もうひとつの道筋1
陽は西にすっかり傾き、木や建物の影が長く長く延びている。空は橙色も消え気味で、薄みがかった紫と青が混じり、あの肌を焼き尽くすような日差しも鳴りを潜めた。
心地よい風を浴びながら流良川の土手を行く一台の自転車に、真淵耕平巡査部長はその大きな身体をのせて、口笛を吹いていた。
駐在所員勤務時間の午後5時15分は過ぎた。今日も灰畑町は平和だった。いや、大山の婆さんがいなくなって息子夫婦と探したが、婆さんはすぐ見つかった。それもいつものことだった。
いつも息子は
『母さんは とうとう死んじまってるかも知れない』
と言い、その隣りで息子の嫁は
『もうかなりボケてるものだから心配で』
と頭を下げる。
自分は『まあまあ落ちついて、探してみましょう』と答え
婆さんは同じところで見つかる。
自分達はもうこれと全く同じことを、去年から 7回やった。7回だ。振り込め詐欺を止めるコンビニ店員だって、7回になる前に表彰されているのではないだろうか。
『あの婆さん、ボケてないんじゃないか?』
独り言だった。道路のひび割れの盛り上がりで、自転車が軽く、カクンと揺れた。
それでもまあいい。生きてみつかるのだから。それに、対応が遅くなれば、やはり森の奥まで行ってしまうのかもしれないし、暗くなれば危険もある。
川縁の土手からはもう降りていた。住宅街に入って、一つ目の角を曲がってすぐ、駐在所の赤黒い屋根が見えた。そして、駐車場にパトロールカー。
住居側の壁側では、二男の和弥がシャボン玉で遊んでいた。
『お父さんカレー!今日カレーだよ!』
"おかえりなさい''もすっ飛ばして、真っ黒に焼けた五歳の息子は叫んだ。
言われて見れば、あちこちにカレーの臭いが漂っている。
(ああ、腹がすいたな、、、、)
気づけば、真淵の大きな下腹は今にも音が鳴りそうだった。
『ただいま和弥。そろそろ片付けて入ろう。カレーライスなんだろ?』
『そう!カレーライスだからね、はやく入らなくちゃね。
ね?僕1人より、お父さんが手伝ってくれて2人でやったらもっと早いよね?』
息子は答えを知っていながら父を見上げた。
『お前が遊んだんだろうが』
と言いながら、真淵はもうシャボン玉液の残りに手をかけていた。
(全く、、,下の子って言うのは要領いいよな。)
しみじみと思いながらシャボン玉ケースを持って、入り口から和弥と入っていく。
『おかえりなさい! ご苦労様です』
後半のご苦労様を言うとき、妻は警官の敬礼を真似していた。それに和弥が
『ご苦労様ですっ』
と、気合いを入れながら、やはり敬礼をして返した。
『手を洗ってきてよ。カレーライスだからね。』
妻ー 真淵実咲は、夫からシャボン玉セットを受け取りながら言った。
『分かってるよ!!』
和弥は住居スペースに飛び込んで手を洗いに行った。
一連のやり取りを見て、真淵は少し考えていた。
(今が幸せだ、、、、)と。
それから向きを変えて、自分は、事務所側に備え付けの小さな洗面台で手を洗う。
(昔はいろいろあった。実咲には本当に苦労をかけた。)
水を流しながら思いつつ、ふと気がついて
『何かなかったか?』
と、やや大きめの声で聞いた。
自分がいない間の電話対応は、駐在所では妻がやるのだ。
『何にも。そもそも鳴らなかったもの。』
実咲は首を振りながら答えて
『そっちは?』
と聞いてきた。
『いつも通りだよ。3人で同じ会話してだいたい同じところを見回って、同じところで見つかる。もう台本があるんじゃないかって気がしてきたよ。』
最後の冗談に、明るい性格の妻は、、、、いや、今はその明るさを取り戻した妻は、ケラケラと笑った。
『いつも同じところに行くなら徘徊って言えるのかなぁ?大山のおばあちゃん、別にボケてないんじゃない?』
『オレだってそう思うよ。あの婆さんは、いつも池のほとりの地蔵を拝んでるだけだしな。ただ誰にも何も言わずにフラッといなくなるから、息子と嫁は心配するんだろう。せめて時間でも決まっていればいいんだろうが。』
洗い終わって手を振って水を払ったが、ボタボタとまだ落ちる。しまった。制服に拭うのは気が引ける。
『そこまでうまくはいかないのかぁ。』
言いながら、横から実咲がハンドタオルを延べてくれている。嫁はできた人間だ。真淵はタオルを受け取って手を拭いた。
『そこまでうまくはできないんだろうな。そういう人間もいるさ。』
『お母さん、僕もう座ってるんだけどー!!』
和弥の声が割って入ってきた。
『はいはい。でもまさか明日もってことはないわよね?2日続けてなんて。』
"ないに決まってるだろう"と言いかけて、真淵は止まる。
『いや、捜索の4、5回目は連日だった。2日連続はあるかもしれない。』
『ええ!?明日は和弥の誕生日なのよ。すき焼き鍋にするつもりだし、みんな一緒じゃないと。もう明日は大山さんところの周りだけグルグル巡回していたら?』
想像して、真淵は思わず笑ってしまった。
『そんなパトロールないだろう。霜沢の方では熊の目撃情報もあったしな。大丈夫さ、明日は雨で婆さんも家でじっとしているかもしれない。』
土手の見事な夕暮れを見る限り明日も天気は良さそうなのは分かっていたが、真淵はそう言った。大丈夫、今日婆さんには出かける時に家族に告げるよう注意もした。その注意も、もう6回目だが。
『カレーライス まだぁ!?』
和弥が呼んでいる。実咲は台所に急ぎ足で向かった。
真淵は立っていたすぐ近くのふすまを、トントンとノックした。
意外にもスッとすぐ ふすまは動き、中から真淵の長男が出てきた。色白でやせているが、背丈はやっと160にはなった。
『おかえりなさい、、、、、お、、とうさん。』
ゆっくりと言葉をつなぐ。見つめる真淵の眼差しは優しい。
長男には障害があった。