第32話 不安に思うことはないよ
ロザリア邸を辞した僕たちの頭上には、燃えるような夕焼けが広がっていた。
森を抜ける風は少しずつ冷たさを増し、秋の深まりを感じさせる。数歩前を歩くクレアは、ロザリアが「お土産よ」といって渡された、よく分からない古文書の断片を鑑定することに夢中だ。そうすることによって、僕とエマに、二人きりの時間を進呈するように少し距離を置いて歩いていた。
エマの歩調はどこか重い。彼女の視線は、ずっと自分のブーツの先を追っている。
先ほどロザリアに向けた激しい憤り——それは僕を想ってのことだと分かっているけれど、彼女の心にはまだ、僕が再びあのような惨めな境遇に戻ることへの根源的な恐怖が居座っているようだった。
「・・・・・・ねえ、ミト」
エマが立ち止まり、僕の服の袖を弱々しく引いた。
「やっぱり、危険すぎるわよ。王族の内紛に関わるなんて・・・・・・いくらどんな能力でも、魔毒と共に吸収しているとしても・・・・・・ミトが100パーセント安全とは限らない」
僕は立ち止まり、エマの正面に立った。彼女の不安を溶かすように、努めて穏やかな微笑みを向ける。
「大丈夫だよ、エマ・・・・・・心配してくれてありがとう。でもさ、考えてみたけれど実は、今の僕はこの王国で誰よりも一番安全な場所にいると言ってもいいんだよ」
「どういうこと?」
「うん。まず第一に、いま直面している問題の暗殺集団――新月団は、毒専門の暗殺集団なんだろう? だとしたら、僕にとって敵ではない。彼らがどれほどの猛毒を調合していようが、十年に渡って毎日ひたすら魔毒を飲まされ続けてきた僕に通用するはずがない。そこは自信を持っていいんじゃないかな?」
「うん、それは確かにまあ、そうね」
「第二に、新月団を背後から操っている『新王国創世派』とて、たとえ毒以外の方法を用いたとしても、僕を消すことは不可能だ。想像してみて。もし僕が今、この世から消えたらどうなる? 聖女リリアニアが浄化したフリをして、僕が処理している膨大な魔毒は、行き場を失ってあふれ出す。そのことは、この前、僕をゴミ処理場に追放した際に、痛いほど分かっているだろう?」
エマはハッとしたように目を見開いた。
「・・・・・・だから、彼らは僕を殺せない。精々、動けないように拘束するか、地下に押し込めることしかできない。でも、今の僕には君という最強の騎士がついている。そうでしょ?」
「・・・・・・それはそうだけど。でも、またあなたを拘束して、一生奴隷みたいに使い潰そうとする可能性はあるわ。それだけは、絶対に嫌」
エマの瞳に再び強い拒絶の火が灯る。僕は彼女の手を優しく握った。
「分かっているよ。だからこそ、僕は後手に回るつもりはない。自信があるって言ったのはね、実はもう一つ理由があるんだ」
僕は周囲に誰もいないことを確認し、声を落とした。
「知っての通り、魔毒は、単なるエネルギーの澱じゃない。それを行使した人間の執念や、隠しておきたかった記憶も混じっている。十年以上、王宮の要人たちが排出した膨大な魔毒を一人で処理し続けてきた。その過程で、断片的な記憶も一緒に吸収している。まるでバラバラになった古い書物のページを拾い集めるような感覚だけどそれを繋ぎ合わせていくと、少しずつ、今回の王宮に渦巻く陰謀の全貌が、ぼんやりとだけれど見えてきたんだ」
「それで・・・・・・どうなっているの?」
「もうちょっと精度を上げないといけないけれど・・・・・・新王国創世派は、王宮内で結構な規模になっている・・・・・・いまが、内乱を防ぐ最後のチャンスかもしれない」
エマは、僕の手を力を込めて握る。彼女の顔に逡巡の色が広がる。だが、しばしの時間が過ぎた後、ようやく少しだけ晴れやかな表情が戻ってくる。
エマは僕の目を真っ直ぐに見据え、釘を刺すように言った。
「・・・・・・分かったわ、ミト。でもね、これだけは約束して。絶対に危ない橋は渡らないこと。どんな些細なことでも、必ず私に相談して。一人で抱え込んで、また昔みたいに自分を犠牲にするのは、絶対に許さないんだから」
「うん。もちろんだよ、エマ。それにもう今は昔じゃない。あのときと違って、僕には驚くべき力がある」
僕たちは再び歩き出して、王都の明かりが見える丘の頂に立った。
「用心するに越したことはないからね。学院に戻ったら、解析学科のリサさんはもちろんだけど・・・・・・魔導薬学科のシエラさんにも相談してみるよ。彼女なら、新月団が使う毒の成分とかについても詳しいかもかもしれないし」
「うん、そうね。正直、シエラに近づくのは別の意味で心配だけど・・・・・・毒対策としては、確かに彼女以上の適任はいないわね」
エマはやれやれと肩をすくめた。
これから僕たちが挑むのは、王国を腐らせようとしている、巨大な毒だ。
「さあ、帰ろう、ミト。明日からは本格的に動くわよ・・・・・・晩ご飯、何が食べたい?」
「そうだね・・・・・・かくて美味しいスープがいいな」
僕たちは笑い合いながら、夜の帳が降りた街へと足を踏み入れた。
背負った宿命は重いけれど、繋いだ手の温もりは、強く僕の心を支えてくれている。




