第3話 妖精なき幻想
いったい、どれほどのものがここからこぼれ落ちていったのか。それは分からない。自分の見てきた範囲でも、色々なものを失ってきたのだ。もし、視野の外にまで対象を広げるのであれば、それこそどれほど落としてきたのか彼には予想もつかない。
それなら、いったい、どれほどのものをこの手に掴むことができたのか。それこそ、彼の手には全く実感として残っていなかった。
シルクはそんな自分の手を見つめて、深い息を吐いた。気が滅入っている。体は重く、肩は誰かに押さえつけられているみたいだ。
一度、崩れ落ちた膝には力が入らない。暗い部屋の片隅で、シルクはしゃがみこんだまま、今度は強く息を吸い込んだ。
「それでも、僕は立ち止まるわけにはいかない」
彼の掌の上には何も残っていない。それでもシルクは、何かを掴むように力強く握りしめた。
もし、この手に何か残っているのであれば今度は決して離すまい。そんな決意を込めて拳を作る。
絶望に心が折れかけて、動けなくなりそうな時など何度もあった。
今日のこの日を迎えるまでにどれだけの犠牲を出してきたというのだろう。その度に自分が進む道は間違っていないのか、このまま理想などという曖昧な願いを旗印に走り続けるのが果たして正解なのか、いつも自問自答に苦しんできた。
しかし、そんな時に「そんなの、後の歴史家が評価することだろ。おまえはおまえの信じる道を進めばいいじゃないか」と背中を押してくれたのは、他ならぬ失った友の言葉でなかったか。
絶望は大きい。それだけ、彼の存在は大きかった。それは紛れもない、隠すこともできない事実だ。
しかし、である。そんな彼がいなくなったからと言って、彼の言葉に反する行動をしてしまったら、それこそこれまで共に歩んだ道を否定することになってしまう。それだけは、してはいけないとシルクは奥歯を噛みしめる。
「そうだ、覚悟なら、とっくの昔にできていた」
剣を振るうために固くなった掌。すでにこの世にいない彼の父は、シルクが軍人の道を志すことを快く思ってはくれなかっただろう。
それでも、シルクは選んだ。この、幼い時には綺麗だった手が、どれほど血に濡れてしまったとしても。
「僕は、僕の理想を完遂する」
崩れ落ちた膝に、何とか力を入れて立ち上がった。
その、紫の目に迷いはもうなく。
未だに見えてこない、こうであってほしいと願った世界を見つめて。その輝きを強めていた。
「……え、終わり?」
もう、ほとんどページは残っていない。そこまで読んで、洋介は思わず声を上げた。
集中して一気に一冊分を読み切ってしまった。最後にページまで到達した本の、いろいろなところを確認する。
完結の表示はもちろんなく、発行された日付は最近のものであった。どうやら続きを読むには続刊待ちという状況のようだ。何という場面で終わらせているのか、この状態で待たせるのは酷だろうと洋介は唸った。
続きがないのであれば仕方ない。多少後ろ髪を引かれながらも、洋介は手にした本を机の上のブックスタンドに差し込んだ。
繁晴曰く、しばらく洋介の手元に置いておいていいということなので明日学校に持っていく必要はないだろうという判断だ。
そういった事情もあるのだが、この本をひとまず手元に置いておこうと考えている自分に気づいて、洋介は自嘲気味に微笑んだ。
「ずいぶん気に入ってるな、僕」
繁晴が洋介に薦めたもので、洋介がここまで気にいるというのは異例中の異例だ。自分もサインが欲しい、なんてレベルまでは到達していないが十分楽しむことができていた。
続きが発行されたのであれば、おそらく買うことを検討はするだろう。
(う~ん、角田が持ってきたのでもういっこくらいあったかな。ちょっと他のも見てみたいと思ったやつ)
そんなことを洋介が思い出していると、ある拍子に誰かの歌声が脳の中で再生された。そこから、鮮明な記憶が蘇ってくる。
そういえば、一人、心に引っかかった歌手がいたはずだ。
とはいえ、その歌手だって自分で調べて楽曲を手に入れたいという情動までは起こっていない。しかし、町中で聞こえてきたら耳を澄ますだろうなと洋介は考えていた。
確か、その名は何だったか。
「あっ」
洋介はここにきて、ようやく思い出した。
そして、思い当たるのはこの本の作者を目にした時の微かな既視感だ。それは、今まさに思い出したその歌手との名前の一致である。
人気絶頂の最中、ひっそりと芸能界から姿を消した歌姫「美空」。そして、幻遊剣士の作者、「天宮美空」。
偶然の一致ではあろうが、どちらも洋介が気に入ったという共通点があるから、彼は少しだけその偶然を気になりだしていた。
「まぁ、でも」
まずは、繁晴からの依頼の件について考えなければならない。
少なくとも、ファンになったとまではいかないが、続きが気になる程度には本の内容が心に入ってきた。これならサイン会を代わりに行ってやってもいいかもしれない、と洋介は思っている。
もし、作者に感想を求められたら答えられるくらいには洋介はなっている。
キャラクターの心の動き、今後の展開への期待、無難なところではそういったことを作者には伝えられるだろう。
そんな風に考えていたら、洋介に「自分を尋ねたらどうだ」と促してくる疑問が一つあった。
本を読み進めていて、途中から気になりだしたものが今の洋介の心の中で大きく膨らんでいたのだ。
しかし、洋介は振り払うように大きく頭を横に振る。
「……これは言わない方がいいだろうな」
それは、あまりにも洋介という個人しか抱かないであろう疑問なのだ。さすがに、それを作者を前にする想像のシミュレーションで質問例として用意しておくのは気が引けた。
それでも、一度気になりだしたら再び洋介の頭を支配してくる疑問。それを表に吐き出すように洋介は呟いた。
「なんでこの本、妖精は一人も出てこないんだろう」
魔法が出てくるファンタジーだからといって、妖精を出さなきゃいけないわけではない。人間のドラマを描きたかったから亜人の類は最初から排除したと言われてしまえば、不服ではあるものの納得するしかないだろう。
それは、妖精という存在に近い洋介にしか生まれてこない疑問なのだ。他の人に言ったところで「なんで、そんなのを気にするんだ」と怪訝な顔で言われてしまうに決まっている。
――なにそれ。高学年にもなって、そんなの信じてんのか。
洋介の心に、チクッと棘が刺さる。誰かに妖精のことを話そうと考えると、どうしても、幼少の頃の苦い思い出が蘇ってくる。
ライツに会ったことで緩和されたとしても、傷は完全には癒えていなかった。
やっぱり、しまっておくほうがいいんだろうなと洋介は立ち上がって部屋を後にする。心の中では、まだもやもやとしている部分が残っていた。
「なんで、こんなに気になってるんだ。僕は」
その理由は直感でしかない。しかし、その直感が強く「妖精を出さないのは何か理由があるはずだ」と洋介に訴えかけてくる。
創作物を見て、こんな感覚が生まれたのは初めてだった。
洋介は、そんな晴れない感情を懐きながら、件の日曜日を迎えることになるのであった。




