⑧支援者は既婚者だった。
それからことあるごとに美月は神谷に通話した。
日常的な出来事、少し不安に思っていること、
まるで神谷は古くからの友人のような存在になっていった。
又神谷からも連絡が来るようになった。
仕事の事、たわいもない事。
二人の波長は驚くほど合っていた。
話すだけで癒されるような、そんな感覚。
時にはお互い用事をしながら無言でいることもあった。
沈黙すらも苦痛にならない。
気心のしれた古くからの友人。
いや、もはや恋人のような感覚と言ってもいいのかもしれない。
美月は少しときめいていた。
今まで誰ともつきあったこともない、誰も好きになったことのない美月。
もしかして、これが好きってこと????
そして美月は気になっていたことを神谷に聞いてみた。
「神谷さんって彼女さんとかいらっしゃるんですか?」
「彼女、というより……結婚しています」
美月が一瞬固まった。
「あ、そうなんですね」
美月は平静を装った。
「子どももいます。まだ小さいんですよ」
「何歳なんですか?」
「まだ3歳なんですよ。男の子なんです」
胸の奥が、すっと冷えていく。
なぜだろう。
神谷に彼女がいたとしても、結婚していたとしても、自分には関係のないことだ。
そもそも、二人は恋人でもない。
神谷はただ、自分の話を聞いてくれる人。
自分が勝手に親しみを感じていただけだ。
そう思おうとした。
「そうなんですね」
美月はそれだけ何とか言った。
「全然知りませんでした」
「言う機会がなかったですからね」
「そうですよね」
胸が痛かった。
それがどうしてなのか、美月にはもう分かっていた。
自分はいつの間にか、神谷に特別な気持ちを抱いていたのだ。
父親のような安心感。
何でも受け止めてくれる優しさ。
自分を大切にしてくれるような言葉。
そのすべてが、いつの間にか一人の男性としての神谷への想いに変わっていた。
けれど、その想いを口にすることはできない。
神谷には妻がいて、小さな子どもがいる。
美月は通話を切るとスマートフォンを伏せた。
「……そっか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
涙が出るほどではなかった。
それでも、胸の奥には確かな痛みがあった。
そして美月は、その夜初めて、自分の中に芽生えていた小さな恋心を、そっと胸の奥へしまい込んだ。
神谷も又心の動揺を隠せなかった。
「結婚しています」
そう言った後、胸の奥が妙にざわついていた。
美月から「彼女いるんですか?」と聞かれたとき、なぜか一瞬、答えることをためらった。
妻がいる。
子どももいる。
それは隠すようなことではない。
むしろ、もっと早く自分から伝えておくべきだったのだ。
それなのに――。
美月と話す時間が増えていくにつれて、神谷自身も、その関係を心地よいと感じるようになっていた。
美月と会話すると、自然と頬が緩む。
今日は何を話してくれるのだろうと思う。
落ち込んでいると知れば、少しでも力になってやりたいと思う。
それが単なる「心配」なのか、それとも別の感情なのか。
神谷は、まだ深く考えないようにしていた。
だからこそ、美月から「彼女いるんですか?」と聞かれた瞬間、胸の奥に小さな動揺が走った。
もし、自分が独身だったら。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
神谷はすぐに、その考えを打ち消した。
自分には妻がいる。
愛する家族がいる。
そして、自分は医師としても、一人の人間としても、美月を傷つけるようなことをしてはいけない。
「そうなんですね」
美月から返ってきた短い言葉を聞いて、神谷は胸が詰まるような感覚を覚えた。
いつもなら、もう少し何か言ってくる。
けれど今夜の美月は、どこかよそよそしい。
――やはり、ショックだったのだろうか。
そう思った瞬間、神谷の胸が痛んだ。
自分の存在が、美月にとってこんなにも大きくなっていたことに気づいてしまったからだ。
そして同時に、自分にとっても、美月がもう「大勢いる投稿者の一人」ではないことを認めざるを得なかった。
神谷はスマートフォンを伏せた。
「……いけないな」
誰もいない部屋で、低く呟く。
美月を応援したい。
それは本当だった。
だが、その「応援したい」という気持ちの中に、自分でもまだ認めたくない何かが混じり始めている。
それが何なのかを考えることが、神谷には少し怖かった。
いや、できない。
自分は既婚者なのだ。
神谷は自分に言い聞かせるようにそれを強く意識した。
その後も神谷と美月の通話はほぼ毎日続いた。
今までの会話に加えて神谷の妻の事、子供の事も会話に加わった。
妻の理恵は穏やかで聡明なひとであること。
息子の宗一郎はやんちゃ盛りで元気いっぱいなこと。
美月は心の中に少し淋しさを感じながらも明るく返事していた。
ただ土日はやはり家族時間なのだろうか。
神谷からの連絡が途絶える。
美月からも連絡することはない。
神谷は既婚者だ。
土曜日も日曜日も、きっと家族と過ごしている。
それは、美月だって分かっている。
平日の朝には「おはよう」と電話がくる。
仕事が終わる頃には、「今日はどうだった?」と聞いてくれる。
夜になれば、いつものように電話がかかってくる。
それが、いつの間にか美月の一日の中に組み込まれていた。
神谷さんから連絡が来る。
それだけのことが、いつの間にか自分にとって当たり前になっていた。
だから、土曜日になると、その「当たり前」が突然なくなる。
スマートフォンを手に取って神谷のLINE画面をみつめる。
「……私、何やってるんだろ」
自分でも可笑しくなって、少し笑った。
神谷には家庭がある。
自分より大切な人たちと過ごす時間がある。
それを邪魔したくないと思っている。
だから、自分から連絡することもできなかった。
『今日は何してるんですか?』
そんな一言さえ、聞けない。
聞いてしまえば、自分がどれほど神谷からの連絡を待っているのか、知られてしまう気がした。
それに――
電話に出てくれなかったら。
そのほうが、もっと苦しい。
美月はスマートフォンを胸元に抱えた。
「……私、神谷さんから連絡が来るの、待ってるんだ」
口にしてみると、その事実が思った以上に胸に刺さった。
待っている。
会いたいと思っている。
声を聞きたいと思っている。
そして、その相手には帰る場所がある。
自分ではない場所に。
そのことを考えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
(……奥さんと、いるのかな)
考えてから、美月は慌てて首を横に振った。
考えちゃだめだ。
神谷さんは何も悪いことをしていない。
自分にも、何も約束していない。
それなのに。
どうしてこんなに寂しいんだろう。
夕方になっても、スマートフォンは静かなままだった。
美月は画面を開いて、神谷のアイコンを眺める。
最後の電話は、金曜日の夜。
土曜日と日曜日には電話できない。
美月は画面を閉じた。
たった二日。
たった二日なのに。
こんなに長く感じるなんて。
そのとき初めて美月は、自分がもう、神谷との毎日を「なくてはならないもの」として受け入れ始めていることに気づいた。
そして、そのことが一番怖かった。
だからその気持ちを断ち切ろうと決めた。
神谷は何も悪くない。
優しくしてくれた。
自分の作品を認めてくれた。
誰にも言えなかったことを聞いてくれた。
何度も、自分のことを大切に扱ってくれた。
だからこそ、美月は分かっていた。
この人を好きになってはいけない。
神谷には家庭がある。
妻がいて、子どもがいて、自分が帰る場所がある。
自分がそこに入り込んでいいはずがない。
(……私が勝手に好きになっただけだもん)
そう思って、美月は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
二人で話したことも、もらった言葉も、全部大切だった。
だから、それらを嫌いになることではなく――
自分の気持ちを、これ以上育てないことにした。
連絡が来ても、喜ばない。
電話がかかってきても、平常心でいる。
神谷のことを考える時間を少しずつ減らす。
神谷に話したくなったことがあっても、まず自分で考えてみる。
嬉しいことがあったときも、真っ先に神谷へ伝えようとしない。
そして何より――
「神谷さんがいないと駄目」
そんな自分には、絶対にならない。
美月はスマートフォンを伏せた。
胸の奥では、まだ神谷の声が聞こえる気がした。
『美月さんなら大丈夫だよ』
その言葉を思い出すと、涙が一粒落ちた。
「……神谷さんがそう言ってくれたんだから」
美月は涙を拭った。
「私、本当に大丈夫にならなきゃ」
それは、神谷を嫌いになる決心ではなかった。
好きなままでも、離れる。
好きだからこそ、奪わない。
好きだからこそ、自分から追いかけない。
そう強く美月は決心した。
そして、PCに向かった。
小説の原稿を開く。
神谷に見せるためではない。
褒めてもらうためでもない。
自分自身のために描く。
そう思った時、美月の目からまた涙がこぼれた。




