第207話 防虫会議
――プゥゥゥゥン……。
その音は、もはや単なる虫の羽音ではなかった。
旅籠『潮風亭』の分厚い木の扉を隔てた向こう側。そこには、空を埋め尽くさんばかりの紫の霧が渦巻き、数億、数兆という「羽音」が重なり合って、一つの巨大な、そして悍ましい唸り声となって街全体を震わせていた。
「……耳が、おかしくなりそうですわ」
私は畳の上に膝をつき、両手で耳を強く塞いだ。けれど、その音は鼓膜を通り越し、脳の髄を直接、冷たい指先で撫で回すように響いてくる。
呼吸が浅くなる。胸の奥が、意味もなくざわざわと波立ち、得体の知れない焦燥感と、逃げ場のない恐怖がじわじわと体中を浸食していく。
「お嬢様、お気を確かに……!」
セリナの声に顔を上げると、彼女もまた、青ざめた顔で必死に耐えていた。
私は自身の『瞳』の焦点を、窓の隙間から漏れ出す紫の霧へと向けた。私の瞳には、その霧の中に潜む「悪意」の正体が、剥き出しの不協和音として映し出される。
「……奴ら、ただ魔力を吸っているだけではありませんわ。この羽音そのものが、瘴気による精神汚染の媒体……。聴き続けるだけで人々の心を削り、絶望を煽っている。……侵蝕者め、どこまでも悪趣味な演出をプロデュースしてくれますわね」
私の言葉に、暗い土間でじっと座り込んでいたイタチの獣人・カマ吉が、乾いた笑い声を漏らした。
「……気づいたか、お嬢さん。ありゃあただの虫じゃねぇ。カミサマの罰か、あるいはもっと酷い何かだ。最初はただの羽音だった。だが、いつの間にか、隣に座ってる奴の顔が、肉を食らう化け物に見えてくる。……そして、動けなくなった奴から順番に、苗床にされるんだ」
カマ吉が顎で指し示した奥の客間。そこには、先ほど私たちが運び込んだ数名の住人が横たわっていた。
彼らは一様に生気を失い、顔を土色に変えて震えている。だが、最も恐ろしいのはその「皮膚」だった。
彼らの腕や首筋の皮膚の下で、何かが、米粒ほどの「しこり」のようなものが、ウネリ……ウネリと、不自然な動きを見せているのだ。
「……っ!」
メンバーの一人、レオナが口を押さえて顔を背けた。
魔力を吸い尽くされ、抵抗する術を失った人間に、生きたまま卵を産み付ける。幼虫たちは、宿主の魔力が回復するのを待ってはその微かなエネルギーを喰らい、皮膚の内側を食い荒らしながら成長するのだ。
生かさず殺さず、ただ『食料』として飼い殺す。その凄惨な光景は、もはや生物の摂理を逸脱した、純粋な「悪意」の産物だった。
「モミジ、……精霊王が祭られている社はここからどれぐらい距離がありますの?」
私は、一点を凝視したまま動かないモミジに問いかけた。彼女は自らの故郷の変わり果てた姿に、魂を削られるような苦痛を感じているはずだった。
「……徒歩だと一週間はかかる。だが、拙者の家は霊峰の麓……。そこは極東の龍脈が集まる要の地。もしここまでの惨状が広がっているのなら、拙者の家族も……無事では済むまい」
「……この状況で一週間も歩いてはいられませんわね。かっとび君の回収が必要ですわ」
私は冷静に、外の状況を分析し始めた。
「……この大量の虫。よく観察すると蚊と虻、二種類が混ざっていますわ」
一つは、音もなく忍び寄り、対象の魔力を吸い上げる極小の『蚊』。
もう一つは、執拗な羽音を響かせ、理性を狂わせる『虻』。
前者が魔力と体力を奪い、後者が精神を破壊する。この二重の罠こそが、この街を沈黙させた「絶望の正体」だろう。
「このまま籠城していても、埒があきません。……それに、この街の人たちをこのまま放置しておくなんて、わたくしの美学が、断固として拒否していますわ!」
私は立ち上がった。魔力欠乏のせいで膝がガクガクと震える。けれど、マイクを握る手だけは力強く、前を見据えていた。
「パスティ、何を……?」
「決まっていますわ、モミジ。最高のライブ……いいえ、『浄化』のステージをプロデュースいたしますのよ!」
私は、隣で静かに目を閉じていた少女――ルナに向き直った。彼女は、私の意図を察したように、ゆっくりと銀色の瞳を開いた。
「ルナ、モミジ。貴女達の『歌声』とか『舞』に頼らせてくださる?」
ルナとモミジはお互いの目を見つめ頷く。
「セリナ、リディアン、クラウス先生は、それぞれ歌唱中の防御をお願いいたしますわ」
セリナたちが静かに頷き、それぞれの魔力に火を灯す。
「……ポルカ、準備はいい?」
『もちろん! 任せて、パスティ!』
外からは、建物の隙間を抉り取るような羽音。奥の部屋からは、犠牲者たちが漏らす、獣のような呻き声。ヤマトという美しい国を覆う、最悪の不協和音。
「……見ていてくださいまし。わたくしたちのハーモニーが、どれほど美しく、そしてこの不協和音を『調律』するかを!」
私はルナとモミジの手を強く握り、窓へと歩み寄った。障子に手をかける。
外には、命を食らう紫の死の霧。けれど、私たちの瞳に、もう恐怖の色はなかった。
「……いくよ、パスティ」
「……いざ、参る!」
「ええ、最高の一曲を、響かせましょう!」
ガラッ、と。障子が開け放たれた瞬間、猛烈な紫の突風と、耳を劈く羽音の奔流が室内に流れ込んだ。
だが、三人の歌姫がその喉を震わせた瞬間――。
世界から、音が消えた。
■Tips
『吸血蚊』と『乱騒虻』
吸血蚊: 魔力と体力を奪い、物理的な抵抗力を削ぐ。また、魔力枯渇状態の対象を「苗床」にする。
乱騒虻: 特殊な周波数の羽音で脳の神経系を直接刺激し、パニック、疑心暗鬼、幻覚を引き起こす。
この二種が同時に発生することで、街は一瞬で崩壊した。




