第10話 手に入れたのは、穏やかな日常
窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりと、微かに漂うパンの焼ける匂いで。僕は目を覚ます。
かつての僕にとって朝とは、苦しみに満ちた一日の幕開けでしかなかった。けれど、今の僕にとっては、驚くほど軽やかで、色彩に満ちたものだった。
ノルディアス家の屋敷は、もはや呪われた、忌むべき場所ではなかった。
あの騒動から、一週間がたった。
聖女リリアニアが正式に声明を出したことで、僕の力は、国の繁栄を支える稀有な存在として公式に認められた。
「ふぅ……」
僕はベッドから起き上がり、自分の掌を見つめる。
体の中は、凪いだ海のように穏やかだ。リリアニアたちから魔毒と共に吸収した膨大な知識は、この一週間である程度は脳内で整理され、新たな知恵となって定着した。政治的な駆け引きや交渉術、魔術の深淵、そして権力者たちの弱点。すべてが僕の手の中にあった。
だけれど、まだまだその全貌は伺いしれない。己の中にいったい何が眠っているのか、そのことが恐くもあり楽しみでもあった。
しばし目を瞑り、心を落ち着ける。 その静かな思索を破るように、玄関の扉が景気よく開く音が響いた。
「ミトーっ!おはよう!起きてるわよねっ!?」
階段を駆け上がってくる、聞き慣れた力強い足音。
一日の始まりを告げるのは、太陽の光よりも先に我が家にやってくる銀の騎士だった。
部屋のドアが勢いよく開き、エマが飛び込んできた。
彼女は既に騎士装束に身を包み、その額には、ここまで全力疾走してかいたと思われる薄っすらとした汗が滲んでいる。「エマ、おはよう。今日も早いね」
「当たり前でしょ!朝一番にあなたの顔を見ないと、訓練に身が入らないんだから」
エマは迷いのない足取りで僕の目の前まで来ると、少しだけ頬を染めて、両腕を広げた。
「さあ、今日もお願い。……昨日の夜、魔剣の調整をしたから、少しだけ溜まってるの」
「分かった。おいで」
僕が促すと、エマは嬉しそうに僕の胸に飛び込んできた。
柔らかな髪の香りと、彼女が日々全力で生きている証である微かな熱が伝わってくる。僕は彼女の背中に手を回し、ゆっくりと目を閉じた。
意識を集中させる。エマの中の魔毒という名の澱が、僕の体内へとスムーズに流れ込んでくる。
相変わらず、魔毒の吸収は僕の日課だ。そうしないと、このアルヴェニア王国は瞬く間に立ちゆかなくなる。
だけれど、以前のような「食べさせられている」という苦痛にも近い感覚はなくなった。あのゴミ処理場での覚醒以降、魔毒の吸収で生じる苦痛はほとんどなくなった。そしてなにより、聖女リリアニアをはじめとした宮殿の人々が、少なくとも表向きは僕を「ゴミ箱」呼ばわりすることはなくなった。それだけでも、随分と気が楽になった。
でも、やはりエマの魔毒を吸収するこの時間は、宮殿のとは比べたくもないくらいに、特別な時間だ。日頃の彼女の頑張りを僕が半分肩代わりして、暖かな絆に変えていくような、極上の癒やしの時間。
「ん……ふぅ……やっぱり、ミトに吸ってもらうと、全身が軽くなるわ……なんだか、魔法の泉に浸かってるみたい」
エマは僕の肩に頭を預け、うっとりと呟いた。
僕にとって――そして彼女にとってもきっと――これは単なる魔毒の除去ではない。互いの存在をすべて相手に預けて、心身ともに繋がるための、何よりも大切な儀式だ。
魔毒を吸収して、彼女を浄化することによって、僕の心もまた浄化されていくのを感じていた。
だが、その至福の時間を遮る、遠慮のない声が割り込んできた。
「はいはい、そこまで。あんたたち、朝っぱらから熱烈すぎる空気を撒き散らさないでくれる?」
いつの間にか部屋の窓枠に腰掛けていたクレアが、自慢の金髪をいじりながら、そう言ってくる。
彼女はスプレンディアス家に居候しているはずなのだが、朝食の時間には必ずと言っていいほど我が家に現れる。
「クレア!あなた、いつの間にいたのよ!?」
エマが慌てて僕から離れ、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あんたがミトの部屋に突入してすぐによ……それよりミト、今の吸引、ちょっと興味深いわね。エマの体内の魔力の純度が、あんたの浄化によって昨日より3%上昇してるわ。もはや普通の騎士を数段飛び越えた、魔装騎士の領域に入り始めてる」
「え……そうなの?」
僕が問い返すと、クレアは窓からひょいと降りて、僕とエマに近づいた。
「当然よ。あんたはただ毒を抜いているだけじゃない。抜いた後の隙間に、あんた自身の内部で練り上げられた清浄なマナを無意識にフィードバックしてる。・・・・・・いわば、ミトによる最高級の強化がかかってる状態なのよ、この猛牛さんは」
「猛牛って言わないで!・・・・・・でも確かに最近、剣が羽みたいに軽く感じるわね。あれって、ミトのおかげだったのね」
エマは自分の手を見つめ、驚きと喜びに目を輝かせた。
クレアはふんと鼻を鳴らすと、今度は僕の手を無造作に掴んだ。
「さあ、次は私の番よ。昨日の鑑定作業で、情報の過負荷が溜まってるの。私の魔毒もちゃんと処理しなさいよね」
「ちょっと待ちなさいよ!ミトは私の旦那様なんだから、勝手にお触り禁止よ!」
「固いこと言わないの。・・・・・・大体、今でもあの忌々しい宮殿の連中の魔毒を処理してるでしょうが。あいつらが良くて、私がダメってこともないでしょう?ほら、ミト、早く」
エマの言葉を軽く受け流して、クレアは僕の手に自分の額を押し当て、強引に浄化を促した。
そんな僕とクレアを、エマはしぶしぶといった様子で見守ってくれる。
「・・・・・・仕方ないわね。クレアの鑑定眼は確かにミトの助けになるし・・・・・・一目置いてあげなくもないわ。でも、終わったらすぐに離れなさいよ!」
「はいはい、分かってるわよ……ん、あぁ……やっぱりミトの浄化は最高ね。市場価値を付けるなら、一回で金貨百枚は下らないわ」
クレアは満足げに目を細めた。
情熱的で愛にあふれたエマと、冷静で鋭い分析力を誇るクレア。
二人の異なる女性が僕の周りで賑やかに騒いでいる。
その光景は、少し前まで孤独に毒を啜っていた僕には想像もできなかった、騒がしくも暖かな日常だった。
二人の浄化の儀式を終えた後、僕たちは母さんが作った朝食を囲んだ。
エマとクレアは相変わらず言い合っているが、その根底には奇妙な信頼関係が芽生え始めているのが分かる。
僕は食事をしながら、自分の内に蓄積された知識を再確認していた。
王都の魔導回路の設計図、物流の停滞を招いている腐敗したギルドの繋がり、そして隣国との水面下での交渉記録、等々・・・・・・。
これほどの膨大な知識が、自分の中に眠っていたのかと思うと、ちょっと壮観だ。
・・・・・・ん?この記憶は、ちょっと気になるな。
「エマ、ウォルスさんか、お父様に伝えてほしいことがあるんだ」
「なあに、ミト?」
「王都の地下にある『魔導薬庫』の不具合についてだ。構造的に脆くなっているけれど、どうも改築のための資金が横流しされていて、工事が止まっているらしい」
僕が淀みなく詳細な座標と修復方法を述べると、エマだけでなく、クレアまでもが箸を止めて絶句した。
「・・・・・・ちょっと、ミト。あんた、どうしてそんな機密事項をが分かるの?」
「毒を吸う時に、記憶も一緒に僕の中に入ってくるみたいなんだだ。特に後ろめたく思っていることほど、濃い澱となって僕に伝わるのかな」
僕は自嘲気味に笑った。
かつて僕を苦しめたゴミは、今や王都を救うための、地図へと変貌していた。
「すごいわ、ミト……。あなたがその知識を使えば、騎士団も、政治家も、誰もあなたに敵わなくなる。……本気で、この国を変えていけるのね」
エマの瞳に深い畏敬と、それ以上の期待が宿る。
「うん。といっても、すべての記憶が綺麗に整理されているというわけじゃないけれど・・・・・・」
クレアがおかしそうに笑う。
「ふふふ、でも魔力を使うことによって必ず魔毒は発生するし、みんなそれをミトに吸収してもらうほかない・・・・・・悪事はすべて、ミトに把握される、というわけね」
「といっても、そこまではっきりと分かるものは多くないんだろうけれどね・・・・・・でもこれからは、毒を吸って耐えるだけのノルディアスじゃない。その毒を知恵に変えて、誰もが笑って暮らせる国を創っていく。もちろん、二人の手助けも必要だよ」
「当然でしょ!私はあなたの剣として、どんな邪魔者も蹴散らしてあげる!」
「いいわよ。あんたの軍師兼鑑定士として、私は世界を最適化してあげるわ。・・・・・・ふふ、面白くなってきたじゃない。歴史の転換点に立ち会えるなんて、最高のお宝よ」
朝陽が食卓を照らし、僕たちの未来を祝福するように輝いている。
これから先、さらなる困難や、僕の力を恐れる者たちの抵抗があるだろう。
けれど、僕の隣には僕を信じてくれる騎士がいて、僕の価値を見抜いてくれる鑑定士がいる。
そのことが、どうしようもなく心強かった。




