第13話 清き水瓶
夜はますます更けていく。闇はどんどん、その勢力を広げていく。
天の星の光は地に届かず、街灯の明かりすら飲み込んで黒い世界が周囲を溶かし込んでいった。
広がる黒の、その中央には蠢く悪意があった。
その悪しき想いは、空間が裂けて出来た傷跡から、まるで膿の如く溢れ出している。漏れ出た悪意、それは最初ただの黒い影にしか見えなかった。
しかし、時間が立つほどに黒は凝固し、この世に形を作っていく。曖昧な存在感でありながら、この世を蝕む悪となっていく。
悪意は獣に姿を変え、世に放たれる。喜びとも憂いともとれる、奇怪な叫びを吠えながら、獣は夜を駆けた。
そして、ここにも一匹。
犬のような姿をとった黒い獣は、誘い込んだ人間を前にしてニタリと笑っている。本当に笑っているかは分からない。黒の中に、白い牙が見えた。それが、邪悪な笑みに思えるのだ。
「すぅ……」
壁にもたれかかって、女性が寝息をたてている。
彼女に、ここまでやってきた自覚はない。彼女の心は未だに自室で安らかな眠りについている。そんな深い眠りのまま、獣の叫びに体だけ呼び起こされて、ここまで連れてこられた。
もちろん、彼女をここまで連れてきたのは黒き獣であり、目的なその魂を食らうためだ。
そんな無防備な獲物を前に、牙だけが白い大きな口を開ける獣。その歯が、女性にあたろうか、そんな刹那のとき。
獣は後ろに飛びのいた。その様子は、明らかに慌てふためいている。
雨だ。
雨粒が、獣の鼻を打った。それだけなら何の問題はないといえる。しかし、雨だと感じること、それ自体が問題なのだ。
獣には感覚も思考もない。ただ、食らいたいという欲求のみ。それだけが行動原理であり、獣の全てだ。
そんな獣が「冷たい」と感じた。これは自己の存在を揺るがす事件だ。獣は、己の生存欲求を叶えるために周囲を警戒し始める。まだ認識できぬ敵に向かって、吠える。
しかし、それは無駄な防御だった。やがて、大粒の雨が獣の体を何度も叩く。その度に、獣は冷たさに凍えそうになった。
「グワゥ」
震える体から、ついには認識できる叫びを発して、獣は見るからに苦しみだす。その、存在そのものを洗い流そうとする雨から逃れたくて、獲物を前にして獣は逃げ出した。
そんな獣の虚ろな目に光が映る。それは月なき暗い夜に、天の星々よりと似た、それよりもはるかに強い輝き。
「どこに行くのかな?」
闇夜に映える、金色の長い髪を携えた少女が獣の行く手を遮る。その瑠璃色の瞳に、獣は自分の姿を見つけた。
少女の背中には大きな二対の翅。それは、見ている内に光の質を変え、七色の光を放っていた。
月の明かりを補ってあまりある、無数の輝きが彼女を包んでいる。
妖精界の危機を救ったとされる、星の妖精王。その伝説が獣の前に具現化している。
「悪いことするっていうなら、ここは通さないから」
伝説の名は『星使い』、『星使い』ライツ。
ライツは母から受け継ぎ、これからの未来のために封印していた護るための力。それを今を護るために解放していた。
ライツの手にした杖から、清き水が天に向かって放たれている。
あれか。
獣は自身の苦しみの根源を認識する。あれを何とかしなければ、自分はいなくなってしまう。己の存在をかけて、獣は牙をライツに突き刺そうと飛び掛かった。
そんな獣の動きに合わせて、ライツは杖を一回大きく振るうと、獣に向けて突き出した。
(まっさらにしてあげるからっ)
その杖にこめる意思は、「浄化」だ。ライツはこの、黒に支配された状況が気持ち悪くてしかたない。その全てを洗い流すために、イメージしたのは永久に湧き出でる清き水の流れ。
獣が敵視する雨も、そんな意思で生まれた術によるものだ。その雨で、獣は苦しんだ。
雨だけでは足りないというのなら、直接浴びさせてやろう。ライツはあと少しに迫った獣の牙を睨み、それを目掛けて構築した術を発動させる。
「『永劫尽きぬ清廉な水源』よ!」
杖はきらめき、先端から水が走る。激流となったそれは、容易に獣の全身を飲み込んだ。
獣は声もなく、その清き流れに己の存在ごと洗い流されてしまった。
ライツが生み出した水は、水のように見えて水ではない。
世界は光や闇、色々な力があって存在している。しかし、今のこの町のように極端にバランスの崩れた世界が生まれることがある。
『永劫尽きぬ清廉な水源』は、そんな世界を修正する力を持つ。ちなみに直接浴びたものは、己の力を削られることになる。
分かりやすく言えば、味方の異常を回復し、敵対する相手に異常を生む。それが『永劫尽きぬ清廉な水源』という術なのだ。
歪んだ力そのものであった獣は、そんな水によって全てがかき消されてしまった。
「ふぅ」
気持ち悪さが若干軽減された、静かな町を見つめてライツは小さく息を吐いた。
(これで、さっきの人もだいじょうぶかな)
ライツが上空から様子を見ていた時に見つけた、この場所に眠りながらやってきた人。その人も『永劫尽きぬ清廉な水源』を浴びたのなら、洋介の母と同じように、またふらふらとした足取りで自宅に戻っていくだろう。
「けっこうキレイにしたはずなんだけど、それでも、やっぱまだ気持ち悪いなぁ」
ライツはキョロキョロと周囲を見渡す。洋介の頭の上にのって一緒に歩いた道は、夜だから、という理由では説明できないほどに不気味な静けさが広がっていた。
何度か、黒い獣を相手にした。その度に、ライツの中に不快感が積みあがっていく。
(こんなにしちゃって。いったい誰がやってるの)
ライツは頬を膨らませる。洋介の住んでいる町がおかしくされているのは、彼との思い出が汚されているようで我慢ができなかった。
そんな憤慨する彼女に。再び白い牙が襲いかかる。
「!?」
ライツは背中に迫るその気配に対して、振り向きざまに杖を下から上に振り上げた。確実にとらえたそれは、獣の体を通過する。
(まただ)
ライツは眉根を寄せて、何もいなくなった虚空を見つめる。確かに獣が襲ってきたはずなのだが、その痕跡が残っていない。
「真っ二つになったのは見えたんだけどなぁ」
ライツの手にも感触が残っていない。まるで、煙でも叩いたようだ。
そんなことを何度も繰り返し、ライツは明らかに苛立っていた。
真正面から相手をしてくれるのなら、どんなに怖い相手にも立ち向かえる勇気がライツにはある。しかし、ここまで手ごたえがないとライツは自分が何のために動いているのか分からなくなっていく。
「うん、みんなを元に戻すのをがんばろっ」
そう、ライツは自分を納得させて、さらに嫌な気配の多いところに向かって飛び立った。




