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第206話 紫霧

 セリナの『感知雷網(スパークソナー)』が青白い火花を散らし、極小の群れを焼き払った。


 一時の静寂が戻ったかに見えたが、それはほんの数秒のことだった。


『プゥゥゥゥン……プゥゥゥゥン……』


 町を覆う薄紫色のノイズが揺らぎ、耳の奥を直接引っ掻くような見えない羽音が、今度は四方八方から共鳴するように響き渡り始めたのだ。


「……数が、多すぎますわ!」


 クラウス先生が咄嗟に『魔力障壁(シールド)』を展開しようとするが、私の『瞳』にははっきりと視えていた。


 魔力そのものを「エサ」として感知するこの見えざる群れにとって、防御を固めるほどに放たれる「強い魔力」は、最高の食事の合図でしかない。防ごうとすればするほど群れは巨大化し、私たちの魔力を狙って殺到してくる。


「大陸魔術だけでは、この不浄な群れは祓えぬか……! パスティ、道を空けよ!」


 モミジが前に躍り出た。


 彼女は懐から、赤い墨で描かれた見慣れぬ呪符を取り出すと、迫り来る見えない群れへ向けて空間に放り投げた。


「火相――『爆炎符(ばくえんふ)』!!」


 呪符が空中で紅蓮の炎となって炸裂した。


 周囲を満たしていた不気味な瘴気を焼き切り、見えざる群れを一掃して、一瞬だけ視界がクリアになる。


「さすがですわ、モミジ!」


 だが、安堵の声を上げた次の瞬間、私は絶望に息を呑んだ。


 爆炎で数千匹を焼き尽くしたはずなのに、街全体を覆う「紫の霧」の中から、さらに数万、数億というおぞましい羽音が怒涛のように押し寄せてきたのだ。


 爆炎を使えば使うほどモミジの魔力が消費され、その「漏れ出した魔力」と「熱」を求めて、さらに凶悪な群れが集まってしまうという皮肉なジリ貧の状況。


「……キリがないわ! 皆様、あの建物の中へ!!」


 私の先導で、頑丈そうな和風建築の旅籠――『潮風亭』の看板がかかった建物へと滑り込む。


「閉めますわよ!」


 セリナとリディアンが素早く重い木の扉と障子を閉めると、ようやくあの狂気的な羽音が遮断された。どうやら物理的な障害物を無理やり通り抜けてくる力はないらしい。


「はぁ……はぁ……」


 安全を確保した途端、急激な目眩と虚脱感が数人の仲間を襲った。


「くそっ……なんだこれ、力が入らねぇ……」


 ガントが、巨体を支えきれずにドサリと畳の上に膝をついた。その顔は青ざめ、大量の脂汗を流している。


「申し訳、ありません、部長……。視界が、ぐらぐらして……」


 レオナもまた、壁に手をつきながら力なく崩れ落ちた。さらに、メロディア・メンバーズの一員であるモモも「モミジちゃん……体が寒いよぉ……」と小さく丸まって震え出したのだ。


 先ほどの僅かな時間で、彼らは見えない群れに魔力を急速に吸い上げられ、『魔力欠乏』という激しい虚脱状態に陥っていた。


「ガント君! レオナさん! モモちゃん! しっかりして!」


 ルナリアが悲鳴のような声を上げ、倒れた彼らの元へ駆け寄る。その大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな大粒の涙が浮かんでいた。


「なんてこと……わたくしたちの大切な仲間をこんな目に遭わせるなんて! 絶対に許せませんわ!」


 マリアベルも怒りに震えながら拳を強く握りしめているが、敵が極小の群れでは彼女の『茨』も意味を成さず、どうすることもできないもどかしさに唇を血が滲むほど噛み締めていた。


 そして、誰よりも大きなショックを受けていたのは、極東を故郷に持つモミジだった。


「どうして……どうしてヤマトがこんなことに……」


 彼女は、血の気を失って倒れるモモの手を握りしめながら、信じられないものを見るような絶望的な声で呟いた。


「海と山に囲まれ、緑豊かで、皆が笑顔で溢れていたはずの故郷なのに……。カミは、我ら極東の民を見捨てたというのか……!」


 肩を震わせる彼女の背中が、痛々しいほどに小さく見えた。


 その時だった。


「……火相の術使いか。だが無駄だ。あいつらは火を灯せば灯すほど、その熱に浮かれて集まってくる……」


 暗い土間の奥から、かすれた声が響いた。


 身構える私たちの前に姿を現したのは、ボロボロの着物を纏った、イタチの獣人だった。


「誰ですの……?」


「俺はカマ吉。……あんたら、運が悪かったな。こんな時にこのヤマトに来ちまうなんてよ」


 カマ吉と名乗った獣人は、絶望に濁った瞳で、畳の上に倒れ込む私たちを見下ろした。


「あいつらは、魔力を吸い尽くして終わりじゃねぇんだ」


 カマ吉は自身の震える両腕を抱きしめ、吐き捨てるように、この街の真実を語り始めた。


「魔力を吸われて動けなくなった奴は……生きたまま『苗床』にされる。皮膚の下に卵を植え付けられ、少しでも魔力が回復する端から、ボウフラみたいな幼虫に内側から食われ続けるんだ。……死ぬこともできずにな」


 救いのない、あまりにもおぞましい惨状の告白。


 扉の向こう側から絶え間なく聞こえる羽音の群れが、一気に「死よりも恐ろしい恐怖」となって私たちの心を侵食していく。 逃げ場のない密室で、私たちはただ息を潜め、戦慄するしかなかった。

■Tips


極東の島国『ヤマト』


大陸から遠く離れた海に浮かぶ群島国家。


火山列島であり、島の中央には炎の精霊王が眠るとされる巨大な霊峰がそびえ立つ。気候は温暖湿潤で、大陸にはない明確な「四季」が存在する。豊かな自然に恵まれている反面、独自の厳しい自然環境があり、それが独自の信仰を生む土壌となった。

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