第201話 【幕間】深淵の観測者
どこか現実離れした、光の一切届かない暗黒の空間。
そこにぽつんと浮かぶ見えない玉座に腰を下ろし、一人の男が静かに目を閉じていた。
青みがかった黒髪に、透き通るような白い肌。かつて魔術学園の生徒会副会長として君臨し、完璧主義と冷徹さで知られた少年、セドリック・フォーマルハウト。
だが、その肉体に宿っているのは、もはや彼自身の魂ではない。
大厄災の時代からこの星を蝕まんとする絶対的な悪意の集合体――侵蝕者『モルス』であった。
モルスは、閉じた瞼の裏で、足元に広がる世界の「絶望の濃度」を、まるでチェス盤の上の駒を眺めるかのように俯瞰して見下ろしていた。
第一の盤面。
魔導国の西、帝国との国境に連なる峻険な山脈。
モルスの意識は、かつてそこに空いていた巨大なトンネルへと向けられた。
そこは今、地の精霊王によって無残に塞がれ、かつての威容は見る影もない。
さらに、その拠点を任せていた腐食の侵蝕者『腐食』の気配は、完全にこの世界から浄化され、消滅していた。
「……やはり、人間を依り代にして知恵をつけると、我ら侵蝕者本来の『純粋な食欲』や『暴力性』が鳴りを潜めてしまうな」
モルスは怒ることもなく、ただ冷徹に、一つの実験結果を評価するように分析した。
知恵は人間を効率的に狩るための武器となるが、同時に人間の持つ矮小な自尊心や、無駄な遊悦といった不要な感情をもたらす。
『腐食』はその優越感に浸り、獲物をなぶり殺しにしようと遊悦に浸った結果、自らの足元をすくわれ敗北を喫したのだ。
「無駄な遊悦に浸った結果の敗北……知恵がつくのは、メリットばかりではないということだ」
セドリックの端正な顔が、冷ややかな嘲笑の形に歪む。
だが、『腐食』が消滅したからといって、大局に影響はない。
帝国という巨大な「苗床」自体は健在なのだ。
『腐食』が消えようとも、皇帝や軍上層部が抱く覇権主義と強欲は決して変わらない。
トンネルが塞がれ、魔導国への侵攻が頓挫しようとも、彼らはその鬱憤を晴らすかのように、帝国内での過酷な搾取と圧政をより一層強めるだろう。
「引き続き、あの愚かな人間どもには、自らの国の中で絶望という名の『糧』を増産してもらおうではないか。他の同胞たちのために」
視点を東へ移す。
第二の盤面、聖教国エリュシオン。
ここでは『疫病』が暗躍している。
「『疫病』の働きは、実に評価に値する」
モルスは不気味にほくそ笑んだ。
『疫病』は教会の上層部を巧みに操り、他国への祈祷術を禁止させた。
そればかりか、聖教国内にも密かに自らの疫病を蔓延させ、「救われない民草」の負の感情と疑心暗鬼を、極上の蜜として集めている。
獣王国への侵攻第一波、あの異端審問官ギースがパスティエールたちによって止められたことも、モルスにとっては盤面の些事、取るに足らない出来事だった。
「あれは前哨戦に過ぎない。正義に酔いしれるあの小生意気な歌姫が、辺境で光を放てば放つほど……その光に届かない、救われない者たちの影はより色濃くなる。光の裏側で、嫉妬と焦燥が深く、甘く発酵していくのだ」
光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。それこそが、侵蝕者にとって最も美味なる絶望のスパイスとなるのだ。
さらに視線を北方の極冠へ向ける。第三の盤面。
そこには第七の災厄、『雹嵐』が落ちている。
「あやつは人を依り代にしていない、本能だけの獣の状態だ」
モルスは冷徹な眼差しで、その知恵なき暴威を観測する。
「だが、それでいい。勝手に暴れ回り、あの凍てつく大地で星の体力を物理的に削り続けてくれれば、それだけで十分な働きと言える。知恵ある者と、本能だけの者。各々が己の役割を果たせばよいのだからな」
そして、モルスの意識は、雷鳴の山へと向けられた。
第四の盤面。
そこで起きたしたような、しかし底意地の悪い笑い声が漏れる。
「あの少年の心に囁きかけ、トラウマを抉って引き離したのは……あの『女』の仕業か」
モルスは、自分とは別の、未だ姿を見せぬ女性型の侵蝕者の暗躍を感じ取っていた。
「安易に力を与えて堕落させるのではなく、あえて孤立の道を選ばせるとは。相変わらず、陰湿で悪趣味な手を使うものだ」
少年は闇の誘惑を自らの意志で撥ね退けた。
だが、結果として「自分がいると足手まといになる」という焦燥から、最も守るべき主の元をあえて離れるという、孤独な修羅の道を選んだ。
「強さを求めるあまり、最も守るべき主を無防備にするとは。人間の愛や責任感とは、かくも滑稽で脆弱なものか。だが結果として、あの歌姫は最も信頼する『剣』を失った」
それは人間の脆弱な心理が生み出した、最高の喜劇だった。
「その孤立が、いずれ致命的な綻びとなるだろう」
最後に、モルスの意識は、海を越えようとしているパスティエールたちに向けられた。
「ほう、次に向かうのは『極東』か」
モルスは、セドリックの喉を震わせて低く、暗く笑った。
「……あそこには、最も『不快』で『執拗』なあの二人がいたな」
極東に潜む、二体の侵蝕者。
『吸血』。
音もなく対象に近づき、気づかぬうちに内側から生命と魔力を吸い尽くす、静かなる死の探求者。
『乱騒』。
不協和音の羽音で精神を執拗に苛み、人々の理性を狂わせ、社会を内側から崩壊させる騒乱の使者。
彼らは知恵を持つ持たない以前に、ただひたすらに不快で執拗な性質を持っている。
「護衛の剣を失い、精霊の加護に浮かれて海を渡るカナリアたちに、目に見えぬ侵蝕の真髄を教えてやるがいい……」
モルスは暗黒の空間で、一人冷たい笑い声を響かせた。
その声は、これから極東で待ち受ける波乱と絶望の幕開けを祝うかのように、いつまでも虚無の底に木霊していた。
■Tips
知恵を得た侵蝕者
侵蝕者が人間を依り代とした場合、「知恵」という強力な武器を獲得する。
これにより、『疫病』のように、人間の社会構造を巧みに乗っ取り、自分たちの手を汚さずに効率よく負の感情を養殖・搾取する盤面を構築することが可能となる。
しかしその反面、依り代となった人間の心に由来する「愉悦」「自尊心」「優越感」といった不純物が混ざり込むことで、侵蝕者本来の「喰らい、破壊する」という純粋な食欲や暴力性が鈍ってしまうという致命的なデメリットを抱えることになる。
『腐食』が敗北したのは、圧倒的な力で即座に蹂躙できたにもかかわらず、獲物が絶望に染まる過程をなぶり殺しにして楽しむという「無駄な愉悦」に浸り、パスティエールたちに反撃の隙を与えてしまったためであると、モルスは分析している。
だが、この分析を下すモルス自身もまた、セドリックの強い憎悪や執着をベースに誕生したため、パスティエールたちが孤立し絶望していく様を「最高の喜劇」として俯瞰し、味わおうとする愉悦を持っている。
彼自身が、人間の感情という「最大の毒」に誰よりも深く侵されているという矛盾に、彼自身はまだ気づいていないのかもしれない。




