第49話 1日目、最初の一歩
コン、コン、コン――。
王都の朝を告げる鐘の音と共に、僕たちはノルディアス商会の扉を力強く押し開けた。
磨き上げられた木のカウンター、壁一面に並んだ琥珀色の薬瓶。窓から差し込む朝日は、昨日までの毒々しい予感を打ち消すように、店内を柔らかな黄金色に染めている。
「さあ……いよいよだね」
僕は店主である父様の隣に立ち、期待に胸を膨らませて外を見た。昨日の怪文書の件もあり、ギルド連合の刺客が押し寄せてくるかもしれない、あるいはお客さんが殺到するかもしれない・・・・・・そんな想像をしていた。
一時間経過。
二時間経過。
……外を通り過ぎる馬車の音と、遠くで聞こえる市場の喧騒だけが、やけに虚しく響いている。
店に入ってくる客は、ゼロ。たまに足を止める通行人も、「ノルディアス」という看板を見るなり、何やら不吉なものを見たかのように足早に立ち去ってしまう。
「・・・・・・あの、父様。誰も来ないですね」
「ああ。・・・・・・まあ、そう簡単にはいかないか」
「チラシ、だいぶ配ったんですけれどね・・・・・・」
父様は苦笑いしながら、手持ち無沙汰にカウンターを拭き続けている。エマも店の前で騎士の正装に身を包んで仁王立ちしていたが、あまりの暇さに少し肩を落としていた。
「どうしてかしら。こんなに良い薬が揃っているのに。・・・・・・やっぱり、私の毒味を店頭で実演したほうがいい?」
「シエラさん、それは逆効果ですって・・・・・・」
絶望的な沈黙が流れかけたその時、奥の事務机で書類を整理していたクレアが、事も無げに口を開いた。
「安心なさい。最初なんて、こんなものよ」
「えっ、クレアは焦っていないの?」
僕が尋ねると、クレアは手元のボードを指し示して、図解を始めた。
「いい?ミト。商売における新規顧客の獲得には、認知と信頼の二つが、主に必要よ。今の私たちは『認知』こそされているけれど、それはノルディアスという、マイナスのイメージによるもの。もちろん、ロザリア殿下の尽力もあって、ノルディアスの名誉はかなり回復してきている。とはいえ、やはり長年の考え方を、人はそう簡単には変えられない。ぶっちゃけ、人々は私たちの薬が効くかどうかより、『呪われていないか』を疑っているのでしょうね」
「じゃあ、どうすればいいのよ、クレア」
エマが焦れったそうに尋ねる。
「広告。といっても、単なる宣伝ビラを配るだけじゃ駄目。成功体験が必要よね・・・・・・シエラ、例のサンプルの準備は?」
「バッチリよ!」
シエラは、棚からいくつもの小瓶を取り出す。
クレアは、エマの方を見て言う。
「エマ、あなたは午後から騎士団の知人にこれらの『お試しサンプル』を配ってきなさい。体力を使う騎士にとって、ミトの作った強壮薬はこれ以上ない宣伝になるはずよ・・・・・・そしてミト。あなたは、いつ客が来てもいいように、ここで待機しておきなさい」
クレアの指令に、僕たちは「なるほど」と頷き合った。商売は、ただ店を開ければいいというものじゃない。知ってもらい、信頼されることが大切。確かに、その通りだ。
昼下がり、太陽が天頂を過ぎた頃。
カラン、と。控えめなドアベルの音が店内に響いた。
全員の視線が一斉に入り口に集中する。
そこに立っていたのは、身なりの整わない、けれど清潔な服を着た一人の若い男だった。その腕には、ぐったりとした小さな女の子を抱えている。
「あ・・・・・・あの・・・・・・ここ、薬を売ってくれるって、本当ですか・・・・・・?」
男の声は震えていた。その瞳には、深い疲労と、何かに縋るような必死さが混ざり合っている。
「いらっしゃいませ。はい、ノルディアス商会です。どうなさいましたか?」
父様が優しく声をかける。男は、藁にも縋る思いでカウンターへ歩み寄った。
「娘が一週間前から熱が引かなくて・・・・・・薬師ギルドの店に行ったら、高価な魔石の粉末が必要だって言われて、金貨十枚も要求されたんです。私のような職人には、そんな大金・・・・・・でも、『安くて効く薬がある』っていうこのチラシを見て・・・・・・」
見ると、彼の手にはクレアが配ったチラシが握りしめられていた。
「診せてください。僕が、原因を突き止めます」
僕はカウンターから出て、男が抱える女の子の傍に寄った。
女の子の顔は赤く火照り、呼吸は浅い。僕はそっと、彼女の手首に触れた。
――解析開始
僕の指先から、微かな黄金のマナが女の子の体内へと流れ込む。
それは彼女の体内の情報を読み取り、僕の脳内へとフィードバックさせる。
【症例解析:原因特定】
病名:微細魔力汚染による肺炎。通称:煤煙熱。
原因:古い工房で発生した、劣悪な魔石の燃焼殻による吸引汚染。
現状:肺胞に粘着性の魔毒が蓄積。通常の解熱剤では除去不能。
「・・・・・・分かりました。お父さん、大丈夫ですよ。これは単なる風邪じゃなくて、工房の煙に含まれる魔石の毒が原因です。僕の薬なら毒そのものを消せます」
「本当・・・・・・本当ですか・・・・・・っ!」
僕はすぐにシエラに目配せをした。
「シエラさん、お願いします」
「任せて! 黄金の月影草の抽出液と、水属性の触媒を・・・・・・配合比率は、子供用に三倍希釈・・・・・・三十秒で調合するわ!」
シエラが鮮やかな手つきで薬を調合する。僕はそれを小瓶に受け取ると、自ら一口だけ含んだ。
・・・・・・よし、中和完了。刺激もない。味は・・・・・・ほんのりベリー風味だ
「毒味、完了しました。副作用はありません。・・・・・・さあ、これを一口ずつ飲ませてあげてください」
男が震える手で、女の子の口元に瓶を運ぶ。
数秒後。
女の子の荒かった呼吸が、目に見えて穏やかになっていった。顔の赤みが引き、彼女はゆっくりと目を開けた。
「・・・・・・パパ・・・・・・?」
「ああ・・・・・・ああ、ミーナ! よかった、本当によかった・・・・・・っ!」
男は娘を強く抱きしめ、人目も憚らず涙を流した。
その光景を見ていると、こちらまで嬉しくなってきた。
「・・・・・・これ、お代です。足りないかもしれませんが、今の私に払える精一杯です」
男が差し出したのは、銀貨数枚だった。ギルドが要求した金貨十枚に比べれば、百分の一以下の金額だ。
「銀貨一枚で十分です。残りの銀貨で、おいしいスープでも作ってあげてください・・・・・・お大事に」
父様が笑顔で銀貨を受け取ると、男は何度も、何度も頭を下げながら店を後にした。
店内に、沈黙が流れる。
けれど、今度は冷たい沈黙ではない。ストーブが灯ったような、芯からじわじわと温かくなるような静寂。
「・・・・・・ねえ、ミト。今の、見た?」
エマが、少し鼻を啜りながら言った。
「あんなに感謝されるなんて・・・・・・私たち、本当に人を救ったのね」
「・・・・・・ふん。利益率としてはパッとしないけれど・・・・・・マーケティング上の初弾としては、満点ね」
クレアはそう言って背を向けたが、その耳たぶが少しだけ赤くなっているのを僕は見逃さなかった。シエラも「私の調合は、やはり完璧だわ!」とはしゃぎながら、どこか誇らしげだ。
僕は、カウンターに置かれたたった一枚の銀貨を見つめた。
それは、毒霧の谷から持ってきたどんな貴重な古代金貨よりも、重く、輝いて見えた。
「・・・・・・うん。僕、この仕事が好きになれそうだよ」
思わず息を漏らす僕。
夕暮れ時。
あの親子から話を聞いたのか、それとも噂を聞きつけたのか、店には二人目、三人目のお客様がやってきた。
ノルディアス商会、最初の一歩。
黄金の輝きと共に、人々の心に希望という名の薬を処方し始めた記念すべき一日となったようだ。




