3
振り返った。
最初に目に入ったのは、白に近い銀色の髪だった。
肩には届かない程度の短い髪が、開いた窓から入る風にわずかに揺れている。大きめのカーディガンの袖から覗く手は小さく、背丈も俺の肩よりかなり低い。
一瞬、中学生が校内へ迷い込んだのかと思った。
けれど胸元のリボンの色は二年生のものだった。
先輩は俺の前まで来ると、少し息を整えた。追いかけてきたらしい。
灰色の瞳が、俺の顔から鞄、足元へと動く。
人を見るというより、現場の状況を確認している目だった。
「君、放課後は暇だろう」
第一声で、外見から受けた好印象の大半が消えた。
「初対面の相手にする確認ではないと思います」
「否定しないのか」
「否定材料がないだけです」
先輩は満足そうにうなずいた。
何に満足したのか分からない。
「やはり私の見立ては正しかった」
「人の予定がないことを見抜いて達成感を得ないでください」
「予定がないのは悪いことではない。予定とは、未来の自由時間を先回りして消費する行為だからな」
「勧誘する側が言うことではないですよね」
先輩の口元から、わずかに笑みが消えた。
今から俺の未来の自由時間を消費するつもりだったらしい。
しかし、すぐに何事もなかったような顔へ戻る。
「私は久世小夜。二年生だ」
「はい」
「今、一瞬疑ったな」
「何をですか」
「私が二年生であることを」
「自己紹介の途中で尋問を始めないでください」
小夜先輩は目を細めた。
どうやら図星だったらしい。
年齢について触れると面倒なことになりそうなので、俺は話題を進めることにした。
「それで、何か用ですか」
「ああ。君を勧誘しに来た」
小夜先輩は肩にかけていた小さな鞄を開けた。
中から一枚の紙を取り出す。
紙の上部には、明朝体で長い名前が印刷されていた。
『地域文化・伝承実地調査同好会』
その下には、古い神社や石碑、地域の祭りを撮影した写真が並んでいる。学校へ提出する資料としては、かなり真面目に作られていた。
「地域の伝承や風習を調査し、文化的背景を記録する同好会だ」
「郷土研究みたいなものですか」
「学校にはそう説明している」
「実際は違うんですね」
小夜先輩は一度口を閉じた。
隠す気がある人間の間ではなかった。
「地域で報告される不可解な現象を調査している」
「不可解な現象」
「平たく言えば、怪異、幽霊、妖怪、呪物、都市伝説だな」
「帰ります」
「待て」
肩をつかまれた。
力は弱かったが、迷いがなかった。
俺は足を止めて、小夜先輩を見る。
「今ので入ろうと思う人がいるんですか」
「いる可能性を考慮して、正直に説明した」
「説明の問題ではありません」
「では、名称がよくないのか。超常現象研究会」
「さらに悪化しました」
「民間伝承観測部」
「言い換えても活動内容は変わりませんよね」
小夜先輩は少し考え込み、手元の紙へ視線を落とした。
本気で名称の問題だと思っていたらしい。
見た目に反して、表情が分かりやすい。
黙って立っていれば、もう少し近寄りがたい雰囲気になるだろう。実際には、考えていることが目元や口元にかなり出ている。
今も、勧誘のどこを間違えたのか検証している顔だった。
「部員は何人いるんですか」
なぜか聞いてしまった。
小夜先輩の顔が上がる。
「現在、一名だ」
「先輩だけですよね」
「顧問を含めれば二名だ」
「顧問は部員ではありません」
「部室へ定期的に姿を見せる人間として数えた」
「定義を都合よく変更しないでください」
小夜先輩は不服そうに眉を寄せた。
「正式な部活動には五名必要だが、同好会なら一名でも活動できる」
「では俺を勧誘する必要はないのでは」
「必要はある」
今度は即答だった。
その目が急に真剣になったので、俺は少しだけ姿勢を正した。
「一人では、複数人による観測結果の比較ができない。私自身に異常が起きたとき、それを確認する者もいない。記憶の欠落や認識の変化が起きれば、調査記録そのものが信用できなくなる」
「それは」
思っていたより、まともな理由だった。
少なくとも、友達が欲しいから手近な一年生を捕まえたわけではないらしい。
いや、それならそれで、少し安心できたかもしれない。
今の説明だと、俺は異常が発生した際の比較対象か、安全確認用の人員として求められている。
「要するに、何かあったときの保険が欲しいと」
「かなり雑な要約だが、おおむね正しい」
「本人の前で認めないでください」
「安心してくれ。危険な役割は私が担当する」
「それは安心材料になってません。先輩が倒れた後、俺が一人で残されるだけでしょう」
小夜先輩の目がわずかに見開かれた。
次いで、感心したように何度かうなずく。
「いい指摘だ」
「採用面接みたいに評価しないでください」
「君は状況の先を考えられる。やはり向いている」
「断る理由を話したはずです」
「同じ情報から、私たちは異なる結論を得たようだな」
「先輩の結論だけ明らかにおかしいです」
廊下の向こうを、何人かの生徒が通り過ぎた。
こちらを見ている。
銀髪で小柄な先輩が、一年生の男子を壁際で引き止めているのだから、多少目立つのは当然だった。
入学して一週間。
クラス内での印象もまだ固まっていない段階で、変わった先輩に廊下で捕まっているところを見られるのは避けたい。
俺は小声になった。
「とにかく、部活には入りません」
「なぜだ」
「危なそうだからです」
「危険なことはしない」
「さっき、自分に異常が起きる可能性の話をしていましたよね」
「あれは一般論だ」
「一般的に発生し得る危険ですよね」
「現時点で、重大な事故は一度も起きていない」
「軽微な事故は起きている言い方ですね」
小夜先輩の視線が、ほんの少し横へそれた。
「何があったんですか」
「去年、床が抜けた」
「帰ります」
「古い物置だった。怪異とは無関係だ」
「普通の事故まで追加されるんですか」
「だからこそ、今年はロープを用意した」
「改善方法が現場作業なんですよ」
小夜先輩は鞄を開け、細いロープの束を少しだけ見せた。
本当に持ち歩いていた。
ほかにも懐中電灯、録音機、ビニール袋、救急用品らしき物が詰め込まれている。
部活動というより、防災訓練へ向かう人の荷物だった。
その中に、塩と書かれた小さな容器がある。
「それは」
「食塩だ」
「見れば分かります。何に使うんですか」
「怪異への対処に使う可能性がある」
「効果は」
「相手による」
「効果がある相手を見たことは」
「ない」
「調味料を持ち歩いているだけでは」
「いざというとき、ゆで卵にも使える」
「用途が後退しましたね」
小夜先輩は塩を鞄へ戻した。
少し悔しそうだった。
この人は、思っていた種類の変人とは少し違う。
もっと一方的に奇妙な話を信じ、こちらの話など聞かない人物を想像していた。けれど俺の指摘には一応反応するし、説明できないことを完全に知っているふりもしない。
だからといって、同行したいとは思わなかった。
話が通じる変人は、話が通じない変人より断りにくい。
「正式に入部する必要はない」
小夜先輩が言った。
「体験参加でいい」
「行きません」
「一度だけでいい」
「一度行くと、次も誘いますよね」
「君が望まなければ強制はしない」
「今、帰ろうとしている俺を強制的に止めてますけど」
小夜先輩は俺の肩に置いていた手を見た。
忘れていたらしい。
ゆっくり手を離す。
「これは勧誘のための静止だ」
「強制の言い換えですよ」
「では、改めて対等な立場で交渉しよう」
そう言って、小夜先輩は一歩下がった。
そして姿勢を正す。
対等な立場を演出しているのかもしれないが、俺との身長差のせいで、少しだけ見上げる形になった。
「榊野高校の中庭に関する噂を知っているか」
「知りません」
「中庭にはベンチがいくつあると思う」
「四つだったと思います」
「正解だ」
小夜先輩の目に、急に光が戻った。
先ほどまで塩の用途で押されていた人とは思えない。
「しかし放課後、校舎の窓から中庭を見ると、五脚目のベンチが現れることがある」
「見間違いでは」
「私も最初はそう考えた。だが、複数の卒業生が別々の時期に同じ噂を書き残している。校舎の改築前にも、現在とほぼ同じ内容の記録がある」
「元の噂を読んだ人が真似して話した可能性もありますよね」
「ある」
小夜先輩はあっさり認めた。
「ベンチの設置記録、過去の校内図面、生徒会誌、学校新聞も確認した。現段階では、実在する現象か、長期間維持されている単なる噂かは判断できない」
「単なる噂だった場合は」
「何も起きずに終わる」
「その可能性が一番高そうですね」
「だから安全だ」
「調査の魅力まで消えてますよ」
「危険だから嫌だと言ったのは君だろう」
正論のような顔で言われた。
少し腹が立つ。
「見るだけだ。校舎内から中庭を確認する。外へは出ない。日没前に終える。立入禁止区域にも入らない」
「先輩一人でできるのでは」
「観測位置によって見える景色が異なる可能性がある。それに二人いれば、一方だけが五脚目を認識した場合も比較できる」
「何も見えなかったら」
「帰る」
「その後は」
「今日のところは勧誘しない」
「今日のところは、という部分を削ってください」
小夜先輩は唇を引き結んだ。
条件交渉に入ったと判断したらしい。
俺は参加すると言った覚えはない。
それなのに、話しているうちに、断るための理由を一つずつ処理されている。
危険な場所へ行くわけではない。
時間もそれほどかからない。
何も起きなければ帰れる。
それでも行きたくないのは、単純に面倒だからだ。
だが、「面倒だから」という理由だけで、ここまで熱心に話す相手を拒み続けるのは妙に疲れる。
小夜先輩は返事を待っていた。
期待を隠そうとはしているようだが、目元には隠せていない。
少し前まで、知らない一年生を調査の保険として勧誘していた人間の顔ではない。
本当に、その五脚目のベンチを確かめたいのだろう。
「……どれくらいかかりますか」
「三十分」
「本当に?」
「準備を含めれば四十分」
「増えましたね」
「移動を含めて五十分以内には終える」
「今後の交渉では、最初から最大値を言ってください」
「善処する」
しない返事だった。
俺は時計を確認した。
午後四時二十八分。
今から五十分なら、家に着くのは六時前になる。特に予定はない。母にも帰宅時間を伝えるほどではない。
行く理由はない。
ただ、これ以上断り続けるのも、すでに一つの活動になりかけていた。
「一度だけです」
言った直後、小夜先輩の表情が明るくなった。
分かりやすい。
「賢明な判断だ」
「断るのが面倒になっただけです」
「参加の動機は問わない。重要なのは観測者が二名になったことだ」
「部員になったわけではありませんからね」
「分かっている」
「次の勧誘へつなげる前提で聞いてませんか」
「そういう意図はない」
一瞬、返答が遅れた。
「あったんですね」
「可能性を完全に排除する必要はないと思っただけだ」
「もう帰っていいですか」
「調査に参加してからなら」
小夜先輩は校舎の奥を指した。
その仕草には、先ほどまでの交渉中の慎重さがもう残っていない。俺が参加すると決まった瞬間、話は次の段階へ進んだらしい。
「資料は部室にある。先に噂の内容と過去の記録を確認してもらう」
「見るだけではなかったんですか」
「何を見るか知らずに観測しても意味がない」
「三十分という話は」
「説明を簡潔にすれば間に合う」
小夜先輩は数歩進み、振り返った。
「どうした。時間が惜しいのだろう」
「誰のせいで使うことになったと思ってるんですか」
「有意義に使えば損失ではない」
「結果が出てから言ってください」
俺は小さく息を吐き、その後を追った。
銀色の髪が、人の少なくなった廊下の先で揺れている。
来たときより、歩く速度が明らかに速い。
よほど嬉しいらしい。
俺としては、まだ同好会の名前すら正確に覚えていなかった。
地域文化なんとか調査会。
実態は、銀髪の小柄な先輩が一人で怪談を調べている集まり。
どう考えても、近づかない方がいい。
それでも俺は、その先輩の背中を追っていた。
一度だけ。
何も起きなければ、今日限り。
その時点では、本当にそうなると思っていた。




