第2話 鏡越しの恋心、届かぬ「おはよう」
鏡の向こうにいたのは、5歳くらいの女の子。
肩までの長さの、艶やかなまっすぐな黒髪。そして瞳も同じ色。
レーリアと、違う髪と瞳の色だけど、でも俺にはすぐに彼女だと分かった。
「地球で選んだ地に住む者と同じ人種となるように、魔法を自分に掛けたようだ。そしてすぐに、自分の記憶を消した。それがレーリアの最後の魔法だよ」
「……そう、ですか……」
言葉が、出ない。
「レーリアは、名を『藤森 彩花』と変え、幼稚園とやらに通い、楽しく毎日を過ごしているようだ」
皇帝陛下の声が、ぼんやりと俺の耳に流れてくる。
フジモリ……アヤカ…それが、レーリアの新しい名前。
不思議と、違和感が無かった。それよりも、レーリアの様子をずっと見ていたかった。
顔かたちは変わらないのに、随分と印象が変わっているような気がする。髪や瞳の色が変わったからなのか。
表情も、こちらにいた時よりもあどけない。記憶を、消しているからだろうか。
眉を寄せて、俺のほうをじっと見て、前髪をいじっている。
「うーん……ハネが直らないなあ……お母さんにドライヤー掛けてもらおうかなあ」
そう小さく呟いた声は、紛れもなくレーリアのものだった。
俺の心臓が、止まりそうになった。
会いたかった。ずっと、きみに会いたかった。
いなくなって、きみが俺の中で、どれだけ大きな存在だったかということを、嫌というほど知らされた。
きみがいないアステリアは、まるで太陽を失った世界のように感じた。
何度思っただろう。
レーリア、戻ってきて。戦争、起きてもいいじゃないか。きっとアステリア国は、どこの国にも負けないよ。きみがいないなんて嫌だ。
そう思った瞬間、俺はなんて恥ずべきことを心に浮かべたのだろうと、一人赤面した。
レーリアは、自分自身のことよりも、この世界のために、一人アステリアから離れたんだ。なのに、何も出来ない俺がそんなことを思うなんて。
こんな俺じゃ、レーリアを護る資格なんてない。
それから俺は、泣き言を口にしなくなった。言えば言うほど情けなくなるのに気づいたから。
そしてレーリアに一番早く会える方法は、俺が強くなると知ったから。
誰よりも、強くなりたい。この世界のどんな脅威からも、彼女を護れる強さが欲しい。
覚悟を決めた俺は、今までよりもずっと魔法も剣術も覚えがよくなったような気がする。
心構えって、大きな力なんだと、初めて知った。
だけどその代わり、俺は笑顔を浮かべることを忘れてしまった。
笑うって、どうすればいいんだろう。
レーリアがいた頃は、二人でよく転げるように笑っていたのに。
彼女がいなくなった途端、俺は笑い方をすっかりと忘れてしまったようだ。
そして心に、ぽっかりと穴が開いているのを自覚する。それが何なのか、分かってはいるけれど考えないようにしてきた。
言葉にすれば、それはグチになる。だから、誰にも何も……俺の思い、考え、全て誰にも告げずに、ただ鍛錬だけを続けてきたんだ。
だけど……やっと会えた。
元気そうな様子で良かった。髪と瞳の色を変えるだけで、こんなにも人って雰囲気が変わるんだな。
嫌、やっぱり色のせいだけじゃないかもしれない。
大人びた眼差しを持った頃のレーリアは、時折ぞっとするくらい神聖な雰囲気を醸し出していたけれど、今の彼女は、小さな唇を軽く尖らせて、上目遣いで前髪を気にしている。年齢相応の、とても可愛い表情だった。
じっと彼女の様子を見つめていたんだけど、段々視界がぼやけてくる。あれ、おかしいな。
そう思っていたら、肩に重みがかかり、驚いたような陛下が俺を覗き込んできた。
「ラディ、ラディ。大丈夫かね?」
陛下はそう言いながら、俺にハンカチを差し出した。
ハンカチ……? どうして。
はっと俺は気づき、頬に手を当てた。すると、そこが濡れている。
俺は慌てて、服の袖でごしごしと目元を擦った。
「ああ、そんなに強く擦ったら、目が傷ついてしまうよ」
お優しい陛下は、そう言葉を下さったけど、俺は恥ずかしい思いでいっぱいだった。
泣かないって決めたのに。きみの姿を見れただけで、涙が出てくるなんて。
でも、良かった。元気そうな姿を見れて、心から嬉しかった。
涙が引っ込んだ俺を見て、陛下は何度か頷き、ぽんと俺の頭に手を載せた。
「ラディ、レーリアに、餞別をくれたそうだね?」
餞別だなんて……大したものじゃない。
城下町に行ったときに見かけた、丸い手鏡。赤い漆が塗ってあり、可愛らしい絵柄が描いてあった。
レーリアに使ってもらいたくて、思わず購入したんだけど、何となく手渡しそびれてしまった。
それを地球へと旅立つ前の日に、俺の部屋へと来てくれた彼女に渡したんだ。
そうしたら、レーリアはとても嬉しそうに受け取ってくれて、それを地球へと持参する鞄に仕舞った。
そしてそのまま、俺たちはベッドに潜り込み、最後のおしゃべりを楽しんで、そのまま眠ってしまった。
俺とレーリアは、男女なのだからと、もう一緒のベッドに寝るのは禁止されていた。だから、レーリアはこっそりと俺の部屋へと来たつもりだったようだが、皇帝陛下たちにはすっかりとお見通しだったようだ。
「まあ、最後の夜くらいは、レーリアのしたいようにさせてやろうかと思ったのだよ。夜中にこっそりと、お前の部屋を覗いたら、二人楽しそうな顔を浮かべて熟睡をしていた。レーリアはそれはもう、幸せそうな寝顔だったよ」
そうか……そうか。
レーリアは最後の夜、俺を選んでくれたんだ。
そして何度もベッドの中で、囁いてくれた言葉。
「好きよ、ラディ、大好き。だから迎えに来てね、待ってるからね」
そう、言ってくれた。
その言葉の意味を、まだこの時の俺は分からなかった。ただ、俺を選んでくれた。そのことだけが、嬉しかった。
皇帝陛下は、にこりと微笑んで、
「レーリアの鞄の中身をそっと確かめたら、見慣れない鏡を見つけてね。きっとラディが贈ったものなのだろうと思った。そこで私は、その鏡に術を施した」
「……まさか、それが、この……?」
「そうだ。お前のくれた手鏡を通して、こちらの世界とあちらの世界を 繋ぐことにした。私も親だからね、娘のことが心配でならないのだよ」
陛下は悪戯っぽく片目を閉じ、俺に鏡を地球へと繋げる魔術を教えてくれた。
「ただ、いいかね、ラディ。地球からの言葉は、こちらへと届く。だが、こちらからの言葉は、レーリアには届かない。ずっと、一方通行だ。それでも構わなければ、いつでもこの部屋へ来るといい」
いい。それでも。
レーリアに会えるんだったら。元気な姿を垣間見れるのだったら、今までよりも遥かにいい。
「はい、陛下、ありがとうございます!」
大きく頭を下げた俺に、暖かい笑みを浮かべた陛下は、最後にこちらを見つめながらも首を傾げているレーリアに目を向け、そして部屋を出て行った。
残された俺は、スツールに腰掛けた。
レーリア、俺、頑張ってるよ。早くきみに会いたいから。
だから、これからも頑張る。
きみに会えるその日まで、ここにくればきみを見守ることが出来る……この時間が、きっと俺の力になる。
心の中で呟き、手を伸ばした。
冷たい鏡に触れる。もう少し。あと少しで、きみに届きそうなのに。
決して触れることの出来ないもどかしさ。
少しだけ、切ない思いが胸をよぎった。
それから毎日、鏡の前に座り、レーリアの成長する様を見続けてきた。
俺の身長が伸びるのに合わせるかのように、レーリア……いや、彩花もまた大人びていった。
もう、少女とは言えない年になった彼女を、今日もまた俺は異世界から見守っている。
彩花は鏡の向こうで、俺の前に腰掛けて、肩の下まで伸びた髪を梳かしている。紺色の制服に、赤いリボンが愛らしい。
「おはよう、彩花。勉強、頑張って。俺も今日から、結界を張る特訓を受けるんだ」
今日も俺は、彼女に声を掛ける。返事は、当然無い。それでも良かった。この時までは。
彩花は、一瞬俺の視界から消えると、スティック状のものを取り出した。そして顔を俺のほうにぐっと寄せ、唇を薄く開き、それを塗り始めた。
心臓が、バクバクしてくる。
ゆっくりと瞬きをする、その黒瞳。桜色の唇。そして仕上げ終わり、僅かに浮かべた微笑。
そのどれもが、俺の心を掴んで離さない。
俺は震える手で、鏡に触れた。
その向こうにいる彼女は、立ち上がり、鞄を手にして部屋を出て行く。
触れたい。なのに、触れられない。こんなにも、傍にいるのに。
冷たい、滑らかな鏡から手を離し、ぐっと拳を握り締めた。
会いたい、会いたい。触れて抱きしめて、そして……
胸が張り裂けそうになる、この想い。
俺は、ずっとレーリアのことが好きだった。その好きという意味と、今の想いは全く違う。
ずっと彼女を見守ってきた数年間で、薄々感づいていたが、この日はっきりと分かった。
俺は、レーリアに……彩花に、恋をした。
胸が、苦しい……。
逢いたい。
ただその言葉だけが、俺の心を占めていった。




