第18話 戦い終わって
僕はエマの肩を抱き寄せ、演習場を後にした。
演習場に響き渡っていた怒号も、肉体を打つ衝撃音も、今は遠い記憶の彼方へと消えていた。
学院の喧騒を離れた王都の裏通り。夕闇が石畳を紫に染め、家々の窓からは夕食の準備を知らせる温かな灯りが漏れ始めている。
僕とエマは、肩が触れ合うほどの距離でゆっくりと歩いていた。
少し前までの激闘が嘘のように、空気は穏やかだ。けれど、僕の隣を歩くエマの横顔は、演習場を出た時からどこか険しいままだった。
「……ミト」
不意に、エマが僕の名を呼んだ。立ち止まった彼女の唇は、不満げにギュッと結ばれている。
「……はい」
「あのね、今日みたいな無茶は、もう二度としないで。わかってる?」
エマは僕の正面に回り込み、僕の胸元を指先でツンと突いた。騎士としての凛々しさはどこへやら、今は心配でたまらないといった様子の、少しだけお怒りの表情だ。
「いくらミトが強くなったからって、三十人以上を相手にするなんて・・・・・・。もし、誰かが卑怯な魔導具でも使っていたら?もし、背後から不意打ちを受けていたら?私の心臓、あの一瞬で一生分くらい縮まったんだから!」
彼女の碧い瞳には、怒りよりも深い不安が滲んでいた。僕が「ゴミ箱」として蔑まれていた頃、彼女はいつも僕の前に立って、飛んでくる石や罵声を跳ね返してくれていた。だからこそ、僕を心配する気持ちも人一倍強いのだろう。そのことは、よく分かっていた。
「ごめん、エマ。心配をかけて。……でも、どうしても自分の力で、君の隣に立つ資格があることを証明したかったんだ」
僕が素直に謝ると、エマは拍子抜けしたように大きなため息をついた。
「もう・・・・・・ミトはいつもそう。昔から、一度決めると頑固なんだから・・・・・・でも、ちゃんと私の言うことを聞いてくれる?」
「もちろん。これからは、もっと慎重に行動するよ。約束する」
僕がそう答えると、ようやく彼女の表情が和らいだ。エマは再び僕の隣に並び、今度は僕の腕に自分の腕をぎゅっと絡ませてきた。
「・・・・・・ま、いいわ。素直なところはミトの良いところだものね」
少し歩くと、エマは独り言のようにポツリと漏らした。
「・・・・・・でもね。今日のミト、本当にかっこよかったわ」
「え?」
聞き返すと、彼女は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「だ、だから! あんなに大勢の男子を一瞬で薙ぎ倒しちゃうなんて、まるで物語の英雄みたいだったってことよ!あいつらの鼻を明かしてくれた時、私、正直ちょっとスカッとしちゃったんだから」
彼女の繋いだ手に、さらに力がこもる。
「……それにね、ミト。ありがとう」
「感謝されるようなことじゃないよ」
「いいえ、そうじゃないの。……私、実はずっとうんざりしていたのよ。スプレンディアスの名声や、ただ見た目だけを理由に言い寄ってくる男子たちに」
エマの声には、心の底からの疲労感が混じっていた。
王立学院の中でも屈指の美貌と実力を持つ彼女は、常に羨望と好奇の視線に晒されていたのだろう。断っても断っても、隙あらば取り入ろうとする男子たち。時には力ずくで自分を誇示しようとするライナスのような連中。
「お兄様が睨みを利かせてくれてはいたけれど、それでも学院の中までは目が届かない。毎日、誰かが背後から視線を送ってきたり、決闘を申し込んできたり・・・・・・」
彼女の抱えていた孤独と不快感。それは、僕が受けていた差別とは質の違う、でも同じように心を削る毒だったのだ。
「でも、今日で変わったわ。ミトがあの三十人を一掃してくれたおかげで、もう誰も私に無礼な態度は取れない。だって、『エマ・スプレンディアスの隣には、三十人を木刀一本で沈める最強の婚約者がいる』ってことが、学園中に知れ渡ったんだもの」
エマは晴れやかな笑顔で僕を見上げた。
「私の周りにあった、あのベタベタした不快な視線。・・・・・・ミトが、全部『吸い取って』くれたもんね」
それは魔毒の浄化と同じだった。
僕が強くなることは、彼女を自由にするということでもある。その事実に気づき、僕は自分の手に宿る力の意味を、より深く理解した気がした。
「エマが笑ってくれるなら、いくらでも吸い取るよ。それが僕のの役目だからね」
「もう、ミトったら・・・・・・大好きよ」
夕闇の街角で、エマの甘い囁きが僕の耳をくすぐった。
やがて、見慣れたノルディアス家の屋敷の門が見えてきた。
父さんと母さんが、きっと夕食を準備して待ってくれているはずだ。今日は学院での出来事をどう話そうか・・・・・・そんなことを考えていると、エマが門の前で立ち止まった。
「あ、もう着いちゃった」
彼女は名残惜しそうに僕の腕を離した。ここからは、彼女はスプレンディアス家の屋敷へと戻らなければならない。
「じゃあ、ミト。また明日ね。学院で待ってるから」
「うん、また明日」
僕が門をくぐろうとしたその時。
「待って、ミト・・・・・・まだ、ご褒美をあげてなかったわ」
「え・・・・・・?」
振り返った瞬間、視界がエマのプラチナブロンドの髪に覆われた。
ふわり、と花の香りが鼻を抜け、唇に柔らかく温かな感触が触れる。
朝の浄化の儀式とも、昨夜の深い接吻とも違う。
短く、けれど深い愛おしさが込められたキス。
「……ん」
エマが顔を離すと、彼女の頬は夕焼けよりも赤く染まっていた。彼女は少しだけ息を弾ませながら、いたずらっぽく笑った。
「これは、私を助けてくれた騎士様へのお礼。・・・・・・さ、これでステータスも少しは上がったでしょ?」
「・・・・・・ああ。魔力が溢れて、今ならもう三十人くらい追加で倒せそうだよ」
「ふふ、もうお腹いっぱいよ! 欲張りなんだから」
エマはひらひらと手を振り、軽やかな足取りで夜の帳へと消えていった。
僕は自分の唇をそっと指でなぞり、彼女の温もりの残滓を確かめる。
体の中では、クレアが言っていた通り、彼女の愛によって励起されたマナが激しく渦巻いていいるのを感じた。
けれど、それ以上に僕を満たしていたのは、かつて「ゴミ箱」だった自分には想像もできなかった、守るべきものがあるという確かな充実感だった。
・・・・・・強くなろう。もっと。誰にも邪魔させないくらい。僕はそう決意する。
家の中からは、ユナの元気な声と、パンの焼ける幸せな匂いが漂ってくる。
僕は深く息を吸い込み、自分の人生の、本当の居場所へと足を踏み入れた。
明日からの学院生活は、今日以上に激しいものになるかもしれない。
けれど、僕の隣には彼女がいる。僕の背中を押してくれる愛がある。そう思うと、どんなことでも乗り越えられる気がした。




