第1話 白詰草(シロツメクサ)の誓い、鏡に映る面影
……よく寝てる。
せっかく大きなベッドなのに、レーリアはいつも隅の方に移動して、それでも幸せそうな顔で眠っている。
早起きの俺は、身支度を整えるまでの時間、こうしてレーリアの寝顔を眺めるのが日課だった。
結婚して、もうどれくらいになるだろう。ああ、そうか、もうすぐ3年が過ぎる。
だけど俺のレーリアに対する気持ちは、あの頃から一切変化はない。そしてレーリアは、記憶を取り戻してからというもの、俺に恥ずかしそうにだけど、態度を変えてくれるようになった。
時々……本当に、時々。
顔を真っ赤にして、
「愛してる、ラディ」
って、そう言ってくれるようになった。
それがどれだけ嬉しいか。
もちろん、俺も。
そう応えるけど、内心はとてもそんな言葉だけじゃ足りない。
愛してる。いつだって、どんな時だって、俺の心を占めているのはきみなんだ。
きみのことしか、考えられない。他のありとあらゆることは、どうでもいい。レーリア、きみさえいれば、俺はどんな過酷な運命にも耐えていける自信がある。
そう思うけど、俺はレーリアよりも辛い思いをしたことがない。
5歳のとき、たった一人家族から離れ、地球で成人の儀まで生きることを選んだ彼女の心の強さ。それにまだ、俺は追いつかない。
たった5歳のレーリアに、まだ俺は追いついていないんだ。
憧れ? 尊敬?
そのどれとも違う、あの頃の俺の、レーリアに対する気持ち。
まだ、好きって感情を知らなかったあの頃。
俺は、大人びた眼差しを持つレーリアに、依存していた。それを思い返すと歯がゆく、恥ずかしく。居た堪れない気持ちになるけど、でも。
俺ときみとの大切な思い出。そして、きみがアステリアから消えた後のこと。
少し、思い出そうか。きみの可愛らしい寝顔を見つめながら。
遠いあの日の、思い出を。
レーリアは、シロツメクサの密生した庭で、王冠とかネックレスとか。よく、そんなものを作っていた。
そして出来上がったそれを、城の者たちにあげていた。
彼らが、それをもらって喜ぶ事を知っていたから。レーリアから貰ったもの。それだけで、彼らは少しでも祝福を得られると信じているということを、彼女は知っているから。
だから彼女は、今の自分に出来ること……こうして、シロツメクサを摘んで、小さな王冠を作っているんだ。
俺は器用に茎を編みこむレーリアの小さな手元を覗き込んで、感心したものだ。
「すごいね、どうして千切れないの?」
「ふふ、力を入れすぎたら駄目なのよ。優しく、でもほどけないように。ラディもやってみる?」
眩い金髪を揺らし、俺を見上げるその眼差しは、あの晴れ渡った空の色だった。
綺麗だな……この城に住む者、誰も持つことがない色。
レーリアが、『祝福の女神』だからなのか。それとも、『蒼の一族』と『虹の一族』の掛け合わせだからなのか分からない。
唯一つ言えることは、俺はとてもレーリアの瞳の色が好きだってことだけだ。
だけど俺は首を振り、レーリアの隣で足を伸ばして座り込んだ。
彼女は5歳。俺は7歳だった。
この城には、大人ばかりが生活している。両親を流行り病で亡くし、遠縁の俺を引き取ってくれた皇帝陛下は、城の中の一室に俺の居場所を作ってくれた。
心から感謝したが、同時にそのことに驚いた。
会うもの全て、大人だけなんて。
だが、数名例外がいた。それが、皇帝陛下の子供たちだ。
俺よりも3歳年長の、長男イスランは、典型的なガキ大将で。年中城下町へ一人で赴き、そして連れてきた市井の子供……つまり、彼の手下と共に、楽しそうに城の中を闊歩していた。
彼に捕まると、俺は体のいい手下の一人と成り下がり、稽古と称したしごきを受けるはめになるので、なるべくイスランとは関わりたくなかった。
最後は、泣かされるのがおちだった。泣き虫の俺には、それが辛かった。
俺よりも半年ほど年長の次男シェニムは、イスランと正反対で、いつも本を持ち歩いている印象がある。
そして俺の顔を見るなり、難しい質問をしてきて、俺が応えられないと、明らかにがっかりしたような顔をした。
「何です、このくらい理解していなくては、将来レーリアの役に立つことなんて出来ませんよ。ましてやこのアステリアを率いていくことなど、とても無理なことですよ」
彼の脳の構造は、どうなっているのか。同じ年だというのに、明らかに俺とは出来が違う。それに付いていけというのは無理というもの。
だが、顔を見合わせれば、シェニムはまるで教師のように、俺に勉強を押し付けようとする。主に、魔術関係。
俺には魔力はあるものの、その複雑極まりない学問がとても苦手だった俺は、シェニムとの接触も限りなく避けていた。
そしてもう一人、最後の皇帝陛下の子供は、とても可愛らしい、穏やかな雰囲気を持っている女の子……レーリアだった。
彼女は、俺がイスランやシェニムから逃げ出してくると、柔らかな微笑みを浮かべて受け入れてくれた。
居心地のいい場所。
レーリアの隣は、とても気持ちよかった。
俺が駄目なところはちゃんと見てくれて教えてくれるし、頑張ったときには褒めてくれた。
年下の女の子なのに、彼女と話をしている時は、全くそんなことが気にならなかった。
ただ、純粋に嬉しかった。
レーリアが、俺を見てくれている。
レーリアが、俺だけに話をしてくれている。
そして、笑みを浮かべてくれている。
それだけで、俺は十分心が暖かくなり、両親を失った辛さから解放されることが出来た。
だから俺は、辛い時は必ずシロツメクサの庭に足を運んだ。そこに、彼女がいるから。眩しい金髪を揺らし、振り返り、にこりと笑う。
「どうしたの、ラディ?」
その言葉が、欲しいから。
だけどもう、彼女はいない。
数百年に一度生まれる、『祝福の女神』。それがレーリアの望まざる立場だった。
それを俺は知っていたけど、でも現実味帯びて考えたことなど無かった。
俺にとっては、レーリアは『祝福の女神』なんか関係ない。
ただ、明るくいつも微笑んでいて、城の者たちとも気さくに話をしていて。
ある日突然やってきた俺にも、すぐに優しくしてくれた。
「ラナディートっていうの? そう、……うーん、わたし、あなたと仲良くなりたいな。だから、ラディって呼んでもいい?」
俺と、仲良くなりたい。
そう言ってくれた彼女の笑顔は、とても可愛かった。両親を亡くし、泣いてばかりいた俺の傍にずっと一緒にいてくれた彼女の手は、とても暖かかった。
だけど今はもう……レーリアは、地球に一人で行ってしまった。
アステリアの混乱を、避けるために。
彼女を巡る争いが、起きないために。
凄い決断をしたね、レーリア。
確かにその後、レーリアが行方不明となってからは、各国がやっきになってきみを捜索しているよ。他国へ秘密裏に探る様子もあるようだけど。表立っての混乱は見当たらない。
まさか、異世界へとたった一人……違うか。レーリアが心から信頼していた使い魔と共に旅立ったなんて、誰も思わないだろう。
これは、アステリア王族だけの秘密。この秘密、絶対守るから。
きみを護るためにも。
護るよ……絶対、護りに行く。
だけど今はまだ、力が足りない。
剣を長時間持っていることさえ出来ない非力な俺。魔力を思うように使えない、情けない俺。
そんな俺に、イスランとシェニムが足りないところを教えてくれる。そして、鍛えてくれている。
だからきっと、もう少し大人になって、きみの封印していた魔力が零れる前には行けるようになる。
たまに、辛くなって、誰もいないシロツメクサの庭に訪れる。
そこに、きみはいない。分かっている。
だけどここに来るだけで、きみのあの笑顔に逢えるような気がした。
『ラディ』
そう呼んでくれる声が、聞こえるような気がした。
花を、一つ摘んだ。風に揺れるそれを眺め、俺は空を見上げた。
きみの瞳のような、綺麗な青空。
「……会いたい」
そう呟いた俺の言葉は、緩やかな風と共に消え、そしてその日。
俺は皇帝陛下から、驚くべき言葉を賜った。
「ラディ、レーリアを見てみたいか?」
「え……! レーリア、戻ってくるんですか?」
「いや、そうではない。お前がまだ、心を鍛えている間は、会わさない方が良いと思っていたのだが。大分お前も成長してきたようだし、もう大丈夫だろうと、イスランも言うのでな」
何のことだかさっぱりと分からない俺を連れ、陛下が赴いた場所は、レーリアの部屋だった。
まだ、彼女の香りが残るこの部屋のドレッサーの前に腰掛け、陛下は鏡に手を翳した。
そして次の瞬間、俺は盛大に目を見開いた。
ずっとずっと会いたかった彼女が、そこにいた。




