⑨神谷からの心のこもったプレゼント
美月はお風呂が苦手だった。
お風呂に入って洗髪したり体を洗ったりしていると昔の嫌な過去を思い出してしまう。
それを神谷に相談した。
すると神谷からラコンテのシャンプー、トリートメント、ボディウォッシュが送られてきた。
美月がお礼の電話をする。
「神谷さん、ありがとうございました」
美月は電話の向こうで、少し照れたように笑った。
「シャンプーもトリートメントも、ボディウォッシュも……全部送ってくださって。こんなにしてもらっていいんですか?」
「いいんだよ。前に、お風呂が苦手だって言っていただろう?」
「はい……」
「使ってみて、どうだった?」
「すごくいい香りでした。泡立ちも気持ちよくて……いつもより、お風呂に入っている時間が嫌じゃなかったです」
「それならよかった」
神谷の声は、いつものように穏やかだった。
少し沈黙があってから、美月が言った。
「……でも、不思議です」
「何が?」
「お風呂に入ると、昔の嫌なことを思い出してしまうのに、今日はあまり思い出さなかったんです」
「それはね、美月さん。お風呂そのものが嫌いというより、お風呂に入ったときに生まれる時間と感覚が、過去の記憶と結びついているのかもしれない」
「記憶と……?」
「うん」
神谷は少し考えてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「人間の記憶って、出来事だけを覚えているわけじゃないんだ。匂いとか、音とか、温度とか、身体の感覚と一緒に記憶されることがある」
「……だから、お風呂に入ると?」
「そう。静かな場所で一人になって、髪を洗ったり、身体を洗ったりする。その時間に昔のことを考えることが何度も続くと、『お風呂に入る』という行為と『嫌な記憶を思い出す』ことがセットになってしまうことがあるんだ」
美月は黙って聞いていた。
「だから、無理に『思い出さないようにしよう』としなくていい」
「でも、思い出したくないです」
「うん。そうだよね」
神谷は否定しなかった。
「だから、少しずつ別の経験を重ねていけばいいんだよ」
「別の経験……?」
「今日使ったシャンプーの香りもそうだね。泡の感触とか、温かさとか、『今日は気持ちよかったな』という感覚を少しずつ増やしていく」
「それで変わるんですか?」
「すぐに全部変わるわけじゃないよ。でも、脳は新しい経験もちゃんと覚えていくからね」
神谷は優しく続けた。
「『お風呂に入ると嫌なことを思い出す』だけだったところに、『この香りは好き』『この時間は少し落ち着く』『今日は漫画の続きを考えていた』という新しい記憶を少しずつ重ねていく」
「……嫌な記憶を消すんじゃなくて?」
「そう。消そうとしなくていい」
その言葉に、美月は少し安心した。
「過去の記憶は、無理やり消そうとすると、かえって意識してしまうこともあるからね」
「じゃあ……嫌なことを思い出してしまっても?」
「『ああ、また思い出したな』くらいでいいよ」
「そんなに簡単にできるかな……」
「最初は難しいと思う」
神谷は笑った。
「だから、まずはお風呂を『我慢する場所』にしないことだね」
「我慢する場所……」
「うん。全部ちゃんと洗わなきゃ、と頑張らなくてもいい。今日は髪を洗ったら早めに出よう、とか。好きな香りのものを使おう、とか。お風呂上がりに好きな飲み物を飲もう、とか」
「……自分で、少し楽しいことを作る?」
「そう。それでいい」
美月は、ラコンテのボトルを思い出した。
「神谷さんが送ってくれたものを使って……少しずつ、変えていってもいいんですね」
「もちろん」
神谷はそこで、少しだけ声を落とした。
「ただね、美月さん。僕が送ったものがないとお風呂に入れない、ということにはしないでほしい」
「え?」
「僕が何かをしてあげることで楽になるんじゃなくて、美月さん自身が『これなら大丈夫』と思えるものを増やしてほしいんだ」
美月はしばらく黙っていた。
その言葉が、胸に残った。
「……神谷さんって、本当に先生みたいですね」
「一応、精神科医だからね」
二人で小さく笑った。
「じゃあ、明日からもう少しお風呂を好きになれるようにしてみます」
「うん。それで十分だよ」
「ありがとうございました」
「こちらこそ。使ってくれてありがとう」
通話を切ったあと、美月は浴室へ向かった。
棚に並んだシャンプーとトリートメントとボディウォッシュを見つめる。
ふたを開ける。
ふわりと、柔らかな香りが広がった。
美月は目を閉じた。
昔の記憶ではない。
今、この瞬間の香りだった。
(……少しずつでいいんだ)
そう思って、美月はシャワーの蛇口をひねった。
美月は外出も苦手だった。
外に出ると人目が気になって気が気でなくなる。
そのことも神谷に相談していた。
すると
数日後。
美月のもとに、小さな箱が届いた。
箱を開けると、中にはディオールの香水が入っていた。
「……ディオール?」
美月はしばらく、その箱を眺めていた。
そして、すぐに神谷へ電話をかけた。
「神谷さん、届きました……」
「ああ。届いた?」
「届きましたけど……どうして香水なんですか?」
神谷は少し笑った。
「前に話していただろう? 外に出ると、人の目が気になって仕方がないって」
「はい……」
「だから、ちょっとしたお守りになるものがあればいいかなと思って」
「お守り……?」
「うん」
美月は香水の瓶を手の中でそっと回した。
「でも、香水をつけたからって、人の目が気にならなくなるわけじゃないですよね?」
「もちろん。香水にそんな魔法はないよ」
神谷が笑う。
「じゃあ、どうして……?」
「外に出ると、美月さんは周りの人のことばかり気にしてしまうんだよね」
「……はい」
「だったら、外に出る前に香水をつけるという、自分自身に意識を戻す習慣を作ってみたらどうかなと思ったんだ」
美月は黙って聞いていた。
「外に出た瞬間に、『今、誰かが私を見た』『あの人、私のことを見てる』って、周りに意識が向いてしまうでしょう?」
「はい……すごく」
「そのときに、『あ、香りがする』って、自分の感覚に戻ってくるんだ」
「自分の感覚に……」
「そう。香りそのものを楽しんでもいい。『今日はこの香りをつけた』と思ってもいい。ほんの数秒でも、自分の内側に意識を戻せればいいんだ」
美月は香水の瓶を見つめた。
「でも……私、こんな高いものをもらっていいんですか?」
「気にしなくていいよ。僕が無理をして買ったものじゃないから」
「でも……」
「それに、美月さんが僕に何か返す必要もない」
神谷の声は穏やかだった。
「これは、美月さんを僕に頼らせるために贈ったものじゃないからね」
美月の胸が、少しだけ温かくなる。
「むしろ逆だよ」
「逆?」
「僕がいないところでも、美月さんが少し安心して外に出られるようになればいいと思ってる」
その言葉に、美月は返事ができなかった。
「……神谷さんって、ずるいですね」
「どうして?」
「そんなこと言われたら……嬉しくなります」
神谷は小さく笑った。
「じゃあ、少しだけ手首につけてみて」
「今ですか?」
「うん。香りが強すぎないように、ほんの少しでいい」
美月は箱から香水を取り出した。
手首に、ほんの少し。
そして鼻を近づける。
ふわりと香りが広がった。
「……いい匂い」
「気に入った?」
「はい」
「それなら、明日、近所まで出てみたらいい」
「近所……」
「コンビニでもいい。五分でもいい。外に出て、人の目が気になってもいい」
「気になっても?」
「うん」
神谷は静かに言った。
「目が気になることと、外に出られないことは同じじゃないからね」
美月はその言葉を繰り返すように呟いた。
「……気になっても、出ていい」
「そう」
「怖くても?」
「怖くてもいい」
「人に見られてる気がしても?」
「それでもいい」
神谷は優しく続けた。
「『怖くないから外に出る』んじゃなくて、『怖いけれど、少しだけ出てみる』でもいいんだよ」
美月は香水の瓶を胸元に抱えた。
「……明日、コンビニまで行ってみます」
「うん」
「この香水をつけて」
「うん。でも、香水がなくても外に出られるようになることが一番だからね」
美月は笑った。
「はい」
通話を切ったあと、美月はもう一度香水を手首につけた。
鏡の前に立つ。
いつもの自分。
何も変わっていない。
人の目が怖い自分も、そのままだ。
それでも――
(明日は、コンビニまで)
美月は小さく決心した。
香りが、ほんの少しだけ、自分の周りに残っていた。
それは誰かに見てもらうための香りではなかった。
自分が自分でいるための、小さなお守りだった。
美月は明らかに変化していった。
苦手だった入浴も以前とは比べ物にならないほど苦痛ではなくなったし、外出も少し人目は気になるが圧倒的に前よりもらくになった。
外に出て少し不安な時はディオールの香水をつけた手首を少し嗅いでみる。
いい匂いがして、まるで神谷がそばにいてくれているような心強さを感じた。
あるとき、パジャマが破れてしまったと話していた美月に神谷からプレゼントが届いた。 ジェラートピケのルームウェアが色違いで2着届いたのだ。
ジェラートピケは美月が憧れていたブランドだったがもちろん美月にはそれを買う余裕がない。 ましてや神谷にジェラートピケが好きだとは一言も言っていない。
数日前、美月は何気なく神谷に話していた。
「この前、パジャマが破れちゃって……」
それだけだった。
新しいものを買わなければと思いながら、結局まだ買っていない。
家にあるもので十分だと思っていたし、わざわざ高いものを買う余裕もなかった。
だから、届いた荷物を開けたとき、美月は言葉を失った。
箱の中には、ふわふわとしたルームウェアが二着。
色違いだった。
タグを見て、美月の目が大きくなる。
「……ジェラート ピケ……」
思わず、声が漏れた。
知っている。
ずっと憧れていたブランドだった。
店の前を通るたびに、ショーウィンドウに並んだ柔らかな色のルームウェアを眺めていた。
かわいい。
一度でいいから、着てみたい。
そう思っていた。
でも、自分には少し贅沢すぎる。
だから、買ったことは一度もない。
もちろん神谷にも言ったことはなかった。
「ジェラート ピケが好き」なんて、一度も。
美月は二着のルームウェアをベッドの上に並べた。
淡い色と、もう一着は少し違う色。
どちらも自分では選べないような、きれいな色だった。
「……なんで?」
偶然なのだろう。
神谷はたまたま選んだだけなのかもしれない。
それでも。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
自分が憧れていたものを。
自分が欲しいと思っていたものを。
神谷が選んでくれた。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
美月はルームウェアにそっと触れた。
ふわふわしている。
頬に当ててみる。
思わず笑みがこぼれた。
「……かわいい」
しばらく眺めていたが、やっぱり直接お礼を言いたくなった。
美月はスマートフォンを手に取り、神谷へLINE通話をした。
数回の呼び出し音のあと、神谷が出た。
「もしもし、美月さん?」
「神谷さん……」
嬉しさが先に込み上げて、声が少し震えた。
「届きました」
「ああ。よかった」
「ありがとうございます」
「気に入った?」
「……はい」
少し間を置いて、美月は言った。
「でも……びっくりしました」
「何が?」
「これ……ジェラート ピケですよね?」
「ああ」
「私、好きなんです」
言ってから、美月は少し恥ずかしくなった。
「……でも、神谷さんには一度も言ってないですよね?」
「うん。聞いた覚えはないね」
「ですよね」
美月は笑った。
「私、ずっと憧れてたんです。でも、自分ではなかなか買えなくて……」
「そうだったんだ」
「はい」
美月はベッドの上の二着を見つめた。
「だから……すごく嬉しいです」
「それならよかった」
神谷の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「パジャマが破れたって言っていただろう? 新しいものが必要なら、せっかくだから美月さんが気持ちよく眠れるものがいいと思って」
「……それで、これを?」
「うん」
「どうしてジェラート ピケだったんですか?」
神谷は少し考えてから答えた。
「なんとなく、美月さんに似合いそうだと思ったんだ」
その一言に、美月の胸が跳ねた。
「……私に?」
「うん」
「……似合いそうって」
「柔らかい雰囲気があるからね」
美月は何も言えなくなった。
顔が熱くなる。
神谷はそんな美月の様子を知る由もなく、続けた。
「色違いにしたのは、どちらが好きか分からなかったから。気分で好きなほうを着ればいいよ」
「……二着も」
「毎日着るものだから、二着にしといたよ。」
「でも……」
美月は、二着のルームウェアを見つめた。
嬉しい。
本当に嬉しい。
高価なものをもらったからではない。
神谷が、自分の何気ない一言を覚えていてくれた。
そして、そのためにわざわざ選んでくれた。
そのことが嬉しかった。
「神谷さん」
「うん?」
「大切にします」
その言葉を聞いて、神谷は少し笑った。
「大切にしなくていいよ」
「え?」
「普段着なんだから。いっぱい着て、いっぱい洗って、古くなったらまた買えばいい」
「……また?」
「ああ」
神谷は何気なく答えた。
「パジャマなんだから、使うためにあるんだよ」
美月は小さく笑った。
「……はい」
そして電話を切ったあとも、しばらくスマートフォンを胸元に抱えていた。
もう一度、ベッドの上のルームウェアを見る。
自分には手が届かないと思っていたもの。
それを今、自分の手で触れている。
「……神谷さんが選んでくれたんだ」
その事実が、何度考えても嬉しかった。
そして美月は、その夜初めてジェラート ピケのルームウェアに袖を通した。
鏡の前に立つ。
ふわりとした生地が身体を包む。
(気持ちいい)
鏡の中の自分に向かって、美月は小さく笑った。
その夜は、不思議なくらいよく眠れた。
次の日の朝美月は久しぶりに気持ちよく起きれた。
そして小説の執筆をすぐに始めた。
朝ご飯も食べずに。
やる気がみなぎっていた。
ジェラートピケのウェアを着ていることで神谷を近くに感じられる。
応援してくれている人がいる。
そう実感できて美月は満たされていた。




