第14話 変わりゆく世界
王立学院への入学まで残すところ二週間、僕の日常は劇的な変化を遂げながらも、ある種の穏やかなリズムを刻み始めていた。かつてのように、自尊心が日々最底辺を記録し続けるような、そんな苦痛と恐怖にさいなまれる朝はない。僕は今、自分自身の人生の舵を、確かにこの手で握っている。
僕の一日は、窓から差し込む柔らかな光と、愛する人の気配で始まる。
「ミト、起きてる? ・・・・・・入るわよ」
鍵を開けていたわけではないが、エマは当然のように僕の寝室に現れる。朝陽を反射するプラチナブロンドの髪をなびかせ、彼女は制服を凛々しく着こなしていた。
「おはよう、エマ。今日も早いね」
「学院が始まる前に、少しでもあなたの顔を見ておきたいもの。それに・・・・・・今日の分が、まだでしょ?」
エマは少しだけ顔を赤らめながら、ベッドの端に腰掛けた。
僕は彼女を優しく引き寄せ、その細い腰に腕を回した。
「いい?・・・・・・」
「・・・・・・ん。いつでもどうぞ」
エマが小さく吐息をもらし、僕の胸に顔を埋める。抱擁を通じて、彼女の体温と、その内側で渦巻く荒々しい魔力の鼓動が伝わってくる。僕は意識を集中させ、彼女の内に詰まった魔毒を、包み込むようにして吸い上げていく。
「エマ、少し顔を上げて」
「え、あ・・・・・・うん」
潤んだ瞳で見つめてくる彼女の唇に、僕は静かに自分のそれを重ねた。
ただの抱擁よりも、粘膜を通じた魔力の循環は遥かに効率が良い。クレアが導き出した最高効率の浄化法。
あれから少ししてから、それを実際に試してみたところ、効果は絶大だった。それは、魔毒の吸収なんてものではない。僕とエマの、あらゆるスキルが、爆発的に向上していくのが肌で感じられた。
でもそんなことはどうでもいいのかもしれない。今の僕たちにとっては、魔毒吸収以上の意味を持つ大切な時間だ。
深く、長く、熱い接吻。
エマの魔毒が僕の中に流れ込み、浄化されて、清浄なマナとなって流れ込んでいき、彼女を満たしていく。
すでにこの作業もすっかり、新しい日課として定着しつつある。僕にとっても、精神的に大きな安らぎを得られる、尊い時間。
「ふぁ・・・・・・はぁ・・・・・・ミト、今日も最高だわ。全身が、指の先まで透き通っていくみたい」
エマは幸福そうに微笑み、僕の首筋に額を預けた。
この時間が、僕に「自分は生きているのだ」という実感を与えてくれる。誰かの犠牲になるのではなく、愛する人を支えるために力を使う。その喜びが、僕の魂をより強く、純粋にしていく。
僕らはしばらく寄り添い合って、しばし互いのぬくもりに溺れる。
今のところは、僕もエマも、キス以上の関係に進もうとは思っていない。とはいえ、クレアは「男と女なんて、するときゃするものよ」と身も蓋もないことを言う。まあ、そのときはそのときだろう。エマを傷つけないように、それだけは注意しておこう。
朝食後、僕は公式の公務として宮殿へと向かう。
「ゴミ箱」として裏口から一目を憚って宮殿に入っていた日々は終わり、今は正門から堂々と、一人の「浄化官」として迎えられる。
しかし、宮殿という場所は一筋縄ではいかない。
リリアニアとの一件で僕の力は証明されたはずだが、長年僕を蔑んできた一部の貴族や高官たちは、いまだに僕を「なにかの間違いだろう」と侮っている。
「おい、そこをどけ。不浄な血筋が、我が物顔で廊下を歩くなど反吐が出る」
浄化室へと向かう廊下で、一人の男が立ちふさがった。
財務副長官のボルドス。以前、僕が吸い取った魔毒の記憶の中で、何度もその傲慢な顔を見た覚えがある。
「ボルドス副長官。公務の邪魔をしないでいただけますか。皆さんが溜め込んだ毒を処理しに行かなければならないので」
「ふん、口の減らないガキだ。お前のような者に国を頼らねばならぬとは、嘆かわしいかぎりだ。どうせ、どこぞの魔道具でも隠し持っているのだろう?ノルディアスの薄汚い家系に、そんな力があるはずがないからな」
彼はわざとらしく鼻を鳴らし、僕の肩を乱暴に突こうとした。
僕はその手を軽くかわし、彼を冷徹に見つめた。
・・・・・・思い出した。この男の記憶。
数日前、彼の上司――財務長官から毒を吸い取った際、ボルドスの記憶の断片もあった。
僕は彼の耳元に、周囲には聞こえないほど低い声で囁いた。
「――東区の商館から横流しされた、五千万メルクの裏金。・・・・・・まだ、自宅の地下金庫の『三つ目の隠し棚』に入ったままですよね?」
ボルドスの顔が、一瞬で土気色に変わった。「な・・・・・・何を・・・・・・?」
「それだけじゃありません。昨年の冬、王都の食料備蓄を横流しして、隣国の商人と密約を交わした際の書状・・・・・・あなたの愛人の家に保管されていますよね?・・・・・・名前は、メリンダさん、でしたか?」
「ひ、ひぃっ・・・・・・!?な、なぜ、それを・・・・・・!」
彼はガタガタと膝を震わせ、壁に手をついた。
僕が読み取ったのは、単なる知識だけではない。その時の罪悪感、恐怖、そして隠し場所の生々しい映像だ。僕にとって、彼の内面は開かれた本も同然だった。
「僕を侮るのは自由ですが、僕の中に何が蓄積されているか、ちょっと考えた方がいいですよ?・・・・・・道を空けてください。次は、陛下に直接このお話をすることになりますよ」
ボルドスは声を上げることもできず、ただパクパクと口を動かしながら、僕に道を譲った。
かつては暴力や暴言に耐えるしかなかった。 けれど今は、真実という名の刃で、彼らを沈黙させることができる。
浄化室に入り、僕は溜まった魔吸石の山に手を触れる。
黒い霧を吸い込む。その過程で、また新たな人々の秘密が僕の中に流れ込んでくる。王都の闇を吸い取るたびに、僕はより賢く、より盤石な存在へと進化していく。
結局、いまある魔吸石も、宮殿で発生する魔毒の一日~二日分を溜めておくことくらいはできるので、こうして利用させてもらっている。僕としても、これまでのことがあるので、あまり聖女リリアニアと直接に交流したくはない。それは向こうも同様だろう。ということで、この浄化室に魔吸石の山を置いておいて、聖女や魔道士たちは都合の良い時間に魔毒をここに捨てる。僕は一日一回、それを回収する。さながらゴミ収集のように。
夕暮れ時。宮殿での公務を終えた僕は、門の前で待っていてくれたエマと共に、家路についた。
オレンジ色の光が石畳を染め、街は活気に満ちている。
「ミト、今日も疲れたでしょ? 顔色が少しだけ白いわ」
「大丈夫だよ、エマ。以前と比べれば、なんてことはない」
僕たちは肩を並べて歩く。
ふと、周囲の視線が自分に向けられていることに気づいた。
以前なら、まるで石を投げつけられるような、蔑みの目だった。けれど、今の街の人々の目は違った。
「・・・・・・見て、あの人が」
「ああ。ノルディアス家の・・・・・・王都を救ってくれた浄化官様だ」
小さな声が聞こえてくる。
野菜屋の店主が僕に向かって深々と頭を下げ、広場で遊んでいた子供たちが僕を指差して「光のお兄ちゃんだ!」とはしゃいでいる。
「・・・・・・ミト。聞こえる? みんな、あなたのことを認め始めている」
エマが僕の腕に自分のそれを絡め、誇らしげに言った。
「最初は怖かったかもしれない。でも、あなたがこれまでなしてきたこと、そしてそれをみんな知っていたのに、見ない振りしていたこと・・・・・・少しずつだけれど、それまでの過去を認めようとしているのよ」
「不思議な気分だね。一ヶ月前までは、ここを通るだけで、石を投げつけられるんじゃないかってビクビクしていたのに」
「それは、あなたがあなた自身の価値を証明したからよ。・・・・・・ほら、あのお店のおばあさんも」
見ると、以前僕に腐った野菜を投げつけたことのあるパン屋の老婆が、申し訳なさそうな顔で、焼き立てのパンを差し出してきた。
「・・・・・・浄化官様。これ、つまらないものですが、持っていってください。・・・・・・あの時は、すみませんでした」
僕は一瞬戸惑ったが、すぐに微笑んでそのパンを受け取った。
「ありがとうございます。・・・・・・いい匂いですね」
老婆は顔を輝かせ、何度も頷きながら店の中へ戻っていった。
世界は少しずつ、確実に変わっている。
僕が毒を吸い、代わりに光を広めるたびに、この街から「不浄」という名の偏見が消えていく。
「ミト。学院に入ったら、もっと広い世界が待っているわ」
エマが夕陽を見上げながら言った。
「そこでも、あなたはきっとたくさんの人を救い、同時にたくさんの敵も作るでしょう。でも、私はずっと隣にいる。あなたがどんなに大きなものを背負っても、私がそれを支える盾になるわ」
「ありがとう、エマ。僕も、君の隣に並び立てるような男になるよ」
王立学院という、次なるステージ。
そこにはどんな出会いがあり、どんな「毒」が潜んでいるのだろうか。
けれど、今の僕には恐れはない。
愛する人の温もりと、手に入れた黄金の知恵。そして、自分を信じてくれるようになった街の人々の眼差しがあるから。
僕はエマと繋いだ手に力を込め、長く、そして輝かしい未来への第一歩を、力強く踏み出した。




