第11話:患者の研究・後編
「ごめんね、すぐ出て行くから」
司がそういって芳樹の手をひいて病室から出ようと足を動かす。
「……あ、ちょっと待って」
ベッドの上の誰かは司に手招きをした。
「なに?」
司が近寄ると、ベッドの上の誰かはハンカチを持った手をのばしてきた。
「血が……ついてますよ」
誰かはうっすら血の付いたままだった司の唇を、ハンカチでそっとぬぐった。
華奢な腕、肌は白いというより青白い。
どことなく憂いをおびた瞳は少し濡れているように見えた。
「ん、ありがとう」
目を閉じた司と、ハンカチで司の口をやさしくぬぐう誰か。
芳樹の目には、その空間がいつかどこかで見た昔の芸術家の絵のように見えた。
「ハンカチ汚れちゃった、洗って返すね!」
そう言うと、司はハンカチを奪い取って病室から飛び出していった。
「あ、兄ちゃんまってー」
その後を芳樹がのんびりと歩いて追いかける。
ベッドの上の誰かは、伸ばしかけた手をドアのほうに向けたまま呆然としていた。
「兄ちゃんあの人きれいだったね」
「ああ、まずは友達からはじめるんだ」
司はトイレの洗面台でハンカチを洗いながら、鼻息荒くごしごし。
「よし、きれいになった! さっきと比べて!」
広げたハンカチには、まだうっすらと血のあとがのこっていた。
「血ってなかなか落ちないんだねえ」
芳樹はぼんやりとそんなことをつぶやく。
「そのあたりは土下座でカバーしよう。出発!」
「おー」
二人はさっきの病室へと向かって駆け出す。二人の走った後の廊下には、しぼってないハンカチからたれる水滴が足跡のようにのこっていた。
「さっきはすいませんでしたー!」
と言いながら司はスライディング土下座で病室に入ってきた。
「したー」
その後ろを正座で床をすべってくる芳樹。
「えっ」
突然のことに床の方を見て固まっているベッドの人。
「あ、あの……」
「ハンカチありがとう! ちょっと汚れが残っちゃったけどごめんね」
そういって土下座から顔を上げて片膝立てて、ぽたぽた滴のおちるハンカチをうやうやしく渡す司。
「あ、うん」
素直に受け取ってしまうベッドの人。
司は立ち上がり、にっこり笑いながらベッドのそばに寄る。
「そういえば自己紹介まだだった、僕は司っていうんだ。君は?」
「僕芳樹」
正座で見上げたまま自己紹介してしまう芳樹。
「僕は……アキラっていうんだ」
「へー、きれいな名前だねえ。うん、きれいな人は名前もきれいだ」
うんうんとうなずきながらほめる体勢に入る司。
「……ふ、ふふ、変な人」
口の辺りに手をあてて弱々しく笑うアキラ。
「こほっ、こほっ……」
「あっ、大丈夫?」
咳き込みだしたアキラにあわてて駆け寄る司。
「うん、大丈夫。ちょっと苦しくなっただけだから……」
青白い顔からさらに血の気が失われたような表情、司は不安そうな顔でアキラの顔を覗き込む。
「ごめん、気分が悪くなった?」
「大丈夫、大丈夫だから」
司を落ち着かせるように、やわらかい笑顔をみせるアキラ。心配そうな司。
「どこか悪いの?」
「兄ちゃんここ病院」
「……そうか」
「ふふっ」
兄弟漫才に笑みをもらすアキラ。
「元気出た?」
「うん、ありがとう」
元気を取り戻させて元気を取り戻した司は、またうやうやしくお辞儀をした。
「それではさっそくだけど、お友達になってくれないかな?」
「……お友達」
アキラは少し戸惑ったような表情をした。
「いまならこの弟も付いてくるよ!」
「よっ」
正座していた芳樹は元気よく立ち上がる。
その様子を見ていたアキラは、すこし笑った後、視線をおとしてつぶやいた。
「うん、ありがとう……でも、僕もうすぐ別の病院に移るんだ……」
「えっ」
それを聞いて一瞬沈んだようにみえた司は、即立ち直って明るく言葉を発した。
「大丈夫、たとえ上の口は離れていても、下の口は正直だから」
「兄ちゃん、口って上下があるの?」
芳樹の無邪気な問いにアキラが微笑む。
「ふふ、おもしろいなあ……」
「と、いうことでお友達になろう。今日から僕らは親友だ」
さわやかに言い放つ司。既成事実の構築に余念がない。
「ふふふ、じゃあ、友達にこれをあげるね」
アキラはベッドの枕元からごそごそと何かをとりだした。
司の前に差し出されたのは少し古くなったお守りだった。
「これは?」
「僕のおばあちゃんがくれたお守り。元気になるんだって」
「えっ、いいの?」
「うん、僕にはもう多分いらないから」
そういってアキラはすこしさびしそうに笑った。
「いまちょっと元気出たし、そのお礼」
「……うん、ありがたくいただきます! じゃあ僕は体で返すね!」
「……と、まあそんな感じの話さ」
雄二は真剣な表情で司の話を聞いていた。
「そんなことがあったんですか」
「うん、すごいかわいい子だったよ」
司の顔にすこし影がさしたような気がした。
「それで、その人は今……」
「うん、それがね」
司がそこまで言ったところで、どすどすと重量感のある足音が病室に入ってきた。
「司さん! お元気でしたか!」
その声に振り返った雄二が見たのは、見上げるような巨漢。
盛り上がった胸筋、太い腕、割れた顎。
「おひさしぶりです!」
重低音が病室に響く。
「あの、司さん」
「うん」
「この方は……?」
「うん、あの子」
雄二が再び巨漢の方に顔を向けた。雄二の視線を受けて、ごっつい顔がほんのりと赤らんだ。
「七年でこれだもん、時の流れって残酷だよね」
「……そうですね」
さりげなく目をそらした雄二の目の向こう、窓の外にはさわやかな青空が広がっていた。