き起こった。カトレアさんが示した勇気ある一歩は、ノルディアス家への偏見を、見事に払拭してもらえた。
「・・・・・・本当に、全部食べてもらえたね、エマ」
空になった巨大な台座を見上げ、僕はそっと息を吐いた。
「ええ。ミトの力が、正しく受け入れられた証拠よ。・・・・・・ほら、ミト、まだそんな顔をしないで。たしかに、ノルディアスに対する恐怖心を抱いている人たちは、まだまだいる。でも、それは無知なだけよ。誰が何と言おうと、今この広場に溢れている笑顔は本物なんだから」
エマは僕の手を力強く握りしめた。彼女の手の温もりは、僕の心に灯った不安の火を優しく消してくれるようだった。
「そうだね。・・・・・・夜までは、まだ少し時間がある。もう少しだけ、エマと一緒にこの景色を見ていたいんだ」
僕たちはすでに後夜祭の準備が始まった広場を後にし、学院のさらに奥、古風なレンガ造りの校舎が並ぶ魔導美術科のエリアへと足を向けた。
校舎の中で行われている魔導美術科の展示は、静謐な美しさに満ちていた。
通路の壁には、描かれた川が実際にせせらぎ、花々が風もないのに揺れる「生きた絵画」が並んでいる。昨日の騒々しい薬学科や、リサの暴走した演算室とは違い、ここには芸術家たちの純粋な魔力と情熱が、静かな調律の下に閉じ込められていた。
「綺麗・・・・・・あっちの絵、精霊が本当に羽ばたいているわ」
エマが指差したのは、大広間に飾られた一柱の巨大な精霊を描いた絵だった。その額縁の下には、『古の森の守護精霊』と題されている。
それは、キャンバスという二次元の限界を超え、半ば透明な状態で、絵画の表面に立体的に浮かび上がっている。触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、しかし神秘的な輝きを放つ精霊の姿に、僕たちはしばし言葉を失って見惚れていた。
しかし、その静寂が突如として破られた。
バリバリッ、何か硬いものが砕けるような、不吉な音が静かな回廊に響き渡った。
「・・・・・・っ! ミト、伏せて!」
エマの鋭い声と同時に、目の前の巨大な絵画が激しく震動し始めた。
キャンバスの表面が、まるで沸騰した水面のように波打ち、描かれていた守護精霊の姿が、不気味な紫色に染まっていく。
「何が起きてるの・・・・・・!? 制御術式が暴走してるわ!」
叫んだのは、展示を管理していた美術科の女子生徒だった。
どうやら、術式か何かの故障みたいだ。
ひときわ大きな咆哮が起こる。絵画の中から、美しき守護者であるはずの精霊が、四肢を歪な怪物へと変質させながら、現実空間へと這い出してきた。
「グルゥゥゥ・・・・・・ッ!!」
実体化した精霊は、魔力のインクを滴らせながら、周囲にいた見学客たちを襲おうと鋭い鉤爪を振り上げた。
「逃げて、皆さん!」
エマが瞬時に剣を抜き、精霊の突進を真っ向から受け止めた。
ガキンッ!っ、と高い金属音が響き、魔力の衝撃波が回廊を駆け抜ける。
「ミト、早く! この精霊、凄まじい魔力よ・・・・・・描き手の情熱と暴走したマナが混ざり合って、とんでもないことになっている!」
「分かってる。エマ、少しだけ、下がってて」
僕は一歩、前へ出た。
まずは解析からだ。クレアやリサほどではないが、それでも、僕の中にはそこそこ優秀な解析業の人たちの経験記憶が眠っている。
「――構造解析。媒介は魔導インク、動力源は環境マナの過剰摂取・・・・・・よし、これなら答えは簡単だ」
襲いかかってくる精霊の鉤爪。 僕はそれを避けることさえせず、ただ右手を静かに差し出した。
「黄金の収束――再定義」
僕の指先から放たれたのは、細く、しかし太陽よりも輝かしい金色の糸。
その糸は、暴走する精霊の体に触れた瞬間、不規則に暴れていた紫色の魔力を瞬時に絡め取り、強制的にその構成数式を書き換え始めた。
精霊の咆哮が、悲鳴から安らかな吐息へと変わっていく。
実体化していた巨大な体躯が、僕の手のひらへと吸い込まれるように収束し、再び二次元のキャンバスへと、戻っていく。
それはわずか数瞬の出来事だった。
回廊に静寂が戻ったとき、壁の額縁には、先ほどよりも一層鮮やかで、より深い輝きを湛えた『古の森の守護精霊』が、静かに鎮座していた。暴走の痕跡は微塵もなく、むしろ僕と触れたによって、より進化を遂げているようにさえ見えた。
「・・・・・・嘘。あの暴走を、一瞬で・・・・・・?」
美術科の生徒たちが、呆然とした表情で僕を見つめている。
「・・・・・・ミト。なんかあなた、また一段と化け物じみてきたわね」
剣を鞘に納め、エマが苦笑いしながら歩み寄ってきた。
「褒め言葉として受け取っておくよ。・・・・・・でも、不思議なんだ。以前はあんなに苦しかった吸い込むという行為が、今は・・・・・・まるで呼吸をするのと同じくらい、自然に感じられるんだ」
「それは、それだけ成長したってことよ。・・・・・・でも、気をつけてね。大きすぎる器は、時として自分自身さえも飲み込んでしまうかもしれないんだから」
エマの言葉には、どこか切実な響きがあった。
彼女は僕の成長を誰よりも喜び、そして誰よりも、僕を「人間」として扱ってくれた。
僕は自分の両手を見つめた。
光はすでに消えているが、その奥底には、今しがた封印した精霊のエネルギーが、穏やかな波となって蓄積されている。
毒も、芸術も、生命も、情報も。
僕の中の器は、もはやこの世界のあらゆる事象を、分け隔て無く処理し始めていた。
「・・・・・・ありがとう、ミト様! 本当に助かりました!」
美術科の生徒たちが駆け寄ってきて、口々にお礼を述べる。
かつて僕は「ゴミ箱」と呼ばれていたが、いまでは救世主のように慕われて、みんなに囲まれている。
偏見が、確かに薄れている。そのことを否応なくこの二日間で実感した。
学院の時計塔が、夕刻を告げる鐘を鳴らした。そろそろ、商会の方に戻った方がいいかもしれない。
「エマ、そろそろ一旦引き上げようか?」
「ええ。それじゃ、レッツゴー!」
僕はエマとしっかりと手をつないで、魔導美術科の建物を後にする。




