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案内されたのは、特別棟の三階だった。
渡り廊下を越えると、生徒の気配が急に薄くなる。
音楽室や美術室が並ぶ区画からも離れていて、廊下の端には使われていない机やパネルが寄せられていた。照明は点いているが、窓から差し込む夕方の光の方が強い。
「ずいぶん端にありますね」
「活動内容を考慮して、静かな場所を用意してもらった」
「追いやられたのでは」
「学校側との解釈に多少の差はある」
肯定だった。
小夜先輩は廊下の一番奥で立ち止まった。
扉には、白い紙が一枚貼られている。
『地域文化・伝承実地調査同好会』
印刷された文字の下に、小さく手書きで、
『資料室兼用』
と書かれていた。
「兼用なんですね」
「正確には、以前は社会科資料準備室だった」
「現在は?」
「社会科資料準備室でもある」
「同好会の領土が存在してませんよ」
「棚二つと机一つについて、正式な使用許可を得ている」
「思ったより狭いですね」
小夜先輩は無言で扉を開けた。
少し傷つけたかもしれない。
部屋の中には、古い地図やファイルを収めた金属製の棚が並んでいた。教室の半分ほどの広さしかなく、中央には長机が二つ置かれている。
窓際の一角だけ、明らかに使われ方が違った。
壁には櫛波市の地図。
机にはノートパソコン、録音機、カメラ、方位磁石。
棚には地域ごとに分けられたファイルが並び、それぞれの背表紙に、
『学校』
『海岸』
『旧市街』
『神社・寺院』
『失踪・行方不明』
『未分類』
と書かれている。
もっと、雑誌の切り抜きや骸骨の模型が散らばった部屋を想像していた。
実際には、市役所の小規模な調査部署に近い。
「意外そうだな」
小夜先輩が鞄を机へ置きながら言った。
「もっと怪しい部屋だと思ってました」
「怪しい部屋とは具体的に何だ」
「壁に赤い文字が書いてあるとか」
「備品を汚す活動は認められていない」
「蝋燭が並んでるとか」
「火気厳禁だ」
「黒いローブがあるとか」
「動きにくいだろう」
一つずつ、実用性の問題として否定された。
「先輩、怪談の雰囲気には興味ないんですね」
「雰囲気は記録精度を上げない」
そう言いながら、小夜先輩は棚から黒いファイルを取り出した。
表紙には白いラベルで、
『榊野高校・中庭第五ベンチ』
と書かれている。
噂一つに専用ファイルが作られていた。
「座れ」
「面接が始まりそうですね」
「説明だ。採用はすでに決まっている」
「決まってません」
俺は長机の端に座った。
椅子を引くと、脚が床を擦って大きな音がした。
小夜先輩は向かいではなく、俺の隣へ座った。
距離が近い。
肩に触れるほどではないが、机の上の資料を一緒に見るには近すぎない程度だった。
横から見ると、白に近い髪が夕日に透けている。
見た目だけなら、やはりかなり好みだった。
黙っていれば。
「聞いているか?」
「聞いてます」
「まだ何も話していない」
「これから聞きます」
小夜先輩が不審そうに俺を見た。
俺はファイルへ視線を落とした。
今後、近距離で話す必要があるなら、もう少し表情を管理した方がいいかもしれない。
小夜先輩はファイルを開いた。
最初に出てきたのは、中庭の写真だった。
四角い植え込みを囲むように、木製のベンチが四脚置かれている。俺も何度か見た場所だ。
「現在、中庭に設置されているベンチは四脚。二〇一四年の校舎改修に合わせて交換されたものだ」
「噂はそれより前からあるんですよね」
「ああ。確認できた中で最も古い記録は、一九九八年の学校新聞だ」
小夜先輩は透明な袋に入れられたコピーを出した。
紙面の端に、小さな怪談特集が載っている。
印刷がかすれていて読みにくい。
『放課後の中庭には、数えてはいけない椅子がある』
見出しには、そう書かれていた。
「ベンチではなく椅子になってますね」
「当時は現在のような長椅子ではなく、一人用の石製腰掛けが設置されていた」
次に出されたのは、古い校舎配置図だった。
中庭には、小さな四角が四つ記されている。
「つまり、昔から四つだった」
「ああ」
「でも噂には五つ目が出る」
「正確には、数え方によって五つ目が現れるとされている」
「数え方?」
小夜先輩は別の紙を見せた。
手書きの文字を、読みやすいように打ち直したものだった。
『三階の東側から見下ろすと、四つの椅子の間にもう一つある。そこには生徒が座っている。手を振ると、翌朝、その生徒のための机が教室に増えている』
「……机が増えるだけですか」
「その後の記録では、そこに誰かが座っていたとされている」
「誰かって」
「分からない。名前も学年も書かれていない」
「知らない生徒の席が増えて、誰も疑問に思わないんですか」
「記録上はな」
小夜先輩の声が少し低くなった。
「翌日には、最初からその生徒がいたことになっている。噂を知っていた者だけが違和感を持つ。ただし、その違和感も数日以内に消える」
話としては、それらしい。
証明しようがない点も含めて、怪談としてよくできている。
「その生徒は何をするんですか」
「普通に学校生活を送るらしい」
「危害は?」
「確認されていない」
「では、増えても問題ないのでは」
「定員と机の配置に問題が出る」
「そこですか」
「学校運営上、無視できない」
小夜先輩は真顔だった。
「それに、本当に人間が一人増えているなら重大な異常だ。本人の戸籍、家族、記憶がどう処理されるのか。既存の生徒が置き換えられている可能性もある」
「急に怖くなりましたね」
「最初から怖い話だ」
「先輩が机の配置を気にするから、危機感が薄れたんです」
小夜先輩は少し不満そうに資料をめくった。
自分の説明に問題があるとは思っていないらしい。
「目撃条件は複数ある。放課後であること。校舎内から中庭を見ること。観測者が一人ではないこと。雨上がりであること。四月であること。新入生が含まれていること」
「多すぎませんか」
「証言ごとに異なる。どれが正しいかは分からない」
「条件を全部満たすんですか」
「可能な範囲でな。今日は四月で、放課後で、観測者は二名。そのうち一人は新入生だ」
小夜先輩が俺を見た。
「俺を選んだ理由、それですか」
「理由の一つだ」
「さっきは冷静そうだからみたいな雰囲気を出してましたよね」
「冷静そうな新入生だった」
「新入生が先に来るんですね」
「条件を満たさなければ調査にならない」
言い方は堂々としているが、少しだけ視線が泳いだ。
どうやら最初から噂の条件に使うつもりだったらしい。
「ちなみに今日、雨は降ってませんけど」
「雨上がり説は採用していない」
「都合よく外しましたね」
「信頼性が低い証言だからだ。雨上がりと書かれているのは一件だけで、その記録ではベンチが七脚に増えている」
「五脚目の噂では」
「二脚ほど多い」
「誤差みたいに言わないでください」
小夜先輩はもう一枚、校舎の平面図を広げた。
三階と四階の窓に赤い丸が付けられている。
「今日は、この五か所から中庭を観測する」
「五か所」
「位置によって見える数が違う可能性がある」
「一か所見て終わりでは」
「不足だ」
「三十分で終わる話でしたよね」
「説明に時間を使いすぎたな」
「俺の質問も含めて計算してください」
「質問の質が予想より高かった」
褒められているのか、所要時間増加の責任を負わされているのか分からない。
小夜先輩は立ち上がると、机の上へ道具を並べ始めた。
カメラ。
双眼鏡。
メモ帳。
腕時計とは別に、小さなアナログ時計。
方位磁石。
「全部使うんですか」
「時刻と方位によって見え方が変わる可能性がある」
「双眼鏡は必要ですか。中庭ですよね」
「細部を見るためだ」
「ベンチの細部を?」
「座っている人物の顔が見えるかもしれない」
「手を振るつもりですか」
小夜先輩の手が止まった。
「振らない」
「今、選択肢に入ってましたよね」
「確認しただけだ」
「何をですか」
「君が止めるかどうかを」
「俺を安全装置にしないでください」
小夜先輩は何事もなかったようにカメラを首へかけた。
分かりやすくごまかされた。
「では行くぞ」
「先に確認しますけど、本当に見るだけですよね」
「ああ」
「手も振らない」
「振らない」
「中庭にも降りない」
「現時点では」
「現時点では?」
「必要が生じた場合は再検討する」
「今、帰った方がいい気がしてきました」
「君は一度参加すると言った」
「契約内容が変わった場合は無効です」
「変わっていない。今日は観測だけだ」
小夜先輩は一瞬考え、付け加えた。
「中庭に降りる場合は、事前に君の同意を得る」
「絶対に同意しませんよ」
「そのとき判断すればいい」
「答えはもう出てます」
それでも小夜先輩は、交渉の余地が残っているような顔をしていた。
*
最初の観測場所は、特別棟三階の北側廊下だった。
窓から見下ろすと、中庭全体が斜めに見える。
中央には植え込み。
その周囲に、四脚のベンチ。
数えるまでもない。
「四つですね」
「まだ一分も観測していない」
「急に増えるんですか」
「可能性はある」
小夜先輩は窓枠にカメラを置き、何枚か撮影した。
次に双眼鏡を覗く。
「何か見えますか」
「ベンチが四脚見える」
「精度が上がっただけですね」
「一本目のベンチの下に、空き缶がある」
「調査結果に入れるんですか」
「管理状態の記録にはなる」
「怪異が出なくても成果を作るつもりですね」
「調査に無駄はない」
小夜先輩はメモ帳へ何かを書き込んだ。
横から見ると、
『第一観測点・異常なし。ベンチ下に空き缶一個』
とある。
本当に記録していた。
「拾いに行きませんよね」
「今日は観測だけだ」
「少し残念そうですね」
「校内環境は清潔であるべきだ」
「怪異より先に美化委員会へ入った方がいいのでは」
小夜先輩の筆圧が少し強くなった。
二つ目の観測場所へ移動する。
今度は中央棟の四階だった。
ここからは中庭をほぼ真上から見下ろせる。
放課後の校舎にはまだ生徒が残っている。遠くから吹奏楽部の音が聞こえ、校庭では運動部が走っていた。
怪談の調査というより、校内を案内されている気分だった。
「先輩は、この噂をいつ知ったんですか」
窓際へ向かいながら尋ねた。
「去年の六月だ。卒業生が運営している掲示板に書き込みがあった」
「一年近く調べてるんですか」
「断続的にな。四月限定という証言があったから、去年は条件を満たせなかった」
「新入生も必要だった」
「ああ」
「それで入学直後から勧誘してたんですか」
「三人に声をかけた」
「俺で四人目?」
「いや、君が三人目だ」
「前の二人には断られたんですね」
小夜先輩は窓の鍵を確認するふりをした。
「一人は運動部へ入る予定があった」
「もう一人は」
「話の途中で立ち去った」
「正しい判断ができる人ですね」
「最後まで聞かずに判断するのは感心しない」
「最後まで聞いた結果、俺は断れなくなってますけど」
「情報を得た上で選択したのだから、より望ましい」
「勧誘した側の感想ですよね」
小夜先輩は窓から中庭を見下ろした。
ベンチは四脚。
俺にも同じように見える。
「変化は」
「ない」
「でしょうね」
「断定が早い」
「さっきから同じ景色を見てます」
「観測する前から結果を決めるな」
少し強い口調だった。
俺は小夜先輩の横顔を見る。
彼女は本気で中庭を見つめていた。
冗談半分で怪談を追っているわけではない。
何かが現れると信じ切っているようにも見えなかった。ただ、現れないと決めつけることも拒んでいる。
その態度だけは、少し分かる気がした。
分からないものを、最初からないことにする。
それは効率的だが、正しいとは限らない。
「先輩は、怪異が出てほしいんですか」
聞くと、小夜先輩は双眼鏡を下ろした。
「なぜそう思う」
「期待してるように見えるので」
小夜先輩はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を戻す。
「出てほしいわけではない」
「では、出ない方がいい?」
「それも違う」
少し考え、言葉を選ぶ。
「本当に存在するなら、存在するという結果が欲しい。存在しないなら、存在しないと判断できるだけの情報が欲しい」
「どちらでもいいんですか」
「分からないままなのが一番よくない」
その声には、さっきまでの勢いがなかった。
大げさな信念を語るというより、自分の中ではすでに当たり前になっていることを説明しているようだった。
「噂が嘘だったら、時間の無駄では」
「嘘だと分かるなら無駄ではない」
「噂が嘘だと証明するのは難しいですよ」
「ああ。だから今日出なかっただけでは、結論は出せない」
「また調べるんですね」
「条件を変えてな」
「参加者は別の人を探してください」
小夜先輩の顔がこちらへ向いた。
「まだ調査は終わっていない」
「今後の予約を拒否しただけです」
「結果を見てから判断しても遅くない」
「五脚目が出たら、もっと参加したくなくなります」
「出なければ?」
「時間を使う理由がなくなります」
「どちらに転んでも入部しないのか」
「最初からそう言っています」
小夜先輩は納得できないように眉を寄せた。
怪異の存在より、俺の入部意思の方が理解しにくいらしい。
*
三か所目。
四か所目。
五か所目。
どの窓から見ても、ベンチは四脚だった。
小夜先輩は観測位置ごとに写真を撮り、方角と時刻を記録した。途中で校庭側からボールが飛んできて窓に当たり、俺が驚いた以外には何も起きなかった。
最後の観測場所は、本校舎三階の東端だった。
噂の中で、最も多く名前が挙がっている窓らしい。
窓の前には、古い木製の机が置かれていた。
小夜先輩はそれを少し横へ動かし、カメラを構える。
夕日はすでに校舎の向こうへ傾き、中庭の半分が影に入っていた。
ベンチも植え込みも、昼間より輪郭が曖昧に見える。
「今、いくつに見える」
「四つです」
「よく見ろ」
「よく見ても四つです」
「影に重なっている可能性がある」
「ベンチが増えたというより、先輩の判定基準が緩くなってませんか」
「黙って三十秒見てくれ」
俺は言われた通り、窓の外を見た。
左手前に一脚。
右手前に一脚。
奥に二脚。
計四脚。
中庭には誰もいない。
風で木の葉が動いている。
遠くで部活動終了を知らせるチャイムが鳴った。
三十秒待つ。
何も変わらない。
「四つです」
「そうか」
小夜先輩は短く答えた。
期待していたのだろう。
声にわずかに落胆が混じっている。
だが、すぐにメモ帳を開いた。
「本日、五か所すべてで異常なし。観測時間は十六時五十七分から十七時四十三分。天候は晴れ。気温は――」
「温度まで必要ですか」
「後で条件と比較できる」
「次もやる前提ですね」
「調査は一度で終わらない」
「俺の参加は一度で終わります」
小夜先輩は書く手を止めた。
「本当に入らないのか」
「入りません」
「活動を見た上で?」
「見たからです」
「危険はなかった」
「今日は」
「調査も計画的だった」
「予定時間は超えました」
小夜先輩が腕時計を見た。
午後五時四十六分。
最初に聞いた五十分を、かなり過ぎている。
「説明に想定以上の時間がかかった」
「先輩の説明が長かったんです」
「君の質問も多かった」
「質問しなければ、知らないまま連れていかれたでしょう」
「質問できる環境だったということだ」
「長所に変換しないでください」
小夜先輩は口を閉じた。
反論を考えている顔だったが、今回は思いつかなかったらしい。
俺は窓から離れた。
何も起きなかった。
怖い思いもしていない。
少し歩かされ、予定より帰宅が遅くなっただけだ。
小夜先輩が危険人物かどうかは、まだ判断しきれない。
少なくとも、嘘の現象をでっち上げて入部させようとはしなかった。五脚目が見えないことを、見えたと言い張ることもしない。
記録は細かく、仮説と事実も一応分けている。
普通のオカルト好きよりは、かなりまともなのかもしれない。
まともな人間が、放課後にベンチの数を五か所から確認しているという矛盾は残るが。
「今日はありがとうございました」
俺は鞄を持ち直した。
「礼を言う必要はない。こちらが頼んだことだ」
「では帰ります」
「待て」
「礼を言っても止められるんですか」
「最後に確認がある」
小夜先輩はメモ帳を閉じ、俺の前へ回った。
さっきまでの落胆はもう薄れている。新しい仮説でも思いついたらしい。
「君は、途中で何か違和感を覚えなかったか」
「特には」
「時間が飛んだ感覚は」
「先輩の説明で時間が消えた感覚ならあります」
「記憶の欠落は」
「ありません」
「見覚えのない生徒を見なかったか」
「先輩以外は」
「私は見覚えがあるだろう」
「今日初めて会いました」
「もう一時間以上行動している」
「見覚えが形成される基準が低いですね」
小夜先輩は一瞬、何か言い返しかけた。
しかし、やめた。
「他には?」
「ないです。本当に何も起きませんでした」
「そうか」
今度は素直にうなずいた。
「では、今日のところは終了だ」
「ようやく帰れますね」
「ああ。協力に感謝する」
「今後は勧誘しないでください」
「今日はしない」
「その条件、最初から変わってませんよね」
小夜先輩はメモ帳を鞄へしまった。
「今日得られた結果を整理した上で、必要なら改めて説明する」
「それを勧誘と言います」
「調査結果の共有だ」
「共有した後、参加を求めますよね」
「結果による」
「もう聞かないことにします」
俺は先に歩き出した。
後ろから、小夜先輩の足音が追いついてくる。
「昇降口まで送ろう」
「校内ですよ」
「調査協力者を安全に帰すまでが活動だ」
「何も起きてないですよね」
「何も起きていないからといって、帰路まで何も起きない保証はない」
「そういうことを言うと、普通の下校まで怖くなるんですよ」
「警戒心は重要だ」
「先輩と会う前は、廊下を歩くのに警戒心なんて必要ありませんでした」
小夜先輩は少し考えた。
「知識が増えたな」
「生活の質が下がった気がします」
廊下を並んで歩く。
窓の外では、運動部の生徒たちが片づけを始めていた。吹奏楽部の音も止み、校舎は少しずつ静かになっている。
「それにしても、残念だった」
小夜先輩が言った。
「五脚目が出なかったことですか」
「ああ」
「出たら困るでしょう」
「困る。だが、出なければ分からないままだ」
「噂が嘘だった可能性は、候補に入らないんですか」
「入っている」
「一番上には?」
「まだ置けない」
「なぜです」
「今日、発生条件を満たしていなかった可能性がある」
「噂が嘘だった可能性より先に、それを考えるんですね」
「両方考えている」
「表情が発生条件の方に期待してますけど」
小夜先輩がこちらを見た。
「そんなに分かりやすいか」
「思ったよりは」
「改善の余地があるな」
「隠す方向へ改善しないでください」
「調査者は感情を観測対象へ伝えるべきではない」
「俺は観測対象じゃありません」
小夜先輩は返事をしなかった。
「今、違うんですか」
「少なくとも今日は協力者だ」
「今日は、という部分が気になります」
「細かいことを気にするな」
「先輩の活動、細かいことを気にするためのものですよね」
小夜先輩は少しだけ頬を膨らませたように見えた。
だが、すぐに前を向いた。
「君は思ったよりよく話すな」
「先輩が話させてるんです」
「教室では大人しいと聞いた」
俺は足を止めかけた。
「誰に聞いたんですか」
「一年の教室を見れば分かる」
「教室を見てたんですか」
「勧誘候補を探していた」
「思ったより計画的に狙われてますね」
「一人で帰ろうとしていて、荷物が少なく、周囲をよく見ていた。声をかけられても逃げなかった」
「最後は判断を間違えました」
「今日の調査では役に立った」
「何も見つけてませんけど」
「私の説明の穴をいくつか指摘した。観測中も、先入観で見えたと言わなかった」
「普通では」
「普通にできる者は意外と少ない」
小夜先輩の声は、少しだけ柔らかかった。
褒められる準備をしていなかったので、返事が遅れた。
「……そうですか」
「ああ。だからまた頼むかもしれない」
「そこへつなげるんですか」
「評価と勧誘は別だ」
「今、同じ文章の中に入ってましたよ」
小夜先輩は楽しそうに笑った。
初対面のときより、少しだけ表情が幼く見える。
こうして普通に笑っていれば、変わった先輩という程度で済むのかもしれない。
ただ、その直後に鞄の中で塩の容器が音を立てた。
やはり近づかない方がいい。
昇降口へ着く。
外はまだ明るかったが、空は少し橙色に変わっていた。
「では、俺はこれで」
「ああ。今日は助かった」
「次はありませんからね」
「現時点では了解した」
「現時点では、を付けないでください」
「未来の判断を現在の私が拘束するのは適切ではない」
「先輩の未来だけ自由ですね」
靴を履き替え、昇降口を出る。
数歩進んだところで、背後から声がした。
「みつき」
振り返る。
小夜先輩が扉の内側に立っていた。
そういえば、俺は自分の名前を名乗っただろうか。
教室を見ていたなら、座席表でも確認したのかもしれない。
「何ですか」
「五脚目が出ても、手を振るなよ」
「出ませんでしたよ」
「今後の話だ」
「今後も見ません」
「念のためだ」
「先輩こそ振らないでください」
小夜先輩は一瞬、目をそらした。
「振るつもりだったんですか」
「仮説検証には必要な場合がある」
「絶対に一人でやらないでください」
言ってから、少し後悔した。
これでは、次の調査に関心があるように聞こえる。
小夜先輩の顔がわずかに明るくなった。
「では、次は同行するか?」
「しません」
「今、一人でやるなと」
「やるなと言ったんです。誰かとやれとは言ってません」
「論理的にはその通りだな」
「納得したなら、諦めてください」
「検討する」
諦めない返事だった。
俺は今度こそ背を向けた。
校門へ向かいながら、今日の出来事を思い返す。
五脚目のベンチは現れなかった。
怪異も幽霊も出なかった。
ただ、変わった先輩に捕まり、校内を一時間近く歩き回った。
失ったのは少しの時間だけだ。
部活に入るつもりもない。
小夜先輩と今後関わる理由もない。
それなのに、最後に見た彼女の少し残念そうな顔が、妙に頭に残った。
あれだけ調べて、何も出なかったのだ。
本人にとっては、笑って終わらせられるほど軽いことではないのかもしれない。
だからといって、俺が付き合う理由にはならない。
そこは明確に分けて考えるべきだ。
他人が熱心だからといって、自分まで同じものへ時間を使う必要はない。
俺はそう結論づけた。
その結論は、かなり正しいと思う。
少なくとも、数日後に小夜先輩が再び教室へ来るまでは。




